MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
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コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 92 - 旧余市福原漁場⑤ 石倉(ニシンつぶしと漁の終焉)(2021年11月13日/11日め)

2021年11月13日 旧余市福原漁場で。(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


旧余市福原漁場・石倉で、
展示を見学しています。


次は、この漁場で行われていた、
「ニシンつぶし」に関する展示です。


【ニシンつぶし】
身欠ニシンを製造するために、ニシンの腹を裂いて、内臓、数の子、白子、エラを除去する作業のことを言います。水揚げされたニシンは、もっこ背負いが運び、まずは廊下に貯蔵されます。そのまま数日経過すると、カズノコが固まり、ニシンは柔らかくなるので、作業が容易になります。ニシンつぶしの作業は、早朝から始められました。主な働き手は地元の人々(主に女性)で、 出来高による賃金払いを受けたので、「出面取り」と呼ばれました。
廊下:ニシン漁特有の付属施設で、沖揚げしたニシンを加工するまで一時保管しておく建物です。ニシンの出し入れに便利なように、壁を取り外すことができます。ニシン漁の時期が終わると、船を入れておく倉としても使われました。


ニシンつぶしの概要です。(余市水産博物館の画像をお借りしました)

大きな洗い桶がありました。この作業に使ったと思われます。

作業は、ふたり一組になって行われました。ニシンをつぶす作業に徹する「つぶし方」と補助役の「つなぎ方」です。

つぶし方は、こんな台座に座って作業をしました。白子(精嚢)やカズノコ(卵巣)は各々の容器に入れ、エラから口にかけての部分は、藁で結んで天日で干しました。

つぶしたニシンは、補助役の「つなぎ方」がワラに通してつなぎます。そして、天秤棒のかぎにひっかけて、干場に運びました。前後に一連ずつかけても40尾以上になるので、けっこうな重さだったと思います。


この時にニシンを干した場所が、
さきほど見た、「納屋場」だったのです。


納屋場内臓を取り除いたニシンを干し、身欠きニシンを作った場所です。加工した製品は、北前船で日本各地へ出荷されました。

この干場はほんの一部。実際にはもっとたくさんあったはずで、その干場一面にニシンを吊り下げて干していた様子を想像すると、ワクワクしてきます。^^
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 90 - 旧余市福原漁場③ 石倉(北前船)(2021年11月13日/11日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


このときの、私たちの会話です。
み「この木枠のある場所で、一面に、
  ニシンを吊るして干したんだよね!」
夫「そうみたいだね。」
み「きっと、すごい臭いだったんだろうねぇ…。
  もしかして、ハエだらけだった?」
夫「…。😓😓」


納屋場(干場)で数日干したあと、生乾きの状態になると、「さばさきり」という小刀で切り分け、さらに納屋で2週間ほど乾燥させました。これが「身欠ニシン」です。乾物で保存性がよいので、特に山間地のタンパク源として重用され、全国にニシン食文化が広がりました。京都の「にしんそば」、福島県会津地方の「にしん山椒(さんしょう)漬け」など、各地の郷土食にもなりました。(下の写真は、旧花田家番屋で撮ったものです。)
コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 16 - 旧花田家番屋①(ニシン回廊)(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

「ニシンつぶし」の後、除去した部分を煮た大釜です。この作業から、〆粕を作りました。

ヨイチ場所での、ニシン粕焚きのようすです。

煮上がったニシンは、タモ網ですくい取り、シメ胴に移しました。シメ胴は、ニシンの油を搾るための装置です。この中にニシンを入れて、シメ具にかけて搾りました。(下の写真は、旧青山家漁家住宅で撮ったものです。)
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 47 - 北海道開拓の村⑲(旧青山家漁家住宅②文庫倉、石倉、板倉、米倉)/ Coke Onペイと今月のネイル(2021年11月6日/4日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

