MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
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コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 16 - 旧花田家番屋①(ニシン回廊)(2022年6月19日/3日め)

(2022/08/11 17:10記)

2022年6月19日 旧花田家番屋。北海道最北にして、最大のニシン番屋です。(北海道留萌郡小平町)


6月19日(日)


増毛町を出発して、
留萌へと、車を走らせました。


留萌市から、
オロロンライン(国道232号線)を
北に約20km。
車で30分ほどの小平(おびら)町に、
めざす「道の駅おびら鰊番屋」が
あります。


増毛町に、
かなり長く滞在してしまったので、
すでに夕方に近くなっています。
もともとこの日は、
増毛町だけを訪ねるつもりでした。


でも、秋田藩増毛元陣屋跡で、
花田家番屋の存在を知ってしまい、
急遽、留萌にも行ってしまおうと、
予定を変更したわけです。


元陣屋に展示してあった、花田家番屋のジオラマ。ただこれだけを見て、留萌まで来てしまいました。😄

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 3 - 秋田藩増毛元陣屋跡③ / 唐箕でつながる旅(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


留萌にまで足をのばすのは、
突発的に決めたことでしたから、
計画自体に無理があったのは、
まあ、仕方のないところです。


花田家番屋の閉館時間までは、
あと1時間半くらい。
なんとか、見学する時間はとれそうです。


急げ。とにかく急げ。


にしん街道の北の果て、小平町に着きました。奥にふたつの建物が見えますが、左が「道の駅 おびら鰊番屋」、そして右が「旧花田家番屋」(鰊番屋)です。

「鰊番屋」と書いてあります。ほんとうに、ここまで来てしまいました。😂

海沿いに網がかけられていて、その網をたくさんのニシンが泳いでいます。なんてすてきな演出。^^


国指定の重要文化財である、
「旧花田家番屋」(鰊番屋)は、
道の駅の敷地内にあります。
花田家番屋に合わせて、
後から道の駅を建てたわけですが、
この施設自体も、
古い木造の建築物風に建てられています。


「道の駅 おびら鰊番屋」です。近代建築ですが、景観を損なわないよう、古風な佇まいにしてあります。


道の駅の中にも入ってみたかったのですが、
時間がありません。
「まずは、閉館時間になるまで、
 時間が許すかぎり、
 旧花田家番屋の方を見学しよう。」
と話し合い、ふたりそろって、
番屋に向かって走りました。


急げ。とにかく急げ。


「重要文化財 旧花田家番屋」とあります。このパネルの向こうにあるのが、旧花田家番屋です。さらに走ります。

着きました。旧花田家番屋です。なんとでかい…。さすが、北海道最北にして、最大のニシン番屋です。

入口の前に、像がありました。

もっこを背負って、ニシンを運ぶ女性の像です。「群来る」と書いてありました。


【群来る(くきる)】
「春告魚(はるつげうお)」とも呼ばれるニシンが、産卵のために大群で押し寄せる現象「群来(くき)」と言いました。大群のニシンによる産卵・放精で、海の色は乳白色になったそうです。そのニシンを追って、多くのカモメが群れるさまは、アイヌ語で「マシュキニ(カモメの多いところ)」と言われました。「増毛」という地名は、その言葉が元となっています。

ニシンの「群来(くき)」が始まると、人々はそれを「群来る(くきる)」と呼び、こぞってニシン漁に繰り出しました。「群来る」は、ニシン街道の誰もが、大漁を願って心躍らせる言葉でした。
「群来る」ところに、カモメあり。「マシュキニ(カモメの多いところ)」は、ニシン漁で栄華を極めた増毛に、もっともふさわしい地名でした。


中に入ります。


【旧花田家番屋】
留萌郡小平町にあります。北海道にある多数のニシン番屋の中で、唯一、国の重要文化財に指定されており、日本最北端にある建造物の重要文化財としても知られています。また、2001年(平成13年)には、北海道遺産にも認定された、歴史的建造物です。
かつて、北海道の日本海側で、明治、大正、昭和の前半に盛んだったニシン漁。その網元たちが造った住居兼漁業施設のことを、「ニシン番屋」と呼びました。当時、網元たちは競って、大規模で豪華な番屋を建設したのですが、旧花田家番屋も、そのひとつでした。最盛期には、200人ものヤン衆がここで生活していたそうです。

この番屋が重要文化財に指定されたのは、1971年(昭和46年)のことです。それを機に小平町は、この番屋を買収し、3年の年月をかけて解体修復。往時の姿をよみがえらせました。
それまで、1896年(明治29年)に創立したと言われていましたが、修復の際に、羽目板の落書きや、壁紙の下張りに使った新聞紙などが見つかり、その日付から、1905年(明治38年)頃に建てられたことが判明したそうです。


入口を入ると、細長い土間が延びています。そしてそのつきあたりに、台所があります。これは、当時の番屋でよく見られた造りで、この土間を「にわ」と呼びました。

これは江差の旧中村家住宅です。ニシン漁で栄えていた、往時の江差の繁栄を今に伝える商家です。玄関を入ると、細長い土間が続いており、そのつきあたり(引き戸の向こう側)に台所があります。代表的な「にわ」の造りです。(2022年4月16日 北海道檜山郡江差町)

増毛の旧商家丸一本間家。ここにも、玄関から細長く続く土間があり、つきあたりが台所でした。このにわはあまりにも長かったため、「通り庭」と呼ばれました。コンセプトは「にわ」と同じです。屋敷があまりに広かったため、「一度通り庭に出た客人は、元の部屋に戻ってこれない。」と笑い話になったそうです。

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 9 - 旧商家丸一本間家④(客間、次の間、上勝手、台所、下勝手)(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


