MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 120 - サッポロビール博物館① 巨大なウォルトパン(2021年11月14日/12日め)

2021年11月14日 サッポロビール博物館で。(北海道札幌市)


11月14日(日)


札幌の地下空間(チカホ)にある、
小さなアイヌ博物館のようスペース、
ミナパは、小規模だけど楽しいところでした。


再び街を歩いて…。


古そうな家を見つけて興味津々の夫。看板の「千歳鶴」の文字に喜んでいました。^^


さて。
本日最後の観光スポットに着きました。


サッポロビール博物館です。^^


中央に積み重ねられた樽には、
開業式のときの樽文字が再現されています。
「麦とホップを製す連者(れば)
 ビイルとゆふ酒になる」

(=麦とホップを製すれば
  ビイルといふ酒になる)
と書いてあります。


サッポロビール札幌工場で使用されていたウォルトパン(煮沸釜)です。ビールの仕込時に麦汁を煮沸するためのもので、この工程が味や香りに大きな影響を及ぼすそうです。このときにホップを加えて煮沸することにより、ビール独特の苦みと香りがつけられます。

さらに歩いて、正面の総合受付の方にまわりました。

何度見てもすてきです。^^

こちらは、隣りの開拓使館です。札幌に到着した日の夜に、ケッセルホールでジンギスカンを食べた日が、ずいぶん前のことのように思えました。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 11 - フェアフィールド・バイ・マリオット札幌とサッポロビール園(2021年11月3日/1日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


札幌の最後の夜だし、
もう一度ここに行ってみよう、
ということになりました。
ただし、今回訪れるのは、
「サッポロビール博物館」です。


【サッポロビール博物館】
JR札幌駅東側の「創成川イースト」と呼ばれる地域は、明治時代、国内を代表する工業地帯でした。今も、鮮やかな赤色の総れんがづくりの建物がいくつも並んでいます。その一つが、国内で唯一のビールに関する博物館「サッポロビール博物館」になっています。
館内には、国産ビール誕生の秘話が展示されています。のちに首相となる開拓長官の黒田清隆は、欧米列強に並ぶ国をつくるため、ビール製造に目をつけました。そこに、開拓使の行政官だった村橋久成やドイツでビール醸造を学んだ中川清兵衛らが集い、研究が始まりました。
北海道が「国産ビールのふるさと」になったのには理由があります。北海道には、ビール製造には欠かせない野生のホップがありました。「豊富な伏流水や氷を活用し、広大な大地でホップや麦を栽培すれば、北海道でビールがつくれるのではないか」という考えから、1876年(明治9年)、本格的な国産ビール第1号である「開拓使麦酒」の製造が札幌で始まりました。
博物館の建物は、1890年、札幌製糖の工場として建てられたものです。1903年、札幌麦酒会社(現・サッポロビール)の手に渡り、麦芽工場として使われましたた。工場は戦争を挟み、1965年までの約60年間、現役で稼働しました。高度経済成長の時代、サッポロ社内では、古い建物は使いづらいので取り壊そうという意見も出たそうです。しかし、その歴史や会社の歩みを刻む産業遺産を保存しようという機運が勝り、30年前、博物館に生まれ変わりました。
博物館は、隣りのサッポロビール園とともに観光名所となっており、年間40万人が訪れています。そのうち7割が外国人だそうです。(入場無料)


右側の入り口から入りました。

入場無料ですが、50分の有料ツアーもあります。

博物館の入口は3階にあります。ワクワクしてきました。^^

見学は、3階フロアから始まります。吹き抜け部分に設置された、巨大な煮沸釜の周囲に巡らされた螺旋階段を降りながら、2階のギャラリーへと進んでゆきます。煮沸釜は、この写真のように、じょうごをひっくり返したような形かと思っていたのですが、私たちの目にふれているのは、ほんの一部だけ。これは煮沸釜の上部なのです。

実は、その下の部分はこうなっています。でかいっ。爆


【煮沸釜(ウォルトパン)】
1965年(昭和40年)から2003年まで、札幌工場で使用されていたものです。銅製の煮沸釜は、ビールの仕込で麦汁を煮沸するためのものでした。直径6.1m、高さ約10m、要領85klです。ここでホップを加えて煮沸することにより、ビール独特の苦みと香りを付けます。


