MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 5 - クトードー・パゴダからマンダレー・ヒルへ。(1987年5月3日/3日め)

1987年5月3日 クトードー・パゴダで。白亜の仏塔群を歩きました。(ビルマ・マンダレー)


1987年5月3日(土)- 3日め


さて。
そんなこんなで、クトードー・パゴダです。


左の売店でタナッカーを塗ってもらったあと、意気揚々と中に入りました。

入口からは、3つの白い門が続いています。写真に、なぜか赤い色が写っているのが、ちょっと残念。


このクトードー・パゴダ。
歩いていると、わかりにくいのですが、
実はとても広大なパゴダです。


クトードー・パゴダの全景です。MIYOは今、このいちばん奥の入口部分にいます。(画像をお借りしました)


37年前、入場ゲートの前は、
だだっ広い、ただの空き地状態でした。
でも現在の写真を見ると、樹が生い茂っていて、
美しい景観を呈しているようです。


そして、入口部分から中央の「黄金の仏塔」まで
連なっていた3つの白い門は、
全部、キンキラキン。😂


【クトードー・パゴダ(Kuthodaw Pagoda)】
1859年、コンバウン朝のミンドン王によって建立されました。
世界遺産「バガン(Bagan)」の「シュエズィーゴン・パゴダ(Shwezigon Pagoda)」を模した黄金の仏塔を中心に、729もの白亜の小仏塔が境内を埋め尽くしています。それぞれの小仏塔には、ミンドン王の命で経典が彫り移された大理石の石板が、1枚ずつ納められています。青空に白い仏塔群が映える景観は、撮影スポットとしても人気があります。


青空に映える、白亜の仏塔群。37年前の、クトードー・パゴダです。

ただただ、圧倒されました。

内部を歩きました。

整然と並ぶ、729もの小仏塔。

それぞれの小仏塔の中には、ミンドン王の命で経典を彫り写した大理石の石板が、1枚ずつ納められています。

これが、小仏塔の中に置いてある石板です。小さな文字で、びっしりと教典が刻まれており、「世界最大の本」と言われているそうです。(画像をお借りしました)

仏塔群の中心にある、黄金の仏塔まで歩きました。


現在のクトードー・パゴダの写真を見て、
またまた驚きました。
私たち、間違って違うところに行ったのか?
と思いました。
それくらいに、見違えていました。


クトードー・パゴダの中央にある、現在の「黄金の仏塔」です。(画像をお借りしました)


あはは。😅
ほんとうに、上から下まで、
「黄金の仏塔」になってました。
ほんとうは、できるだけ、
オリジナルのままにしてもらいたいんですが。


タイなんかでもそうですが、
外側に金箔を貼りまくるのは、
彼らにとっては、「信仰心の現れ」です。
そのうち、白亜の仏塔群が、
全部金色になってしまわないかと、
ちょっと心配になったりします。🤣


「黄金の仏塔」で、夫が撮った写真。

そしてMIYOが撮った写真。私の方が、上手だと思う。🤣(←アホ)


このときは、電柱が写り込んでいますが、
ネットで調べてみると、
さすがに現在は、撤去されていますね。🤣


37年前は、あちこち電柱だらけだった、クトードー・パゴダ。現在はすっかり整備されて、美しい仏塔群となっているようです。


クトードー・パゴダを出て、
再びサイカーに乗り、
マンダレー・ヒルの麓まで移動しました。
「この日の観光の最後に、
 マンダレー・ヒルから夕方の景色を見る。」
というのが、夫の計画で、
早朝、マンダレー駅に着いてから、
このクトードー・パゴダまでは、
予定通りに進んでいました。


マンダレー・ヒルは、マンダレーの北側に位置する丘で、丘の上に大きな寺院が建っています。


【マンダレー・ヒル】
マンダレーの北側にぽっこりと隆起した、標高約230mの丘です。木々が生い茂る山全体が聖地とされており、麓から山頂にかけて、数多くのパゴダや仏像が立ち並んでいます。山頂には、マンダレー最古といわれるパゴダがあり、テラスからは、市街一帯とエーヤワディー川を一望できます。特に、川の向こうに日が沈む夕暮れ時がおすすめです。


