コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 92 - 旧余市福原漁場⑤ 石倉(ニシンつぶしと漁の終焉)(2021年11月13日/11日め)
(2023/03/11 16:00記)
2021年11月13日 旧余市福原漁場で。(北海道余市郡余市町)
11月13日(土)
旧余市福原漁場・石倉で、
展示を見学しています。
次は、この漁場で行われていた、
「ニシンつぶし」に関する展示です。
【ニシンつぶし】
身欠ニシンを製造するために、ニシンの腹を裂いて、内臓、数の子、白子、エラを除去する作業のことを言います。水揚げされたニシンは、もっこ背負いが運び、まずは廊下に貯蔵されます。そのまま数日経過すると、カズノコが固まり、ニシンは柔らかくなるので、作業が容易になります。ニシンつぶしの作業は、早朝から始められました。主な働き手は地元の人々(主に女性)で、 出来高による賃金払いを受けたので、「出面取り」と呼ばれました。
廊下:ニシン漁特有の付属施設で、沖揚げしたニシンを加工するまで一時保管しておく建物です。ニシンの出し入れに便利なように、壁を取り外すことができます。ニシン漁の時期が終わると、船を入れておく倉としても使われました。
ニシンつぶしの概要です。(余市水産博物館の画像をお借りしました)
大きな洗い桶がありました。この作業に使ったと思われます。
作業は、ふたり一組になって行われました。ニシンをつぶす作業に徹する「つぶし方」と補助役の「つなぎ方」です。
つぶし方は、こんな台座に座って作業をしました。白子(精嚢)やカズノコ(卵巣)は各々の容器に入れ、エラから口にかけての部分は、藁で結んで天日で干しました。
つぶしたニシンは、補助役の「つなぎ方」がワラに通してつなぎます。そして、天秤棒のかぎにひっかけて、干場に運びました。前後に一連ずつかけても40尾以上になるので、けっこうな重さだったと思います。
この時にニシンを干した場所が、
さきほど見た、「納屋場」だったのです。
納屋場:内臓を取り除いたニシンを干し、身欠きニシンを作った場所です。加工した製品は、北前船で日本各地へ出荷されました。
この干場はほんの一部。実際にはもっとたくさんあったはずで、その干場一面にニシンを吊り下げて干していた様子を想像すると、ワクワクしてきます。^^
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このときの、私たちの会話です。
み「この木枠のある場所で、一面に、
ニシンを吊るして干したんだよね!」
夫「そうみたいだね。」
み「きっと、すごい臭いだったんだろうねぇ…。
もしかして、ハエだらけだった?」
夫「…。😓😓」
納屋場(干場)で数日干したあと、生乾きの状態になると、「さばさきり」という小刀で切り分け、さらに納屋で2週間ほど乾燥させました。これが「身欠ニシン」です。乾物で保存性がよいので、特に山間地のタンパク源として重用され、全国にニシン食文化が広がりました。京都の「にしんそば」、福島県会津地方の「にしん山椒(さんしょう)漬け」など、各地の郷土食にもなりました。(下の写真は、旧花田家番屋で撮ったものです。)
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「ニシンつぶし」の後、除去した部分を煮た大釜です。この作業から、〆粕を作りました。
ヨイチ場所での、ニシン粕焚きのようすです。
煮上がったニシンは、タモ網ですくい取り、シメ胴に移しました。シメ胴は、ニシンの油を搾るための装置です。この中にニシンを入れて、シメ具にかけて搾りました。(下の写真は、旧青山家漁家住宅で撮ったものです。)
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シメ胴は木製で、古くは角型の枠組みでしたが、その後改良されて、鉄製・円筒形のものになりました。
作業に使用した道具類です。
【無駄のないニシン加工】
「ニシン釜」で煮詰めた鰊は、「角胴」や「丸胴」に詰められ、圧力をかけて搾ります。流れ出す液体部分の上澄みからは、「ニシン油」がとられ、一斗缶につめて出荷されました。