シメ胴は木製で、古くは角型の枠組みでしたが、その後改良されて、鉄製・円筒形のものになりました。

作業に使用した道具類です。


【無駄のないニシン加工】
「ニシン釜」で煮詰めた鰊は、「角胴」「丸胴」に詰められ、圧力をかけて搾ります。流れ出す液体部分の上澄みからは、「ニシン油」がとられ、一斗缶につめて出荷されました。
「角胴」「丸胴」の中に残ったニシンの「粕」は、「粕切包丁」で切られ、「粕くだき」で砕かれます。くだかれた「粕」は、むしろの上で天日干しにしました。乾いた「粕」は、俵につめて「〆粕(締粕)」として、全国へ出荷されました。
「〆粕」は、効果の高い肥料として、江戸時代後期から全国に流通しました。はじめは、綿花やみかん、菜種、藍、紅花などの商品作物に使われましたが、次第に、稲作や畑作にも広く使われるようになりました。その後、過リン酸石灰などの化成肥料が使われるようになるまで、「〆粕」は、日本の代表的な肥料として使われ続けました。


積み上げられた〆粕(鰊粕)の俵です。一俵の重さは26貫(97.5㎏)。(下の写真は、増毛・千石蔵で撮ったものです。)
コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 13 - 千石蔵①(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


【ニシン漁の歴史】
ニシン漁の最も古い記録は15世紀半ばで、松前や江差などの松前藩領内で行われていました。そのニシン漁が盛んになり始めるのは17世紀後半以降です。松前・江差地方での漁獲量が少なくなると、18世紀中ごろには、商人によって蝦夷地の漁場が開発され、徐々に北上していきました。蝦夷地では、元々アイヌがニシンを獲り、和人との交易の品としていましたが、和人自らがニシンを獲るようになると、アイヌはその労働力に組み込まれて行きました。
やがて、漁場が拡大するのに伴って漁民が増加していきました。大飢饉により、東北地方から多くの和人が出稼ぎにきたことも、漁民増加に拍車をかけました。その後幕末にかけて、ニシンの漁獲量は大幅に増え、主に魚肥に加工され、本州での田畑の肥料として重宝されました。
明治時代になっても、ニシンを中心とした漁業は北海道の主な産業であり、拡大を続けました。この頃に、大規模な番屋が多数建築されており、その一部は、北海道内の各地に今も残っています。
繁栄を極めたニシン漁でしたが、やがて終焉が訪れます。ニシンの来遊が、南から順に途絶えていきました。明治30年代には、秋田、青森、昭和30年には留萌地方でも激減、昭和32年には、日本海における春ニシン漁は完全に幕を下ろすことになりました。


岸に打ち上げられたニシンの山です(大正時代)。「春告魚(はるつげうお)」とも呼ばれるニシンが、産卵のために大群で押し寄せる現象を「群来(くき)」と言いました。大群のニシンによる産卵・放精で、海の色は乳白色になったそうです。余市町におけるニシンの漁獲量は、大正時代が最も多く、1919年(大正9年)には45000トンで、年平均で37000トンを数えました。

以下2枚は、余市町における、最後の群来(くき)の写真です(昭和29年)。このときの春ニシンの群来は7年振りで、3月30日から始まり、漁獲高は250石(45トン)でした。

しかし、この時に獲れたのは大型のニシンばかりで、若いニシンはほとんどいませんでした。それは、翌年以降が不漁であるだろうことを予測させるものでした。


ニシン漁は、
北海道に莫大な富をもたらしましたが、
これ以降、急速に衰退していきます。


海の色が乳白色に変わるほどに押し寄せた、
大漁のニシン。
それは、北海道の豊かな自然の象徴でした。
それが終焉を迎えた最大の原因は、
約100年間続けられた、
人間による乱獲であったと言われています。


ニシン漁が盛んだったころ、群来が始まると、
沖合より沿岸に向かって、
海の色が白く変化しながら、
ニシンの大群が押し寄せました。
余市のお年寄りの方々は、現在でも、
その光景を記憶しているそうです。



あらためて、石倉を眺めました。
ニシン漁で余市が繁栄していた頃、
この石倉には、身欠きニシンやニシン粕などが
大量に保管されていました。
ここで多くの人々が忙しくたち働き、
活気にあふれていたことでしょう。