まずは、マンダレー・ヒルの麓にある、入場口に行きました。ここから入って、長い通路を歩きます。

ココさんはこの入口で待機。私たちは、さらに丘の上まで、延々と階段を上がります。このときも、弟のウィンさんがいっしょについてきてくれました。


この階段、けっこうな長さです。
頂上までの所要時間は、約一時間、
とにかく延々と、階段を上がり続けました。😂


これはその途中。屋根付きの階段を上がっていくと、ときどき、こんな置き物とか仏像とかが置いてあります。


現在は、観光名所として、
お土産物屋さんとかもあるようですが、
この当時は、
そんなお楽しみはありませんでした。


一時間も、黙々と階段を上がり続けていると、
私も夫もだんだん疲れてきました。
「もう引き返してもいいんじゃない?」
とか言いたくなった、そのときです。


丘の途中にあった建物から、
音楽が聞こえてきました。
いいかげん、階段に飽きていたので、
ふたりして、その音楽がする方に向かって
歩いて行ってしまいました。
そして、その建物の中をのぞいて、びっくり。
30人くらいの人が集まっていて、
なんと、お祭りの真っ最中でした。🤣


酒瓶を持って、楽しそうに踊っている女性が見えました。

ボー然としてのぞいていたら、見つかってしまったようです。気がつくと、みんなが私たちを見ていました。笑

そして、アウンサンスーチーみたいなオバサマが出てきて、「中に入りなさい。いっしょに踊りましょう。」と誘ってくれました。^^


「い、いいのかなあ…。😅」
と当惑しながら、おずおずと中に入ると、
もう全員が大喜び。
ここからはみんなで、
大盆踊り大会になりました。


たいへんな盛り上がりで踊ってます。上のスーチーオバサマと同一人物とは思えないはじけぶり。爆


マンダレー・ヒルの盆踊り大会は、
次回に続きます。


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 4 - アトゥマシー僧院、クトードー・パゴダ、そしてタナッカー(1987年5月3日/3日め)

1987年5月3日 クトードー・パゴダの売店で、タナッカー体験。(ビルマ・マンダレー)
*ちなみに、MIYOの後ろに、売り水を濾す布フィルターが設置してあります。どうやら、お水を売る時は、これが必須だったようです。笑


1987年5月3日(土)- 3日め


シュエナンドー僧院を出たところで、
ちょっと休憩しました。


僧院の隣りにある売店で飲み物を買って飲んでいたら、珍しがって、子どもたちが集まってきました。みんな、いい笑顔だと思いませんか。^^


休憩後、次に行ったのは、
アトゥマシー僧院でした。


アトゥマシー僧院は、
あまり有名な僧院ではありません。
けれどこの僧院には、
夫がとても行きたがっていました。
テインさんにそれを告げると、
すぐに連れて行ってくれました。
場所は、シュエナンドー僧院の西、
すぐお隣りにあります。


アトゥマシー僧院です。まるで、このまま絵葉書になりそうなくらい、雰囲気のある写真。^^


【アトゥマシー僧院(Atumashi Kyaung)】
シュエナンドー僧院のすぐ西隣りにあります。1857年に、ミンドン王によって建立された僧院で、チーク材を使用し、 5つの段階的な長方形のテラスで構成されていました。1890年に、火災によって建物が被災したあと、第二次世界大戦中には、日本・イギリス両軍の戦闘で壊滅的に破壊され、その後廃墟となりました。


1880年代のアトゥマシー僧院。当時は、5層構造の美しい僧院でした。(画像をお借りしました)

そして私たちが見た、アトゥマシー僧院です。5層の僧院部分はすべてなくなり、最下層の、周囲にめぐらされていたアーチと階段のみが残っていました。


このブログを書くにあたって、
僧院の名前を尋ねたのですが、
夫はすっかり忘れていました。
なのでまずは、上の写真を手がかりに、
ネットで検索してみました。
でも不思議なことに、
同じような僧院がなかなか見つからず、
苦労しました。


それもそのはず。
ネットで探しまくったあげく、
「名前はアトゥマシー僧院」
ということはわかったのですが。
このアトゥマシー僧院は、1996年、
ビルマ政府によって再建されていて、
別人ならぬ別僧院になっていました。🤣


