MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
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コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 90 - 旧余市福原漁場③ 納屋場、雑倉、石倉(北前船)(2021年11月13日/11日め)

2021年11月13日 旧余市福原漁場・石倉で、北前船とともに。(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


旧余市福原漁場に来ています。
網倉、米・味噌倉を見たあとは、
納屋場に行きました。



【納屋場】
内臓を取り除いたニシンを干し、身欠きニシンを作った場所です。加工した製品は、北前船で日本各地へ出荷されました。


納屋場には、干場の一部が、当時のままに残されています。ここで、内臓を取り除いたニシンを干し、身欠きニシンを作りました。


そして、納屋場の隣りには、雑倉の跡があります。



【雑倉】
その名のとおり、さまざまな用具類を保管していた場所です。が、土台だけを復元しており、建物は残っていません。


納屋場を背にして雑倉跡を眺めた写真です。その奥には、白子干場がありました。

網倉の位置から見るとこんな感じです。この方向からだと、左側にある白子干場もわかりやすいですね。

左に雑倉、右に納屋場を見ながら、敷地内の道路を進みました。左手に、石倉が近づいてきました。

石倉です(復元)。


【石倉】
ニシンを加工してできる製品(身欠きニシンやニシン粕など)を保管していた建物です。ニシン加工は、主に女性が従事し、細かい作業分担がなされていました。また、作業には様々な道具が使われました。


幅が約21.3mの、横に長い建物で、倉としてはかなり大きなものです。

ガラス戸を開けて中に入りました。倉の端から端まで続く、約21mの細長いスペースには、漁具やムシロ、大きなタライなどが置かれています。なぜか床が濡れているため、ついさっきまで加工作業をしていたのではないか、と思うような雰囲気です。^^

さらに、石倉の奥へと歩きました。膨大な量の展示品に圧倒されました。

まずは、私たちの大好きな北前船(模型)。何回見ても、ワクワクします。^^

さらにその隣りには、ニシン漁に使った船(実物)もあります。そして壁には、北前船が立ち寄った全国の港を描いた絵が並んでいました。昭和56年頃、地元の郷土史研究家の沢口清氏が、大阪・余市間の北前船の寄港地を訪ね歩いて78景の絵画にして、余市町に寄贈されたのだそうです。

その絵の一枚、「大阪湊・弁天」です。北前船(北海道では弁財船と言われました。)のスタート地点は、大阪・堺でした。

その後、瀬戸内海を航行し、日本海側に出ます。ここで、九州の下関や唐津にも立ち寄っています。

そして反転し、日本海側を北上していきます。福井・東尋坊で、寄港地はなんと36番めになります。あちこちに寄って、積み荷を売り買いしながら航行を続けました。

青森・小泊は、寄港地の61番めです。小さな木造船に積み荷を満載し、風頼みでこれだけの航海を続けたわけです。もうロマンがありすぎて、気がとおくなりそうです。笑

そしてここ余市が、75番めの寄港地でした。


北海道の日本海沿岸の町々は、
ニシン漁業の発展と共に拓けました。
その発展の一翼を担ったのが、
北前船でした。


初めて「北前船」を知ったのは、2020年7月。石川県・加賀橋立 北前船船主集落でした。写真は、北前船主屋敷 蔵六園で、長女と。
コロナでも金沢。3人で歩いた、3泊4日のおトク旅 17 - 加賀橋立 北前船主集落(2020年7月26 日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

北前船船主 西出家屋敷跡。

その2か月後、滋賀県・五箇荘に行き、北前船を始めたのは近江商人であったと知りました。(写真は、近江商人の原点です。天秤棒を担ぎ、この格好で、諸国を売り歩きました。)当初は、近江商人が、北陸の人々を船頭や水主として雇っていました。が、やがて北陸の人々が商才を発揮するようになり、北前船の主役となっていきました。
コロナでも滋賀県。湖の国(うみのくに)を歩く、3泊4日のおトク旅 29 - 近江商人博物館(2020年9月24日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

翌年6月、北海道・小樽市で訪れた旧小樽倉庫。1893年(明治26年)に造られました。現在は、小樽市総合博物館運河館として利用されています。
コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 35 - 色内大通りから旧小樽倉庫(北前船の世界)へ(2021年6月28日/4日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

この、北海道初の営業倉庫を造ったのは、石川県橋立の西出孫左衛門と西谷庄八。西出孫左衛門は、2020年7月に訪れた西出家屋敷跡の主だったことに気づき、とても感動しました。


2020年7月に、
石川県で北前船のことを初めて知り、
深く感動しました。
そして、その後も旅を繰り返す中で、
「旅行先での訪問地が、
 実は北前船に縁のある地であったことを
 その旅行中に知る」
という驚きが、何度も続いたわけです。


石川県加賀橋立での北前船との出会いは、
とても感動的な、ひとつの点(出来事)でした。
けれどこうして、いくつもの旅をするうちに、
私の中で、北前船は、
日本の経済を支えた壮大な歴史として、
ひとつの線へとつながり、
より深く、胸に刻まれていくようなりました。


その北前船の歴史と
さらに深くつながっているのが、
最終寄港地だった、北海道です。


北前船の積み荷は、以下のようなものでした。
・下り荷(北海道へ)
 大阪(木綿、酒、糸、雑貨など)
 瀬戸内海(塩、紙、竹、砂糖、生蠟、
      御影石、ロウソク)
 小浜・敦賀(縄、ワラ製品、瓦、笏谷石)
 富山・新潟(米、酒)
・上り荷(関西方面へ)
 海産物が中心
 (ニシン粕、カズノコ、身欠きニシン、
  干しナマコ、昆布、干鰯など)


中でも、北前船の最大の積み荷だったニシン粕は、
やがて日本の農業を変えてしまいます。
さらに、そのニシン粕を生産するために、
「ニシン漁と共に生きた人々」へと、
興味はつきません。


このような背景を踏まえながら、
旧余市福原漁場・石倉での膨大な展示は、
このあと、「北前船」から、
この場所で行われていた「ニシン漁」へと
うつります。


(つづく)

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