周囲に取り付けられたスロープを下りながら、煮沸釜をじっくりと見ることができます。

ほんとうにでかいですっ。🤣🤣

そして2階まで下りると、「サッポロギャラリー」があります。ここから、展示コーナーが始まります。


【サッポロギャラリー】
ビール製造業発展の道筋を、ブースごとにせ詰めしています。開拓使から始まり、戦前から戦後にかけて、140年にわたる日本のビール製造業の発展を、12個のブースに分けて紹介しています。


「01 1869年~ 開拓使のはじまり」
とあります。
01で始まるってことは、
何番まで続くのだろう、と思ったのですが…。


実は、説明パネルがこ~んなに奥まで続いているんです。爆


さて。
サッポロビールの、
長い長いお話が始まりました。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 119 - 再び札幌時計台、JRタワー、ミナパとアイヌ刺繍(2021年11月14日/12日め)

2021年11月14日 札幌時計台で。(北海道札幌市)


11月14日(日)


「ANAホリデイ・イン札幌すすきの」で
ランチビュッフェをいただきました。


ホテルを出たら、きれいな虹がかかっていました。


このあとは、札幌市内を、
ゆっくりと歩いてみることにしました。
(本当は、こういうのが好きなのです。^^)


札幌時計台までやってきました。

札幌時計台に行ったときの日記はこちらです。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 13 - 蟹工船の蟹天丼と、サッポロ街歩き(さっぽろテレビ塔、旧庁立図書館、時計台)(2021年11月4日/2日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 14 - 札幌時計台 / 引っ越し祝いのアラジン(2021年11月4日/2日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


札幌時計台のことを、

日本3大がっかりスポット

などと言う人がいますが、残念です。


たしかに、建物は小さいかもしれませんが、

札幌時計台は、

大きさを競う類の建造物ではないし。

それよりも、まずは、

エレガントな外観をじっくりご覧ください。


入口部分だけでも、こんなにすてきなんですよ。屋根にかかったレースのような装飾。玄関ポーチのかわいらしさ。時計部分の屋根は、和風を取り入れている感じもあるし、見れば見るほどおもしろいんです。^^


そして外観を見たあとは、

ぜひ、中に入って、歴史を経た佇まいと共に、

展示されているものを見ていただきたいな、と。


札幌時計台は、外から見るだけでなく、

中を歩いて北海道の歴史の一端を感じてみると、

よりいっそう味わいのある建物になるし、

愛おしさを感じる存在だと思います。^^


エラそうなことを言ってるわりには、こんなミーハーな写真を撮ってるんですけどね。笑

裏手にある野草園です。次に札幌に行くときは、ここが緑でいっぱいになっているかもしれません。

札幌駅まで来ました。右に見えるJRタワー展望室から、札幌の夜景を楽しんだことを、なつかしい思い出です。^^

そのときの日記です。

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 17 - JRタワーの夜景と、あこがれのセイコーマート(2021年11月4日/2日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

遠くの方に、観覧車のようなものを発見。その後、その観覧車まで行って、本当に乗ってしまいました。笑

そのときの日記です。

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 77 - 観覧車「ノルベサ」(2021年11月11日/9日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


ここからは、札幌駅の地下通路に入ります。

このあたりには、

ミナパとかアイヌ刺繍展示コーナーとか、

おもしろい展示があります。

以前、地下通路を歩いていて、

たまたま見つけたスポットなのですが、

夫にも見せたくて、またやってきました。

そのときの日記です。

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 24 - アイヌ刺繍と日本キリスト教団 札幌教会 / 夢庵の天丼とANA函館行き航空券を半額で買う(2021年11月5日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