現在のアトゥマシー僧院です。周囲に巡らされたアーチの部分は、たしかに、夫が37年前に撮った写真と同じものです。笑(画像をお借りしました)


アトゥマシー僧院の再建工事は、
刑務所の受刑者労働を利用して
行われたそうです。
5層構造だったのが4層構造になっていますが、
オリジナルの姿をかなり再現しています。


驚きました。
私たちが訪れた1987年から、
37年もの年月がたっているとはいえ、
なかったものができちゃってるとは…。😅
あの当時の写真で検索しても、
これでは見つからないはずです。笑


37年の間に、シュエナンドー僧院の、
損傷していた木彫りは修復され、
なくなっていたアトゥマシー僧院は、
なんと再建されていました。😄


このブログを書かなかったら、
「現在はどうなっているか」なんて、
とうていわからなかったと思います。
でもこうして、いかに変貌したのかを
はっきりと見せられると、
37年もの年月の長さを、
しみじみと実感しました。


アトゥマシー僧院は、
最下層のアーチ部分は古いものの、
かつては僧院が破壊されていた状態だったし、
現在は、再建されて間もないということで、
歴史的価値はあまりないそうです。


けれど夫は、あの当時、
「この僧院に、ぜひ行きたい。」
と言っていました。
その理由は、
「かつてここで、多くの日本兵が戦ったから」
そして、
「そのときの、日英両軍の戦闘で、
 破壊されてしまった僧院だから」
です。


マンダレーは、第二次大戦時、
日本軍の激戦地となったところです。
この地を、ただ観光するだけでなく、
かつてこの国で、日本のために戦った、
たくさんの方々に、思いを馳せてみる…。
ビルマを歩くのなら、
そういうこともまた必要なのではないか、
と、私も夫も思っていました。


もちろん、亡くなった方々を悼むだけでなく、
戦場となったビルマの人々に対しても、
申し訳ない思いがありました。
夫の心中では、そんな、
さまざまな気持ちの延長線上に、
このアトゥマシー僧院があったのだと思います。


続いて私たちが向かったのは、クトードー・パゴダでした。マンダレー駅からここまで、ココさんのおかげで、効率よく移動できています。


ココさんは、私たちふたりを載せて、
サイカーをこぎ続けていました。
それも一日中なので、たいへんです。
でも、弟のウィンさんが、
自転車で伴走していて、ときどき、
ドライバー役を交替していました。😄


奥に見えているのが、クトードー・パゴダです。

入口でサイカーを降りました。手前左にあるのは、売店。


ここは、
クトードー・パゴダの正面玄関なのですが、
現在の写真をネットで確認してみて、
またまた驚きました。


同じ正面玄関の、現在の写真です。(画像をお借りしました)


クトードー・パゴダの別名は、
「白亜の仏塔群」。
白い仏塔の美しさが見どころなのだから、
こんな風にキンキラキンにしなくても…
と思うのですが、おそらくこれが、
ビルマの人々の美意識なのかな、と。😅


さて、この入口から、
さっさと中に入ればいいのですが、
そうならないのが私たちなんですね。😅
ここで、楽しい出会いがありました。


このおねえさん、ほっぺのタナッカーが、葉っぱの形で描いてあります。カワイイ。😄


【タナカ】
ビルマ人独特のスキンケアです。私たちが訪れた時は「タナッカー」と呼んでいましたが、現在ネットでは、「タナカ」と書くことが多いようです。
「タナカ」という名前の樹をすりつぶし、それを水に溶かして顔や肌に塗る、というもので、当時、ビルマでは、女性のほぼ100%がタナカを塗っていました。男性や子どもでも、タナカを塗っている人はいます。
タナカには、
・日焼けから肌を守る。
・毛穴を綺麗に保つ。
・肌を白くする。
・蚊から肌を守る。
…などの効果が期待できるそうですが、真偽のほどはわかりません。^^


これが「タナカ」の木を切ったものです。(画像をお借りしました)


