ベトナム・カンボジアを歩いた14日間 50 - アンコールトム③ バイヨン・第一回廊(兵の進軍と祈る人々)(2024年1月17日/6日め)
2024年1月17日 バイヨン・第一回廊で。(カンボジア・シェムリアップ)
1月17日(日)- 6日め
アンコールワットの北にある、
アンコールトムに来ています。
【アンコールトム】
アンコールワットの北3kmにある、アンコール朝全盛期の宗教都城遺跡です。その名は、「大きな都」という意味で、アンコールワットの完成から50年後の12世紀後半に、ジャヤーヴァルマン7世により建築された城砦都市でした。一辺が3kmの堀と、高さ8mの城壁に囲まれており、5つの城門が築かれています。ここは、アンコールワットの3倍の大きさを誇り、10万人もの人々が生活していたと言われる古の王都でした。
中心に据えらえれているバイヨン寺院は、ヒンドゥ教におけるメール山(宇宙の中心にそびえる須弥山)を象徴化しています。そして周囲の城壁は、ヒマラヤの霊峰を表しています。 アンコールトムには、アンコールワットの宇宙観と多くの共通点を見ることができます。
左上にあるのが、アンコールトムです。左下に見えるアンコールワットよりもはるかに巨大であることがわかります。
出典:https://www.tourismcambodia.com
【アンコールトムの歴史】
1020年、スーリヤヴァルマン1世により、アンコールトムの建造が始まりました。その後、歴代の王が手を加え、12世紀後期にジャヤヴァルマン7世の手によって王都として整備され、最盛期を迎えました。
12世紀後期までの王都はアンコールワットでしたが、1177年にチャンパ軍の攻撃によりアンコール都城が占拠されます。 しかし1181年、ジャヤヴァルマン7世がアンコールワットを解放。1190年にはチャンパ王国を降伏させました。
ジャヤヴァルマン7世は、疲弊しきった国内を立て直し、地方へと通じる主要道路の整備し、病院や民のための施設を充実させるために、王都をアンコールトムに定めました。 バイヨン寺院が建設されたのはこの時です。 アンコールトムは、その後15世紀前半まで首都として機能し続けました。
大都市であったアンコールトムの、
中心にあったのがバイヨン寺院です。
かつて、この王都では、バイヨン寺院を中心に、
十字に道路が敷かれていました。
まずは、バイヨンのいちばん外側にある、
第一回廊を、時計回りに歩きます。
第一回廊の左側には石柱が建ち並び、右側の壁には、延々とレリーフが描かれています。
【第一回廊のレリーフ】
第一回廊の見どころは、全長470mにも及ぶレリーフです。そこには、チャンパ軍との戦闘の様子や庶民の生活、宮廷の様子が描かれています。長い戦闘の末にようやく手に入れた平和であることを、後世に伝えたかったのかもしれません。叙事詩が描かれているアンコールワットのレリーフとは違って、アンコールトムのレリーフは、当時の生活や文化を知る貴重な手がかりとなっています。
建ち並ぶ石柱にも、美しいレリーフが残されています。
躍動感のある、アプサラたち。アンコールワットのアプサラよりも、いきいきと描かれている気がします。
さらに進んでいくと…、
いきなり始まる、レリーフの世界。これは、チャンパ軍とクメール軍の行進を描いています。
像に乗る戦士、ゾウつかい、戦士の後ろに姿を見せている、小さな神様?。すべてが、かつての美しいままに残されていました。
ゾウつかいの腕には、丸い鉾が留められているのが見えます。そして下の方を進軍しているのは、中国から来た兵士たちでしょうか。
「中国人の宴会」のようすが、この壁画の下の部分に描かれています。(2010年7月26日)
ゾウも兵士も、いきいきと描かれていて…、
これは14年前に撮った同じ壁画。現在よりも壁の汚れが少なく、きれいです。(2010年7月26日)
これも14年前の写真です。(2010年7月26日)
ここまで完全な状態で残っていることに、圧倒されました。
背景の、樹々の美しさに見とれました。
上の壁画といっしょに撮った写真です。
神に向かって祈りを捧げる人々。夫が撮った写真です。同じ壁画を、MIYOもいっしょに見ているのですが…、
MIYOが撮っていたのは、この人々の右側で、音楽を奏でながら踊る、アプサラたち。笑 同じところにいても、それぞれに、撮る写真は違ってきます。
アンコールワットのアプサラよりも、手の動きが細かくなっているような気がします。
そしてここから、絵柄が変わりました。舟を漕ぐ人々です。下の方に、魚が泳いでいるのも見えます。
第一回廊のレリーフは、次回に続きます。
(つづく)





