アイヌ文化を発信する空間「ミナパ(minapa)」に到着。ミナパとは、「大勢が笑う」というアイヌ語です。


アイヌ民族のコタン(集落)。1872年(明治5年)の写真です。北海道を開拓した人たちの住まい「開拓小屋」は、アイヌのチセを模倣して作ったのではないかと思います。

「アイヌ民族と狩猟」図。クマの穴に柵を作って出られないようにし、中のクマを矢で仕留めました。アイヌ民族は、エゾシカ、ヒグマ、ウサギ、オットセイ、クジラなどの狩猟を行いましたが、狩猟の後には、仕留めた動物の霊を神の国に送る儀式を行いました。

アットゥシ(樹皮衣)。


以下は、アイヌ刺繍の作品です。


「鶴の舞(サロルンカムイリムセ)」

「狩りに行く道(キロル)」

「大地(モシリ)」

「花芽(ノンノケニ)」

「守り神とする(コシラッキコロ)」

「美しい鳥が飛ぶ(ピカチカホプ二)」


どの作品もすてきで、

夢中で写真を撮りました。

美しいアイヌ刺繍の数々が、

なにげない駅の地下通路で、

ケースに入れられて、

大切に飾られていました。

そんな札幌の街を、愛おしいと思いました。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 118 - 旧黒岩家住宅④ 和室④と、「ANAホリデイ・イン札幌すすきの」でお昼ごはん(2021年11月14日/12日め)

2021年11月14日 旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)で。4つの和室を、順に歩きました。(北海道札幌市)


11月14日(日)


旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)に来ています。


前回までに、
 玄関
 定山渓鉄道資料コーナー
 馬小屋
 納屋(通路を含む)
 居間
 台所
 広間
 旧玄関
 和室①-③
を見てきました。


和室③で、クマの敷物とともに。

こちらは、玄関に飾ってあった、巨大なクマの毛皮です。


旧黒岩家住宅の中には、
計3体のクマが展示されています。
こんなにもたくさんあるということは、
それだけ、簾舞に多くのクマが出没した、
ということを意味します。


日常、山や畑で仕事をしていても、
いつクマが襲ってくるかわからない。
そんな恐怖に怯えながらの
生活だったようです。


さて、残るのは、和室④のみとなりました。

写真の奥が和室④です。ここは、なにもない6畳間でした。和室③との間には襖一枚があるだけなので、宿泊客が多い時には、襖をはずして広い部屋にしたのかもしれません。


すべての部屋の見学を終えました。
最後に、この家の主であった、
黒岩清五郎について書いておきます。


【黒岩清五郎(1824-1890)】
未開の地だった簾舞(みすまい)の開拓は、1872年(明治5年)、簾舞通行屋の屋守として黒岩清五郎とその家族の計3名が入植したことから始まりました。
清五郎は福岡県三井郡の出身で、江戸を経由して安政年間に渡道し、当初は有珠善光寺の寺侍を務めました。その後、軍川(いくさがわ)に移って農業に従事しました。水田の試作に好成績をあげたことにより、箱館奉行所から同地の通行屋屋守を命ぜられました。

その当時の軍川にあった民家の写真です。清五郎も、このような家で暮らしていたと思われます。

明治4年、有珠新道の開通に伴い、清五郎は、簾舞通行屋屋守として簾舞の地に入植しました。当時の簾舞は無人の地で、通行する人もほとんどなく、明治15年に入植者が現れるまでの10年余りは、清五郎一家のみが、通行屋経営と開墾を行いました。一家は、開拓使の援助と自らが開墾した畑作からのわずかな収入によって生計をたてました。実直な人柄であった清五郎は、開拓使の信任が厚く、手厚い援助を受けながら、通行屋経営と開墾の仕事に堪えました。
地区農業の先駆者として、旧豊平町の開拓に生きた清五郎は、明治23年、この簾舞の地で亡くなりました。


北海道開拓の村で見た、
「開拓小屋」を思い出しました。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 30 - 北海道開拓の村③(旧小川家酪農畜舎、旧菊田家農家住宅、開拓小屋)(2021年11月6日/4日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


開拓小屋です。「本当にここ?」 と、地図を見て、何度も確かめました。出入り口にムシロを下げただけの小屋で、冬の北海道をどうやって生き抜いたのでしょうか。

開拓時代の写真です。開拓時代の人々は、たしかに、このような家で生活していたようです。(画像をお借りしました)