今はひっそりと静まり返り、
私たちふたりだけが、立ちつくしています。
けれど石倉の中には、あふれんばかりに、
往時の断片が詰まっていました。
それらは、今も私たちに、
様々な情景を語り続けてくれています。


次回は、土倉(文書庫)を訪ねます。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 91 - 旧余市福原漁場④ 石倉(ニシン漁ともっこ背負い)(2021年11月13日/11日め)

2021年11月13日 旧余市福原漁場・石倉で。(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


旧余市福原漁場の、石倉に来ています。



石倉の中です。
北前船の展示を見たあとは、
ニシン漁に関わる膨大な資料を
見て歩きました。


ニシン漁に使われた船です。


【ニシンの漁獲方法】
捕り方には、建網によるものと刺網によるものがありました。ここでは、建網について説明します。
 ①枠船の船底につながれた枠網の中にニシンを追いこみます。
 ②枠網がニシンでいっぱいになると、その枠網を、枠船が陸地近くまで運びます。
 ③大タモを使って、ニシンを汲船に汲み上げます。
 ④汲船が廊下に到着すると、モッコ背負いたちがニシンを加工場に運びます。


漁獲方法を図にしたものです。巨大な網と共に、「枠網をつないだ枠船」、「ニシンを汲み上げた汲船」などが描かれています。(岩内町郷土館の展示図)

海中の断面図です。枠船につながれた枠網の中に、ニシンが追い込まれるようになっています。

上の図から想像すると、ここで展示されていた船は「汲船」のようです。

人力のウインチです。ハンドルを回転させて綱を巻き上げます。ニシンを満載した汲船をこの器具につないで、岸に引き上げました。

こんな感じですね。(模型)

そしてこれは台車のようなものでしょうか。

うれしくって、周りをぐるぐる回って撮ってますね(アホ)

水樽です。船の上で働く漁夫の飲み水を入れました。

龕灯(がんどう)は、ニシンを待って船が沖泊まりするときに使用した照明器具です。

壁一面に掛けられた膨大な資料。

鴨居から吊るしているものまであります。なにをどの順番で見て行けばいいのか、迷います。😂😂

でもやはり、最初に目にはいるのはコレ。たくさんのもっこです。手づくり品だけに、ひとつひとつの形が違っています。

岸に打ち上げられたニシンの山です(大正時代)。このニシンを、ひとりひとりが、背中に背負ったもっこに満載して運びました。

もっこ(実物)です。ニシンのウロコが、今もこびりついたままになっています。^^ もっこは通常、汲船で岸まで運ばれたニシンを、廊下や魚坪まで運ぶために使われました。運ぶ作業をする人を「もっこ背負い(しょい)」といい、一度に20kgのニシンを入れて運んだそうです。左にあるのは、もっこ背負い(もっこしょい)の女性たちが腰に下げた鑑札です。仕事の前に受け取り、仕事の後、この鑑札と引き換えに労賃をもらいました。一日の労賃は、もっこ2杯分のニシンだったそうです。

「大正15年3月吉日」と書いてあるもっこ(複製)です。ここは体験コーナーになっています。20kg分の砂袋を入れて、実際に背負う(または背負えない)体験ができます。笑


もっこを置いている木の椅子は、
展示のための台ではありません。
漁夫がもっこにニシンを入れるときに、
「もっこ背負い」をこの腰掛に座らせました。
もっこの位置を低くすることによって、
ニシンを中に入れやすくするためでした。


そんな腰掛を置くようなスペースが
狭い船の中にあったのだろうか、と思い、
2022年6月に、MIYOが留萌で見た写真を、
拡大してチェックしてみました。


留萌・旧花田家番屋で見た写真です。汲船にぎっしりと詰まったニシンをすくって、もっこの中にどんどん入れているところです。ひとりだけ、こちらに顔を向けているもっこ背負いの女性がいます。もっこにニシンを入れてもらっている最中のようですが、手前の人よりも頭の位置が低いので、たしかに座っていたのかもしれません。
コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 16 - 旧花田家番屋①(ニシン回廊)(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