普通は、「顔にただ塗りたくっているだけ」
という人が多いのですが、
この女性のタナッカーはリーフ柄。


「あら、そのタナッカー、すてきね。^^」
と、つい話しかけてしまいました。
すると…。


「やってあげる。座って、座って。」と。パゴダ前の売店のテーブルで、タナッカー大会が始まりました。MIYO、めちゃくちゃうれしそうです。笑

「これが、タナッカーの粉よ。」「なるほど~。」

「これを水に溶かして、顔に塗るの。」ワクワク…。

左から、始めま~す。

次は右ね。^^

この一部始終を見ようと、みんな、わらわらと集まってきました。乗り合い自動車までが、出発を遅らせて、MIYOのタナッカーができるまでを全員で見守っています。そしてみんな、いい笑顔なんだな、これが。😄


MIYOのタナッカーが完成したので、
おねえさんにお礼を言って
去ろうとしたのですが…。
ここで彼女が、
もじもじしながら言いました。


「あなたのその、アイシャドウ。
 すてきね…。」


あ~~~~。😄
わかりました。🤣


MIYOがタナッカーをやってみたかったように、
彼女もまた、同じように、
MIYOのメイクが気になっていて、
やってみたかったのですね…。😄


当時、ほぼ鎖国状態で、モノがなかったビルマ。
あの頃の女性にとって、
タナッカーは、唯一の化粧品。
なかなか手にすることができない、
外国のアイシャドウや口紅を、
彼女が気にしたのは、無理もないことでした。


「いいよ、いいよ~。ちょっと待ってね。」と言って、MIYOも化粧ポーチを取り出しました。いったいどんなのが出てくるのかと、全員、興味津々。🤣🤣

今度はMIYOが、おねえさんにメイク。

かんせい。😄 ビルマのタナッカーをつけたMIYOと、カネボウのアイシャドウと口紅をつけた、ビルマのおねえさん。ちなみに、子どもたちも全員、葉っぱ柄のタナッカーを塗ってるので、このおねえさんが描いてあげたのだと思います。笑


日緬メイク大会も無事に終わり、
おねえさんとお別れして、私と夫は、
クトードー・パゴダの中に入ったのですが…。


売店でいっしょにいたおチビちゃんが、ずうっとついてくるんですよね…。😅

「なあに? どうしたのかな~?😄」と話しかけたら…、


「あたちも、くちべにぬってほしいの!」
と、精一杯、訴えてきました。🤣🤣
髪が短いので、男の子かと思っていましたが、
よく見たら女の子でした…。😅
ビルマ語で言ってるんですけど、
なにを言いたいのか、よおくわかりました。^^


「はいはい、いいですよ~。」と、ここでまたもや、メイク大会。おチビちゃんに、口紅塗ってるところです。

おチビちゃんと手をつないで歩いた、「黄金の仏塔」。


ビルマまで行って、いったいなにやってんだ、
…と、笑われそうですが。😄
次になにが起こるかわからない、
でもおもしろいことばかりだった、ビルマ旅。
ひとつひとつのエピソードを思い出すにつけ、
なつかしくて、おかしくて、愛おしくて、
胸が締めつけられるような気持ちになります。


次回は、クトードー・パゴダの中を歩きます。


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 3 - ゼージョーマーケットからシュエナンドー僧院へ(1987年5月3日/3日め)

1987年5月3日 シュエナンドー僧院で。(ビルマ・マンダレー)


1987年5月3日(土)- 3日め


ゼージョー・マーケットで見つけた、
飾り物屋さん。


全部、紙でできています。仙台の七夕かざりみたい。^^

紙細工のうちわ。

たぶん、仏様にお供えするのだと思います。

ミャンマー伝統の糸操り人形劇「ヨウッテー・ポエー」に登場する人形たちを売るお店。

こちらで、「ヨウッテー・ポエー」を見ることができます。

【 アジアの人形芝居コレクション 】VOL.3 ミャンマー 伝統糸あやつり ヨウッテー・ポエーAsian Puppetry Collection


市場の中にも、やっぱり、かわいいパゴダがありました。ビルマはほんとうに、パゴダの国です。

ココさんが貸してくれた日傘を持って、市場で買ったバナナを食べてます。でも夫が撮りたかったのは、MIYOではなくて、後ろにある花炎樹の木。笑


そして再び、ココさんのサイカーに乗って、
街の中を走りました。


手作りのお菓子を売る女性。

道路を走っているのは、自転車と…、

馬車です!😄 自動車が全く走っていない、のどかな道路をご覧ください。

私たちのサイカーの前を走る馬車の中から、女性が笑いかけてくれました。^^


そして、シュエナンドー僧院に到着しました。
別名、 黄金の王宮の僧院


シュエナンドー僧院(Shwenandaw Monastery)です。夫、カメラに収めきれなくて、2枚に分けて撮っていました。それをMIYOがくっつけてみましたが…、