北海道の開拓者は、
まず、生い茂る笹や草を刈り、
木を切り倒して土地を拓き、
そこに小屋を建てることから始めました。
移住者が最初に建てたこのような住宅を、
開拓小屋と言うそうです。


困難を極めた、初期の開拓者たち。
そして、黒岩清五郎もまた、
このような開拓小屋に住みながら、
開拓を続けたひとりでした。


現在残っている「簾舞通行屋」の遺構は、
いくつもの部屋を擁する、大きな家屋です。
ですがそれは、たやすく手に入れたのではなく、
開拓者としての清五郎が、
その人生を賭して作り上げたものでした。


見学を終えて、玄関まで戻ってくると、木製の机といすが置いてあるのに気がつきました。簾舞の小学校で、かつて使われていたものだそうです。


ああ、そうでした。
MIYOが小学校の頃も、こんな机といすに座って、
授業を受けていました。
なつかしい。^^


そして小学校4年頃だったでしょうか。
新品の机といすが、全員に支給されました。
ピカピカの机といすはスチール製で、
成長に合わせて高さの調節ができたので、
各自の持ち物とされ、
卒業まで、同じ机といすを使用しました。


その後、中学校でも、
同じような机といすを使いましたが、
高校に入ったら、
またも、木製の机といすに戻りました。笑
愛媛県の田舎町の話ですからね。^^
小学校と中学校はなんとかなったけれど、
高校までは、予算がなかったのでしょう。😅


そして今もなつかしく思い出す、スタッフのAさん。


見学者は私たちふたりだけだったので、
Aさんも時間に余裕があったようです。
とても熱心に、町のお話を
聞かせてくださいました。
ご覧ください。
Aさんの楽しそうな表情。^^


Aさんは、簾舞に住んでおられる方です。
現在は、リタイア後の時間を利用して、
週に何回か、郷土資料館のスタッフとして
勤務しておられるそうです。
(そういえば、札幌市資料館でガイドしてくださったOさんも、
 リタイア後、ボランティアとして勤務しておられました。)


老後の時間の使い方として、
なんと有意義なのだろう、と
このときは感心しました。


ですがその後、日本の各地を旅行していると、
多くの観光スポットが、
このようなシニアスタッフによって
支えられていることに気がつきました。


行政としては、
時間に余裕があるシニアを活用すれば、
正規職員を雇うよりも人件費が抑えられます。
そしてシニアスタッフは、
自宅からほど近いところで、
自分の都合に合わせた勤務体制で働き、
「謝礼」をいただけます。


地元の資料館や博物館などで、
有償ボランティアとして働くことは、
誇らしく、楽しく、
そしてやりがいのある仕事であるのは、
各地でおひとりおひとりと話しているうちに、
すぐにわかりました。
人生経験を積まれてきたからこその
言葉づかいや気働きを、いつも感じます。
誰もが、いい笑顔をされていました。


全国各地で、観光スポットを支える、
シニアボランティアさんたち。
こんないいこと、
いったい誰が考えたんでしょうね。^^


なにかほっこりとしていて楽しかった、旧黒岩家住宅(簾舞通行屋)。

これは住宅の裏側です。かつての佇まいをそのまま残しています。

なんだか立ち去りがたくて、このあと、町内を30分くらい、散歩しました。😄


山に囲まれた簾舞の地はのどかで、
ゆったりとした、楽しいひとときでした。


さて。
午前中いっぱいを簾舞で過ごしたあとは、
札幌にもどってお昼ごはんです。


今日のランチは、すすきのにある、「ANAホリデイ・イン札幌すすきの」でいただきます。ここまでの写真と比べるとエライ変わりようですが、同じ札幌市内です。^^


宿泊している
フェアフィールドバイマリオット札幌
のレストランは、
(我が家にとっては)高くて、
とうとう一回も利用できませんでした。
せめて最後の日くらいは、
ホテルでランチしたいね、ってことで、
ここに来ました。