からのもっこを背負った女性たちは、船の前に列をなしました。その横を、20キロのもっこを背負った女性たちが、しっかりとした足取りで進んでいます。すごい!^^


もっこ背負いの女性たちによって、
ニシンは廊下や魚坪に運ばれました。
次回は、そのあとに始まる、
「ニシンつぶし」をご紹介します。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 90 - 旧余市福原漁場③ 納屋場、雑倉、石倉(北前船)(2021年11月13日/11日め)

2021年11月13日 旧余市福原漁場・石倉で、北前船とともに。(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


旧余市福原漁場に来ています。
網倉、米・味噌倉を見たあとは、
納屋場に行きました。



【納屋場】
内臓を取り除いたニシンを干し、身欠きニシンを作った場所です。加工した製品は、北前船で日本各地へ出荷されました。


納屋場には、干場の一部が、当時のままに残されています。ここで、内臓を取り除いたニシンを干し、身欠きニシンを作りました。


そして、納屋場の隣りには、雑倉の跡があります。



【雑倉】
その名のとおり、さまざまな用具類を保管していた場所です。が、土台だけを復元しており、建物は残っていません。


納屋場を背にして雑倉跡を眺めた写真です。その奥には、白子干場がありました。

網倉の位置から見るとこんな感じです。この方向からだと、左側にある白子干場もわかりやすいですね。

左に雑倉、右に納屋場を見ながら、敷地内の道路を進みました。左手に、石倉が近づいてきました。

石倉です(復元)。


【石倉】
ニシンを加工してできる製品(身欠きニシンやニシン粕など)を保管していた建物です。ニシン加工は、主に女性が従事し、細かい作業分担がなされていました。また、作業には様々な道具が使われました。


幅が約21.3mの、横に長い建物で、倉としてはかなり大きなものです。

ガラス戸を開けて中に入りました。倉の端から端まで続く、約21mの細長いスペースには、漁具やムシロ、大きなタライなどが置かれています。なぜか床が濡れているため、ついさっきまで加工作業をしていたのではないか、と思うような雰囲気です。^^

さらに、石倉の奥へと歩きました。膨大な量の展示品に圧倒されました。

まずは、私たちの大好きな北前船(模型)。何回見ても、ワクワクします。^^

さらにその隣りには、ニシン漁に使った船(実物)もあります。そして壁には、北前船が立ち寄った全国の港を描いた絵が並んでいました。昭和56年頃、地元の郷土史研究家の沢口清氏が、大阪・余市間の北前船の寄港地を訪ね歩いて78景の絵画にして、余市町に寄贈されたのだそうです。

その絵の一枚、「大阪湊・弁天」です。北前船(北海道では弁財船と言われました。)のスタート地点は、大阪・堺でした。

その後、瀬戸内海を航行し、日本海側に出ます。ここで、九州の下関や唐津にも立ち寄っています。

そして反転し、日本海側を北上していきます。福井・東尋坊で、寄港地はなんと36番めになります。あちこちに寄って、積み荷を売り買いしながら航行を続けました。

青森・小泊は、寄港地の61番めです。小さな木造船に積み荷を満載し、風頼みでこれだけの航海を続けたわけです。もうロマンがありすぎて、気がとおくなりそうです。笑

そしてここ余市が、75番めの寄港地でした。


北海道の日本海沿岸の町々は、
ニシン漁業の発展と共に拓けました。
その発展の一翼を担ったのが、
北前船でした。


初めて「北前船」を知ったのは、2020年7月。石川県・加賀橋立 北前船船主集落でした。写真は、北前船主屋敷 蔵六園で、長女と。
コロナでも金沢。3人で歩いた、3泊4日のおトク旅 17 - 加賀橋立 北前船主集落(2020年7月26 日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

