MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
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コロナでも滋賀県。湖の国(うみのくに)を歩く、3泊4日のおトク旅 29 - 近江商人博物館(2020年9月24日/3日め)

2020年9月24日 東近江市・五箇荘の町並み。


9月24日


近江商人博物館に着きました。


入り口でまずメに入るのが、このパネルです。自分の写真を入れて、近江商人になってみます。「売り手によし、買い手によし、世間によし」は、近江商人の家訓でした。


「三方よし」とは、
「売り手よし、書い手よし、世間よし」
という意味です。


【三方よし】
「商いとは、売り手と買い手にとってよいことをするだけではない。売り手と買い手を含めた社会全体のために、良いと思うことも、しなければならない。」という考えです。古くから近江商人に伝わった考えでした。


現在のように、
企業の社会貢献とか、
good corporate citizenship とか、
そんなものなど、誰も考えていなかった時代です。
けれど、近江商人だけは、
それを商いの基本としていたのです。
その先駆性に、驚かされます…。


中江準五郎邸に飾ってあった、「近江商人家訓 三方よし」。

博物館に再現された、近江商人の帳場。のれんに、「春夏冬」とあるのは、「秋ない(商い)だろう」と、夫がうれしげに言っておりました。

近江商人の原点です。天秤棒を担ぎ、この格好で、諸国を売り歩きました。

近江証人の、「諸国産物まわし」。


「海産物は韓物にして、
 京・大坂へ運べばよく売れる。」
「今日の古着は、
 東北へ持っていくとよく売れる。」


…近江商人は、こんなふうに考え、
余っているものを足りないところへ運び、
売りさばくことによって、
商いを大きくしていったのです。
江戸時代初期、近江商人はすでに、
日本全国を市場として捉えていました。
そして、商いのために、
内地から最初に蝦夷地に入ったのも、
近江商人でした。


当初、北陸の人々は、船頭や水主として、
近江商人に雇われていました。
が、近江商人から航海を任され、
商品売買を経験するにつれて、
彼らはしだいに商才を発揮しはじめます。
そして、各地で商品を仕入れて販売するようになり、
大きな利益を上げていきました。
それが、「コロナでも金沢」でご紹介した、
加賀橋立の北前船主集落だったのです。


近江商人と加賀の北前船主たちは、
こんなふうにつながっていたのですね…。
めちゃくちゃロマンがあります。^^


加賀橋立 北前船主集落の日記です。


近江商人の一生です。


【近江商人の一生・男性の場合】
 6歳ごろ、寺子屋に入門する。
 10歳ごろ、丁稚として商家へ奉公に上がる。
 奉公して5年目に、初めて帰省する。
 16歳ごろ、元服後に手代となり、給金が決まる。
 商いの本筋に携わる。
 30歳ごろ、番頭に昇進し、毎年帰省することが許される。
 35歳ごろ、財産を分与され、独立を許される。


【近江商人の一生・商家の娘の場合】
 6歳ごろ、寺子屋に入門する。
 10歳ごろ、豪商の本家へ、女中奉公に上がる。

 ここで行儀見習いと、
 商家の妻となるための実地教育を受ける。
 経験を積むと、上女中となる。
 10代の終わりごろに結婚
 30歳ごろ、近江商人の妻として、采配をふるう。


6歳で寺子屋に入門した後、
システマチックに人材を育成していくさまが、
よくわかります。
こうやって、近江商人のノウハウが、
代々受け継がれていったのですね…。


当時のごはんもののいろいろ。
 豆めし、竹の子めし、菜めし
 桜めし、柚子の葉めし、いもめし
 松茸めし、五目めし、乾し菜めし
の順で並んでいます。


食事の見本は、
もっとたくさんあったのですが、
撮りきれませんでした。
こういう、生活感がある展示は、
見ていてとても楽しいです。^^


そして終盤。
展示のテーマは、
「近江商人として活躍した人々と企業」
にうつります。


伊藤忠兵衛。のちの丸紅、伊藤忠商事を興しました。


そしてさらに、
「現代も活躍する近江商人系企業」
へと続きます。
圧巻でした。


メルクロス株式会社、西川産業株式会社、小泉グループ、柳屋ビルディング株式会社、外与株式会社、東洋紡株式会社

株式会社高島屋、株式会社矢尾百貨店、株式会社ツカモトコーポレーション、ツカキグループ、伊藤忠商事株式会社丸紅株式会社

ワコールホールディングス日本生命保険相互会社


いかがでしょうか。
えっ あの会社が? と思われた方も
多いのではないでしょうか。


天秤棒を担いで商いを続けた近江商人。
かれらの生きざまは、
日本の名だたる企業の中に、
今も息づいているのです。


五箇荘の日記は、ここで終わります。
最後に、心に残った話を書いておきます。


外村宇兵衛邸に飾ってあった掛け軸。青砥藤綱が、川で銭十文を落としました。その十文を探すために、五十文のたいまつを買った話が描かれています。


十文を探すために五十文を支払った藤綱を、
人々は笑いました。
しかし、藤綱はこう言ったそうです。


「五十文は世の中に流通する。
 つまり、『生きた金』となって、
 人々の生活・経済の振興に寄与する。
 もしも探さねば、
 落とした十文は失われる。
 これは、『死んだ金』となり、
 人々の生活・経済に何ら貢献しない。」


800年も前の青砥藤綱の逸話を、
近江商人は、家訓として伝えつづけました。


この話は、現在の私たちの胸にも、
響くものがあります。
コロナ禍で、日本の経済が疲弊している今、
「経済を回す」とはどういうことなのか。
私たちは今、なにをするべきなのか。


「生きた金」ということばが、
その答えを教えてくれているような、
そんな気がするのです…。


莫大な富を築きながらも、
質素倹約に努め、
「生きた金」の使い方を知っていた、
近江商人。
そこから教えられることは、
けっして少なくありません。


美しい、五箇荘の風景。


さて。
そろそろ、午後も遅い時間になりました。
五箇荘がオモシロすぎて、
予想外に長い滞在となってしまいました。


皆様お忘れでしょうが、
この日の朝は、安土城跡に登ってるんです。😂😂😂
もう、十分ですよね…。
このままホテルに帰りたいのですが、
多動夫が、そんなことするわけがありません。


「今日は、これでもうおしまいだよね?」
「まだ。これから、近江八幡に行くよ。」


あ…、そうなんだ。
怒涛の近江観光、まだまだ続きます。😂😂


(つづく)

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