現在のシュエナンドー僧院です。屋根の一番上に装飾が追加されていますが、ほとんど同じ姿です。^^(画像をお借りしました)

上の写真の左側にある入り口の前で撮りました。ここで靴を脱いで中に入ります。


【シュエナンドー僧院】
マンダレーヒルの南東の麓にある、木造の僧院です。木彫りの装飾が際立つ、マンダレーを代表する建物です。もともとは王宮内にあり、ミンドン王が過ごした建物でした。その後、ミンドン王を継いだ、息子のティーボー王(在位1878〜1885年)が、この地に移築し、私的な瞑想の場として利用しました。ティーボー王が座ったとされる椅子が、現在も残されています。
この僧院は、コンバウン朝時代の歴史的な木造建築であると共に、見事な芸術作品としても知られています。建物の外壁や内側、屋根や入り口の周囲には、チーク材をふんだんに用いてあり、外壁、内部ともに、緻密で手の込んだ木彫りが施されています。


屋根や入り口の周囲に、木彫りの装飾がびっしりと施されていたはずなのですが、木彫りがはがれてなくなっている部分もあります。

現在の同じ場所です。すべてのマス目に木彫りが追加され、美しく修復されています。(画像をお借りしました)


シュエナンドー僧院のような、
昔ながらの木造建造物は、現在では、
ごく僅かしか残っていません。
この僧院も、
ミンドン王時代の木造建造物として、
唯一残っているものだそうです。


「こんにちは」と握手。入り口には、まだ幼いお坊さんがいました。

中に入ります。

内部です。かつては、全ての壁や柱に彫刻が彫ってあり、漆を塗った上に、金箔で装飾されていたそうです。

小さなお坊さんと。本当は、お坊さんに触れてはいけないそうなのですが、そんなこと全然知らなくてやっちゃってます。(スミマセン😅)


【幼い見習い僧】
ミャンマーの仏教徒の家では、多くの場合、子どもは幼い頃に出家し、仏門に入ります。出家すると、男子は剃髪され、見習い僧として数週間あるいは数ヶ月間、僧院に預けられ、その後、再び俗世に戻ります。本格的な出家というよりは、通過儀礼的な意味合いが強いものですが、中には、見習い僧としてそのまま残り、大人になるまで寺で修行する子どももいるそうです。


子どもたちの表情が、
どれもすばらしいんですよね…。
みんな、とてもいい顔をして、
笑ってくれるのです。
こうして写真を見ていても、
今にも語りかけてきそうです。
そんな、いきいきとした笑顔を、
ビルマでは、たくさん見せてもらいました。


次回は、アトゥマシー僧院を訪ねます。


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 2 - ゼージョーマーケット(1987年5月1日-2日/1日め-2日め)

1987年5月3日 マンダレー駅で。(ビルマ・マンダレー)


1987年5月3日(土)- 3日め


ラングーンから夜行列車に乗り、
一夜が明けました。


窓の外の景色。うわぁ、牛が畑を耕しています。^^

高床式の家が並ぶ、小さな村が見えました。

こんな村にも、パゴダが並んでいました。

マンダレー駅が近づいてきたようです。

これまで見てきたよりも立派な家が続くようになったな、と思ったら…、

マンダレー駅に到着。ホームにはたくさんの人がいて、全員、ロンジー姿です。

マンダレー駅の前で。こんな感じで、ビルマの中を歩きました。


とりあえず、駅に荷物を預けて、
シクロ(サイカー)に乗りました。
まだ朝早い時間だったので、
とりあえず市場に行ってみることに。


ビルマのサイカーは、二人乗りの荷台の横に
自転車を取り付けたタイプ。
自転車と反対向きに取り付けてあるので、
走行中、私たちはずっと、
後ろ向きで進むことになります。笑