北前船船主 西出家屋敷跡。

その2か月後、滋賀県・五箇荘に行き、北前船を始めたのは近江商人であったと知りました。(写真は、近江商人の原点です。天秤棒を担ぎ、この格好で、諸国を売り歩きました。)当初は、近江商人が、北陸の人々を船頭や水主として雇っていました。が、やがて北陸の人々が商才を発揮するようになり、北前船の主役となっていきました。
コロナでも滋賀県。湖の国(うみのくに)を歩く、3泊4日のおトク旅 29 - 近江商人博物館(2020年9月24日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

翌年6月、北海道・小樽市で訪れた旧小樽倉庫。1893年(明治26年)に造られました。現在は、小樽市総合博物館運河館として利用されています。
コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 35 - 色内大通りから旧小樽倉庫(北前船の世界)へ(2021年6月28日/4日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

この、北海道初の営業倉庫を造ったのは、石川県橋立の西出孫左衛門と西谷庄八。西出孫左衛門は、2020年7月に訪れた西出家屋敷跡の主だったことに気づき、とても感動しました。


2020年7月に、
石川県で北前船のことを初めて知り、
深く感動しました。
そして、その後も旅を繰り返す中で、
「旅行先での訪問地が、
 実は北前船に縁のある地であったことを
 その旅行中に知る」
という驚きが、何度も続いたわけです。


石川県加賀橋立での北前船との出会いは、
とても感動的な、ひとつの点(出来事)でした。
けれどこうして、いくつもの旅をするうちに、
私の中で、北前船は、
日本の経済を支えた壮大な歴史として、
ひとつの線へとつながり、
より深く、胸に刻まれていくようなりました。


その北前船の歴史と
さらに深くつながっているのが、
最終寄港地だった、北海道です。


北前船の積み荷は、以下のようなものでした。
・下り荷(北海道へ)
 大阪(木綿、酒、糸、雑貨など)
 瀬戸内海(塩、紙、竹、砂糖、生蠟、
      御影石、ロウソク)
 小浜・敦賀(縄、ワラ製品、瓦、笏谷石)
 富山・新潟(米、酒)
・上り荷(関西方面へ)
 海産物が中心
 (ニシン粕、カズノコ、身欠きニシン、
  干しナマコ、昆布、干鰯など)


中でも、北前船の最大の積み荷だったニシン粕は、
やがて日本の農業を変えてしまいます。
さらに、そのニシン粕を生産するために、
「ニシン漁と共に生きた人々」へと、
興味はつきません。


このような背景を踏まえながら、
旧余市福原漁場・石倉での膨大な展示は、
このあと、「北前船」から、
この場所で行われていた「ニシン漁」へと
うつります。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 89 - 旧余市福原漁場② 米・味噌倉(2021年11月13日/11日め)

 

2021年11月13日 旧余市福原漁場で。米・味噌倉です。(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


旧余市福原漁場に来ています。
いちばん奥にある網倉を見たあとは、
左隣りにある、米・味噌倉に行きました。


米・味噌倉です。


【米・味噌倉】
平面積40坪の建物で、1880年(明治13年)の建築であると推定されています。ここでは、味噌、醤油、漬物などを収納していました。大切な食料を守るために、火を使う主屋から離して建ててあり、ネズミ対策などがなされています。
味噌は、当時、建網1か統につき2斗樽が5樽必要だったと言われています。醤油の必要量は不明ですが、漬物類は、明治33年の福原家の記録によると、
 漬物(たくあん)4斗樽(72リットル) 28
 鰊切込     2斗樽(36リットル) 6
 寿し鰊(糠鰊) 4斗樽(72リットル) 8
とあります。漁夫に食事を提供するために、大量の漬物を用意していたことがわかります。


倉には全部で4つの部屋がありました。もともとは米・味噌などのための倉でしたが、現在は、それぞれに異なるものを収納・展示しています。

入口に柵と金網があり、奥に入れないようになっているのですが、内部を見ることはできます。

ひとつめの部屋には、味噌、醤油、漬物などを保存した樽が置かれていました。これはMIYOが撮った写真。金網があるので、こんな写真になってしまうのですが…、

夫は、金網の隙間にレンズを合わせて、こんなのを撮っちゃいました。🤣🤣

右端に、水瓶や水樽が並んでいました。水樽には、船に積み込むための飲み水を入れました。

ふたつめの部屋には、「わら」や「わら製品」が収蔵されていました。明治時代の北海道では、稲作が普及していなかったので、「わら」や「わら製品」を入手するためには、北前船が本州から運んできたものを購入するしかなく、貴重品でした。