「角胴」「丸胴」の中に残ったニシンの「粕」は、「粕切包丁」で切られ、「粕くだき」で砕かれます。くだかれた「粕」は、むしろの上で天日干しにしました。乾いた「粕」は、俵につめて「〆粕(締粕)」として、全国へ出荷されました。
「〆粕」は、効果の高い肥料として、江戸時代後期から全国に流通しました。はじめは、綿花やみかん、菜種、藍、紅花などの商品作物に使われましたが、次第に、稲作や畑作にも広く使われるようになりました。その後、過リン酸石灰などの化成肥料が使われるようになるまで、「〆粕」は、日本の代表的な肥料として使われ続けました。
積み上げられた〆粕(鰊粕)の俵です。一俵の重さは26貫(97.5㎏)。(下の写真は、増毛・千石蔵で撮ったものです。)
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【ニシン漁の歴史】
ニシン漁の最も古い記録は15世紀半ばで、松前や江差などの松前藩領内で行われていました。そのニシン漁が盛んになり始めるのは17世紀後半以降です。松前・江差地方での漁獲量が少なくなると、18世紀中ごろには、商人によって蝦夷地の漁場が開発され、徐々に北上していきました。蝦夷地では、元々アイヌがニシンを獲り、和人との交易の品としていましたが、和人自らがニシンを獲るようになると、アイヌはその労働力に組み込まれて行きました。
やがて、漁場が拡大するのに伴って漁民が増加していきました。大飢饉により、東北地方から多くの和人が出稼ぎにきたことも、漁民増加に拍車をかけました。その後幕末にかけて、ニシンの漁獲量は大幅に増え、主に魚肥に加工され、本州での田畑の肥料として重宝されました。
明治時代になっても、ニシンを中心とした漁業は北海道の主な産業であり、拡大を続けました。この頃に、大規模な番屋が多数建築されており、その一部は、北海道内の各地に今も残っています。
繁栄を極めたニシン漁でしたが、やがて終焉が訪れます。ニシンの来遊が、南から順に途絶えていきました。明治30年代には、秋田、青森、昭和30年には留萌地方でも激減、昭和32年には、日本海における春ニシン漁は完全に幕を下ろすことになりました。
岸に打ち上げられたニシンの山です(大正時代)。「春告魚(はるつげうお)」とも呼ばれるニシンが、産卵のために大群で押し寄せる現象を「群来(くき)」と言いました。大群のニシンによる産卵・放精で、海の色は乳白色になったそうです。余市町におけるニシンの漁獲量は、大正時代が最も多く、1919年(大正9年)には45000トンで、年平均で37000トンを数えました。
以下2枚は、余市町における、最後の群来(くき)の写真です(昭和29年)。このときの春ニシンの群来は7年振りで、3月30日から始まり、漁獲高は250石(45トン)でした。
しかし、この時に獲れたのは大型のニシンばかりで、若いニシンはほとんどいませんでした。それは、翌年以降が不漁であるだろうことを予測させるものでした。
ニシン漁は、
北海道に莫大な富をもたらしましたが、
これ以降、急速に衰退していきます。
海の色が乳白色に変わるほどに押し寄せた、
大漁のニシン。
それは、北海道の豊かな自然の象徴でした。
それが終焉を迎えた最大の原因は、
約100年間続けられた、
人間による乱獲であったと言われています。
ニシン漁が盛んだったころ、群来が始まると、
沖合より沿岸に向かって、
海の色が白く変化しながら、
ニシンの大群が押し寄せました。
余市のお年寄りの方々は、現在でも、
その光景を記憶しているそうです。
あらためて、石倉を眺めました。
ニシン漁で余市が繁栄していた頃、
この石倉には、身欠きニシンやニシン粕などが
大量に保管されていました。
ここで多くの人々が忙しくたち働き、
活気にあふれていたことでしょう。
今はひっそりと静まり返り、
私たちふたりだけが、立ちつくしています。
けれど石倉の中には、あふれんばかりに、
往時の断片が詰まっていました。
それらは、今も私たちに、
様々な情景を語り続けてくれています。
次回は、土倉(文書庫)を訪ねます。
(つづく)