ドライバーのココさんと。

道端でアイスクリームを買っていたら、ココさんの弟のウィンさんが、自転車で通りがかりました。


その勢いで、ウィンさんもいっしょに、
市場に行くことになりました。


どうやら着いたようです。

マンダレー最大の市場、ゼージョーマーケット(Zeygyo Market)です。

お店がたくさん並んでいて、にぎわっていました。

このあと、ココさんは市場の前で待ち、(なぜか)弟のウィンさんが、マーケットの中を案内してくれました。

男の人も女の人も、みーーーんなロンジー。パンツやスカートは皆無です。

お母さんといっしょに、手作り料理を売る女の子。

お水屋さんです。お金を払うと、バケツの中の水をコップに注いでくれます。ペットボトルもコンビニもない時代。お水を飲みたければ、こういうのを買うしかありませんでした。

秀逸だったのは、この「お水販売器」。バケツの上に、布の茶こしを取り付けてあります。お金を払うと、まずは、コップ一杯の水をこの茶こしに注ぎます。布で濾過された水をコップに受けて、それをもらって飲むシステム。


「布で濾すとか、
 いったいどんな水だったんだ。🤣」
「あのコップは洗っていたのだろうか。」
とか、今なら思いますが、
あの頃はこれしかなかったので、
もうふつうに飲んでいました。😅
そして、この「売り水」で、
お腹をこわしたことはありませんでした。


ザルに刃物を並べて売っているおばあさんと。夫が大好きな一枚。

素焼きの壺をたくさん並べたお店。

小さな食料品店。

乾物屋さん。

布地屋さん。夫にわざと立っていてもらったのですが、実は撮りたかったのは、この女性の方。藤色のロンジーがあまりにすてきだったので。髪飾りも同じ色で合わせておられました。^^

このあとは、食堂エリアになりました。中華鍋で油条を揚げては、ザルに並べています。

油条です。中国・タイ・ベトナム・台湾・シンガポールの伝統的な麩料理で、細長い揚げパンのようになっています。最近は、日本でもわりと簡単に食べられるようになりました。(画像をお借りしました)

食堂エリアなのですが…。どこまでが厨房で、どこからがお店なのか、よくわからない状態。🤣


ここまでずっと、
ウィンさんといっしょに歩きました。


前日、ラングーンで会ったフォーさん、
そしてマンダレーで会ったこのご兄弟。
みなさん、なぜか、
いきなり出会った私たちに、
おごってくれたり、案内してくれたり。
だからといって、
お金を要求するわけでもありません。


こういうことは、他の国では、
(たまにはありますが)
なかなか起こらないことでした。
でも、ビルマではこれが普通なのだと、
旅を続けるうちに、次第にわかってきました。


今思い出しても、
「あのころのビルマは、
 天国にいちばん近い国だった。」
という気持ちに、変わりありません。
ビルマ国内の、行く先々で出会った人々との、
さまざまなふれあい。
それは、他の国では、
なかなか得られない体験だったと思います。


楽しかった、ゼージョーマーケット。

ちなみにこれは、現在のゼージョーマーケット。もはや、タイとかベトナムの市場と変わりませんね…。(画像をお借りしました)


ゼージョーマーケットの、
あのなつかしい風景は、
今はもう、どこにもありません。
旅というのは、そんなものですね…。
今、この瞬間を見ておかないと、
もう二度と、見ることはできないかも。
「いつか行こう」と思っていても、
その場所は待っていてくれず、
やがてなくなってしまうかもしれません。


行きたいところには、
行けるときに行かなければ。
やりたいことは、
できるときにやらなければ。
会いたい人には、
会えるときに会わなければ。


旅だけじゃなく、
人生もまた、同じことかもしれません。


このあとも、マンダレーを歩きます。


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 1 - バンコクからラングーン、そしてマンダレーへ。(1987年5月1日-2日/1日め-2日め)

1987年5月2日 夜行列車に乗って、ラングーンからマンダレーへ行きました。(ビルマ・ラングーン)