これまた、夫の苦心作。🤣🤣 除虫菊、鰊粕干し用筵、石モッコ、筵蓋…など、文字を見ているだけでもおもしろいでs。

右側には、白子干し用簾が見えます。

3つめの部屋です。昭和10年以降、ニシン漁が不振になりました。そのため、この漁場を経営していた川内家は、昭和22年ごろにニシン漁をあきらめ、農業に転向しました。この部屋には、その当時の農具の一部とニシン漁時代の道具の一部が収蔵されています。

またまた、夫が金網にへばりついて撮った写真です。笑 唐箕、鉄なべ、つば釜、石臼、籾摺り臼、蒸籠などの文字が見えます。

4つめの部屋には、米俵がぎっしりと積まれていました。(なんか、金網にピントが合ってしまって、米俵がぼけています。この金網、ほんとジャマです。😅😅)
漁場を経営するには、大量の米が必要でした。ニシン建網漁業の場合、一か統につき、年間白米28石(約70俵)が必要だったと言われています。川内漁場は2か統の経営だったので、毎年140俵前後の米を用意していたことになります。

ねずみ対策①:ねずみが蔵に入るのを防ぐために、蔵の入り口にはねずみ返しが取り付けられていました。

ねずみ対策②:ねずみが板壁に穴をあけないように、腰板の内壁と外壁の間に小砂利をいれてありました。

140年以上も前に建てられたとは思えないほど、しっかりした造りの倉でした。

この「米・味噌倉」を見ていて思い出したのが、旧青山家漁家住宅にあった、板倉」でした。板倉も、用途は同じです。「雑倉」とも呼ばれ、内部は、味噌倉、漬物倉、雑倉の3つに仕切られていました。(2021年11月6日 北海道札幌市・開拓の村)

この時の日記です。青山漁家住宅も、巨大で、たいへん興味深い建物群でした。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 47 - 北海道開拓の村⑲(旧青山家漁家住宅②文庫倉、石倉、板倉、米倉)/ Coke Onペイと今月のネイル(2021年11月6日/4日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


次回は、納屋場に行きます。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 88 - 旧余市福原漁場① 網倉(2021年11月13日/11日め)

2021年11月13日 旧余市福原漁場で。網倉をのぞきこんでいるところです。(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


「札幌2週間ホテル暮らし」も、
11日めになりました。
だんだん東京に戻る日が近づいてきて、
サビシイ気持ちも募ります。
が、とりあえずは、北海道での滞在を大切に、
一日一日を楽しんで過ごしたいと思います。


この日は、札幌市内を歩いて、
のんびりと過ごそうと思っていたのですが、
直前になって、
ニッカウヰスキー北海道工場 余市蒸溜所
の見学の予約がとれたので、
急遽、余市に行くことにしました。


もうね。
予約をとるの、ほんとうに大変だったんです。
2週間先まで予約でいっぱい。
なので、あきらめていました。
でも夫は、
毎日予約サイトをチェックしていたようで、
11月11日になって、
突然、2名分の空きがでたのです。
そこにすかさず滑り込んで、予約に成功。
夫は本当に喜んでいました。^^
その時の日記です。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 78 - 豪華なオードブルセットと創成橋(2021年11月11日-12日/9日め-10日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


前日、夫は、レンタカーを受け取りに、
朝からバジェットレンタカーに行ったのですが、
今日は今日で、トヨタレンタカーへ。笑
こんなことなら、
2日連続で借りておけばよかったのですが、
余市に行くのがぎりぎりに決まったので、
まあしかたありません。😅