番屋の入口には、
地元の方らしきおじいさんが
ひっそりと座っていました。
ここで入場料を支払い、
見学スタートです。


旧花田家番屋は、中心に「にわ」があり、
それを境に、右側がヤン衆の宿泊所で、
左側が網元の居住スペースになっています。
典型的な、番屋の造りです。


ヤン衆とは、北海道のことばで、
「ニシン漁に雇われた季節労働者たち」
のことを言いました。
旧花田家番屋にある、ヤン衆の宿泊所は、
現存する「漁夫の宿泊施設」としては
道内最大の規模だそうです。


靴を脱ぎ、まずは、
その宿泊施設に入ろうとしたのですが、
おじいさんから、
「先に、展示を見ていってください。」
と言われ、
玄関横の細長い通路に案内されました。


番屋の内側では、外壁に沿って、細長い通路が延びています。このスペースに、ニシン漁に関する道具や資料が展示されていました。まずは、大量の漁網の数々。ニシン漁に使われた網が、これでもか、と言わんばかりに並んでいました。笑

回廊を左に曲がると、さらに膨大な資料が続きました。ここには、「身欠」や「シメ粕づくり」に使われた道具が展示されていました。

もっこです。陸揚げされた鰊は、「もっこ背負い(もっこしょい)」によって、処理作業場(納坪・廊下)に集積されます。

船にぎっしりと詰まったニシンをすくって、もっこの中にどんどん入れているところです。

からのもっこを背負った女性たちは、船の前に列をなしました。その横を、20キロのもっこを背負った女性たちが、しっかりとした足取りで進んでいます。すごい!^^


【鰊つぶし】
船からもっこに入れて運ばれたニシンは、2、3日放置しました。そしてカズノコが固まると、「鰊つぶし」が始まります。白子(精嚢)やカズノコ(卵巣)は各々の容器に入れ、エラから口にかけての部分は、藁で結んで天日で干しました。

鰊の選別をしているところです。(増毛・千石蔵にて)

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 13 - 千石蔵①(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


数日干したあと、生乾きの状態になると、「さばさきり」という小刀で切り分け、さらに納屋で2週間ほど乾燥させました。これが「身欠ニシン」です。乾物で保存性がよいので、特に山間地のタンパク源として重用され、全国にニシン食文化が広がりました。京都の「にしんそば」、福島県会津地方の「にしん山椒(さんしょう)漬け」など、各地の郷土食にもなりました。

もっこ背負い(もっこしょい)の女性たちが腰に下げた鑑札。仕事の前に受け取り、仕事の後、この鑑札と引き換えに労賃をもらいました。一日の労賃は、もっこ2杯分のニシンだったそうです。

「鰊つぶし」の後、残りのニシンを煮た大釜です。煮上がったニシンは、タモ網ですくい取り、隣りにあるシメ胴に移しました。シメ胴は、ニシンの油を搾るための装置です。この中にニシンを入れて、シメ具にかけて搾りました。

シメ胴は木製で、古くは角型の枠組みでしたが、その後改良されて、鉄製・円筒形のものになりました。

ニシンをすくったタモ網や粕切包丁です。ミンサーのような木箱は、「粕くだき」であると思われます。


【無駄のないニシン加工】
「ニシン釜」で煮詰めた鰊は、「角胴」「丸胴」に詰められ、圧力をかけて搾ります。流れ出す液体部分の上澄みからは、「ニシン油」がとられ、一斗缶につめて出荷されました。
「角胴」「丸胴」の中に残ったニシンの「粕」は、「粕切包丁」で切られ、「粕くだき」で砕かれます。くだかれた「粕」は、むしろの上で天日干しにしました。乾いた「粕」は、俵につめて「〆粕(締粕)」として、全国へ出荷されました。
「〆粕」は、効果の高い肥料として、江戸時代後期から全国に流通しました。はじめは、綿花やみかん、菜種、藍、紅花などの商品作物に使われましたが、次第に、稲作や畑作にも広く使われるようになりました。その後、過リン酸石灰などの化成肥料が使われるようになるまで、「〆粕」は、日本の代表的な肥料として使われ続けました。


積み上げられた〆粕(鰊粕)の俵です。一俵の重さは26貫(97.5㎏)。(増毛・千石蔵にて)


MIYOが小さいころ、
植木鉢に入れる肥料のことを、母は、
「あぶらかす」と呼んでいました。
それが不思議だったのですが、
「ニシンの油を搾ったあとのカスだから
 『あぶらかす』だったんだなあ…。」
と、このとき初めて、納得しました。笑
(そのとき使っていた肥料は、もちろん、
 鰊粕ではなく、化学肥料だったのですが。笑
 昭和8年に農家で生まれた母にとっては、
 いくら時代が変わろうと、生涯、
 「肥料=にしんかす=あぶらかす」
 ということだったのでしょう。^^)


旧花田家番屋。
さすが、「北海道で最大の番屋」
というだけのことはあります。
展示物の量があまりにも膨大かつ詳細で、
驚きました。


そして、これまでに各地で、
断片的に見て来たことが、
ここに来て初めて、ひとつにつながり、
ニシン漁や加工作業の全容を
理解できたように思います。
(遅すぎですね。笑)


石川県の加賀橋立に行き、
「北前船」の存在を初めて知ったのは、
2020年7月のことでした。


北海道にたどり着いた北前船が、
戻りに満載した、最大の積み荷が、
ニシンの〆粕(鰊粕)でした。



あれから2年。
日本各地の北前船主屋敷や集落、ニシン商家、
さらにニシン番屋を訪ねつづけ、
そしてとうとう、ここにたどり着きました。


(つづく)

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