突然ですが、
ビルマの旅日記を書こうと思います。爆


「なぜ急にビルマなんだ。」
「カンボジアはどうなったんだ。」
と叱られそうですが…。(スミマセン)
ずうっとカンボジアのことを書き続けたので、
ここでちょっとお休みして、
ビルマのことを、書いてみたくなりました。


これまで書いてきたベトナム・カンボジアから、舞台はさらに西へと移動します。ビルマ(現在のミヤンマー)の首都ラングーン(現在のヤンゴン)は、バンコクから西へ837㎞のところにあります。


アンコールワットの第三回廊で、
下界の景色を眺めたときのことです。
その瞬間に、なつかしく思い出したのは、
ビルマ・パガンのことでした。
私のとなりで、夫も、
「パガンに行ったときみたいだ。」
と…。
第三回廊の「王のバルコニー」で、
夫も私も、くしくも、
同じ日のことを思い出していました。


あの日、パガンで。
寺院の上から下界を見渡した日の思いは、
以来37年間、ずっと心に残っていて、
消えることはありません。


ベトナム・カンボジアの旅から帰国し、
このところずっと、
アンコールワットの日記を書いてきましたが、
第三回廊の日記を書き始めたとたんに、
私の頭の中で浮かんでは消えていったのは、
やはり、あのパガンの風景でした。


そんなわけで、懐かしいビルマの思い出を、
書きたくなりました。
37年も前のことを、今さら書いてしまって、
スミマセン。
昔のことなので、
写真もあまりきれいではないのですが、
お読みいただき、こんな国もあったのだな、と、
いっしょに楽しんでいただけたらうれしいです。


1987年5月1日(金)- 1日め


リタイアした今と違って、
当時は夫婦共に会社員でしたから、
海外旅行というと、たいていは、
GW、夏休み、年末年始と、
費用がばか高くなる時にしか行けませんでした。


このときの旅も、GW真っ只中の出発でした。
当時、日本からビルマへの直行便はなく、
まずは成田からバンコクへ向かいました。
バンコクで一泊してから、
さらに翌日、ビルマ行きの飛行機に乗る、
という計画です。


タイ航空で行きました。(MIYO27歳、多動夫29歳🤣)


バンコクに到着し、
ホテルにチェックインしたのは夕方ごろ。
そしていきなり屋台へ。🤣
当時、「タイの屋台料理」は、
日本ではなかなか食べられなかったので、
バンコクに着いたらいつも、
とにかく屋台に直行でした。笑


大好きな、センヤーイ ナムを食べてます。笑


1987年5月2日(土)- 2日め


午前中に少し時間があったので、
さくっとバンコク市内観光。


ランブータンやドリアンを、小さな女の子が売っていました。かわいいね。^^

なぜか、ヘビのショーなんか見て…、🤣

そのあとは、お船に乗って…、

ワット・アルン(暁の寺)。

王宮が、少しだけ見えました。

水上バスには、お坊さんも乗っています。

ホテルに戻ってお昼ごはんを食べたら…、


いよいよビルマに出発です。
今回は過酷な旅になるとわかっていたので、
旅行カバンではなく、
私も夫も、大学時代に使い込んだ、
バックパックを背負ってきました。


出発する直前に、旅行会社の鈴木さんが、ホテルまで来てくださいました。この一年前、初めてタイに来た時にお世話になった方です。赤ちゃんが生まれたと聞いていたので、お土産に子ども服をお持ちしました。

そして飛行機に乗り、おっかなびっくり、首都ラングーンに到着。

市内に高いビルなどはなく、パゴダばかりが目立っていました。

金色に輝く、シュエダゴン・パゴダ(Shwedagon Pagoda)です。


【シュエダゴン・パゴダ(Shwedagon Pagoda) 】
ミャンマーのヤンゴン中心部に存在する寺院(パゴダ)です。釈迦および釈迦以前にこの世に現れた3人の菩薩の遺体の一部が納められていると信じられていることから、重要な聖地とされています。6世紀から10世紀の間に建立されたと考えられていますが、地震によって幾度も破壊されており、現在の仏塔の原型は、15世紀ころに成立したようです。1608年、ポルトガルの探検家フィリプ・デ・ブリト・エ・ニコテがシュエダゴンを略奪した記録があり、第一次英緬戦争中には、イギリスが上陸し、シュエダゴンを奪取・占領し、以後2年間、ストゥーパ(仏塔)を要塞にしました。
さまざまな歴史に翻弄されながらも、シュエダゴン・パゴダは残され、現在も、ミャンマーの人々の信仰の象徴となっています。