前日と同じように、朝早くホテルを出た夫。レンタカーを運転して、ホテルに戻ってきました。


ホテルの前で、MIYOが車に乗り込んで、
朝8時半、今日も元気に出発です。^^


前日は、札幌から南西方向に、昭和新山、有珠山洞爺湖、支笏湖を歩きましたが、今日は北西方向に向かいます。小樽を越えて、その先の余市へ。車で1時間あまりの距離です。^^


朝9時半、余市に到着しました。
ニッカウヰスキーの見学時間は
午後2時半で、まだ時間があります。
なので、午前中は、
他のスポットを見て歩くことにしました。


ということで、
余市に到着して、まず一番に向かったのは、
旧余市福原漁場(きゅうよいちふくはらぎょば)
でした。
ここは、余市の中で、
MIYOがいちばん行きたかったところです。


旧余市福原漁場。右側に見えているのが受付です。

敷地内の駐車場に車を停めましたが、他に訪れているのは1台(一組)だけのようです。またしても、ひとり占め状態です。😅

まずは受付で勧められて、共通入場券(880円)を購入しました。

共通入場券で、旧余市福原漁場、旧下ヨイチ運上家、フゴッペ洞窟、よいち水産博物館の4か所を見学できます。


最近、旅先では、こんなふうに、
数か所のスポットをまとめて
共通入場券にしたものを
勧められることが増えました。
全部に行くつもりであれば、
当然、入場料が割安になります。
私たちも、何か所に行けそうかを考えながら、
購入することが多いです。


さて、入場券を購入し、受付の奥に向かって歩き始めたのですが、この「旧余市福原漁場」、かなりの広さです。見学スポットが9か所もあります。


【旧余市福原漁場】
かつてのニシン漁場の遺跡です。幕末から明治時代にかけて余市町浜中町に定住し、ニシン漁場を経営していた、福原家が所有していた建物群を、施設内に復元・保存しています。この史跡は、番屋のみでなく、海産干場・主屋・米味噌蔵・網蔵・石蔵・雑蔵など、ニシン漁に関する一連の施設を確認できる、たいへん貴重なものです。1982年(昭和57年)、国の史跡に指定されました。
漁場を建設したのは、1880年(明治13年)頃とみられています。海岸に面した主屋を中心に、文書庫米味噌倉網倉便所物置小屋等が遺存しています。また、建物の周囲は、ニシン粕等の干場となっており、ニシンからとったカズノコや白子などを製品にした干場が当時のままの状態で保存されています。最盛期のニシン漁や、ニシン漁でにぎわった時代の漁業経営をうかがい知ることができる、貴重な遺跡です。


本当は、出入り口にいちばん近い、
主屋から見て行けばいいのでしょうが、
敷地内の広さに圧倒された私たち。
「とりあえず、
 いちばん奥まで歩いて、
 概要を把握しておこう。」
と決めました。
つまり、案内板の①ではなく、
いきなり、⑨に行ってしまったのです。笑


敷地の右側を流れる小川に沿って、奥へ奥へと歩きました。つきあたりに見えているのが、⑨の網倉です。

網倉の左側にあるのは、⑧米・味噌倉です。

網倉と米・味噌倉の手前には、雑倉の跡があります。ここでは、土台だけを復元しています。

雑倉の左が納屋場です。

ここは、身欠ニシンを作る干場でした。

雑倉(左)と納屋場(右)から入り口方向を見たところです。さらに5つの建物があります。


敷地内での各スポットの位置関係が
だいたいわかったところで、
もう我慢できなくなったので、笑
見学を開始しました。


まずは、いちばん奥の網倉です。


【網倉】
漁で使う網などを収めるための倉です。ここでは、建網用の集網、垣網、枠網、袋網などの網類や浮子などの漁具を収納していました。当時の漁具は、自然木を利用した手作りのものがほとんどでした。この網倉は小規模ですが、ニシン漁が終わると「廊下」が空くので、そこにも漁具を収納しました。


中をのぞきこんでいるMIYO。笑

かつて使われていた漁具が、ところせましと並んでいました。

網倉の位置です。ここから、手前に向かって見学していきます。


次回は、網倉のとなりにある、
米・味噌倉を歩きます。


(つづく)