街の中心部ですが、のどかな雰囲気。ロンジーを付けた女性がのんびりと歩いていました。

夕暮れ時、街の中を歩いていたら、いきなり日本語で話しかけられました。それが、フォーさんとの出会いでした。

ロンジー姿が決まっていた、フォーさん。日本語を勉強しているとのこと。会話の練習がしたくて、私たちに話しかけたのだそうです。

「ビルマ料理を食べたいですか?」と訊かれ、食堂に連れて行っていただきました。

街の中にあった、普通の食堂です。当時、ビルマはほぼ鎖国状態で、外国人はほとんど見かけませんでした。なので、私たちのことが珍しかったようです。私たちを見ようと、いろんな人がお店までのぞきにやってきました。笑

このときにいただいたのは、「オンノカウスエ」という、ココナッツスープ麺。フォーさんがごちそうしてくれました。

オンノカウスエ(Ohn no khao swè)です。(画像をお借りしました)


食事の後は、フォーさんといっしょに、
ラングーン駅まで歩きました。
夫が作ったスケジュールでは、
この日は、ラングーン(現在のヤンゴン)に
泊まることになっていました。
でも駅に着いてみると、運よく、
マンダレー行きの列車のチケットが買えたので、
急遽、予定変更。
ラングーンには泊まらず、
そのまま夜行列車に乗って、
マンダレーまで行くことに…。


ホームで、フォーさんが見送ってくれました。

「6日後、ラングーンに戻ったらまた会いましょう。」と約束して、出発。

1等車なので、一応、シートにカバーがかかっています。窓の外は真っ暗でしたが…、

どこかの駅に停まるたびに、窓越しに食べ物を売る子どもたちが集まってきて、「イエー! イエー!(水、水はいかが?)」と叫んで大にぎわい。トレーに載せた、緑色の包みは駅弁です。^^

私たちも買ってみました。バナナの葉っぱに包まれたものを開くと、黄色いおこわと鶏肉が入っていました。(8チャット)

おいしかったです。^^

夜も更けて、お休みタイム。私たちのことが気になって、なにかと話しかけてきたボクも、ぐっすり眠っていました。

↑これは夫のバックパック。置き場所がなくて困っていたら、ボクが自分の前の場所を提供してくれました。^^


ラングーン(ヤンゴン)からマンダレーまでは、急行で12時間。夜6時に出発した列車は、北へ向かって走り続けました。

どうでもいいことなのですが、この地図、すごく楽しい。笑 結婚して40年。その40年間で、夫といっしょに歩いたところに丸つけてみたら、こうなりました。(このふたり、アホちゃうか?って言われそうですが…。😅)


東京からバンコクに行き、
翌日はラングーンに飛び、
そこからいきなり夜行列車で、
マンダレーに移動です。
多動夫が企画する旅は、
今も昔も、とにかく忙しい。😂😂


このときの旅では、
バンコクで乗り継いだので、
ビルマに滞在したのは、8日間だけ。
飛行機で移動した日を除くと、
ビルマを観光できたのは、実質7日間。
その7日間で、
「当時外国人が行くことを許されていた所を、
 ほとんど歩いてしまおう」
というのが、夫の計画でした。
(↑昔から、やってることが変わりませんね…。😔)


そんなわけで、
ビルマ国内を駆けずり回った8日間。
なにもかもがめちゃくちゃでしたが、
その後の37年を全部振り返ってみても、
「いちばん楽しかった旅は」と尋ねられたら、
やはりこのビルマでの8日間だったと、
言わざるを得ません。


鎖国状態で、モノはなにもなかったけど、
あの頃のビルマは、ほんとうに、
「天国にいちばん近い国」でした。


人生で最高に楽しかった旅の、
全日程はムリですが、ほんの一部だけ。
「ラングーンからパガンまで」だけでも、
当時を思い出しながら、
書いてみたいと思います。


(つづく)