MIYOはホテルの前で車を降り、
夫はレンタカーを返却しに行きました。
そして、レストランの前で待ち合わせ。
ホテルのロビーで休憩していたら、
ほどなく、夫もやってきました。


前日に、ホテルの2階にある「オールデイ・ダイニング・ヴェルデ」を予約してありました。

店内はカジュアルな雰囲気です。

そして、ランチビュッフェのメニューは日替わりなのだそうです。(1回しか行きませんでしたが。笑)

お料理は種類も多く、かなり充実。人気のスポットのようで、たくさんの人が訪れていました。

ライブキッチンもありました。日替わりのライブメニューとパスタはここで作っていただけます。

スイーツもおいしそうです。^^

MIYOのお昼ごはん(1回め)。このあと何回も取る予定なので、いろんなのを少しずつ。ごはんもちょっぴりです。イタリアンと中華がごちゃまぜですが、おいしかったです。笑

夫のお昼ごはん。イタリアンと中華にカレーライス、唐揚げにお蕎麦と、もうワケがわかりません。爆

最後のデザートとカフェオレです。スイーツはどれもしっかりと作られた味でした。


充実のランチビュッフェは、
ひとり1430円(税込)。
オトクだったと思います。^^
事前にホットペッパーから予約して
ポイントをゲットし、さらに、
ANAホリデイ・イン札幌すすきの」
なので、ANAカードで支払いました。



支払い額は2860円ですが、
通常のクレカポイントに加えて、
さらに1%が、
ANAマイルとして付与されます。
つまり、28マイル。^^


ANAマイルがもらえるというのが、
お店をここに決めた理由でした。笑
こういう、日ごろの地道な積み重ねで、
マイルを貯めています。^^


ポイ活は、夫から、
「くだらない。みみっちい。」
とバカにされながら、
20年以上、続けてきました。


その集大成を、定年後に使っています。
このときの札幌旅行から1年間で、
北海道に5回、沖縄(宮古島・石垣島を含む)に5回、
計10回、行きました。
(このほか、青森や能登にも行ってます。笑)
ふたりぶんですから、
ざっと200万円分くらいでしょうか。
全部マイルなので、お金は使っていません。


過去20年に貯め続けたポイントを、
ANA40万マイルに交換し、
せっせと使っています。


たとえば、20万マイルでお買い物すれば、
20万円分にしかなりませんが、
航空券に交換すると、
100万円分くらいになります。
(おおまかな計算です。)


それにやっぱり、マイルって夢があります。^^
「今月はスーパーで*0000円買い物したけど、
 ポイントで払ったから全部タダだったよ。」
と言っても、家族は、
「ふうん…。」
と言うだけ。
でも、
「今度の北海道旅行、チケットはマイル利用だから、
 全員タダだよ。」
と言うと、夫も長女も喜ぶんですよね…。
なんていうのかな。
「ポイントを使った喜びが、より大きい。」
「達成感がある。」
って言うのかな。
そんな感じがします。


4年くらい前に、
「航空券に利用すれば、
 1ポイントが5円分以上の価値になる」
ということを知り、
手持ちのポイントをANAマイルに
交換するようになりました。


ビジネスクラスでヨーロッパに2回行きたくて、
40万マイル(ふたり分)も貯めたのですが、
コロナでフライトはキャンセル。
仕方なく、国内旅行に方針転換しました。
以来、使いに使って、旅行しまくって、
残すところ、あと10万マイルになりました。


まだまだ、大丈夫。
北海道に、あと10回は行けそうです。笑


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 117 - 旧黒岩家住宅③ 広間、旧玄関、和室①-③(2021年11月14日/12日め)

2021年11月14日 旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)で。4つの和室を、順に歩きました。(北海道札幌市)


11月14日(日)


旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)に来ています。


前回までに、
 玄関
 定山渓鉄道資料コーナー
 馬小屋
 納屋(通路を含む)
 居間
 台所
を見てきました。


居間を出ると、広間と旧玄関があります。


広間は、現在では、様々な物品を
展示するスペースとなっています。
ここだけでなく、家屋内のあちこちに、
たくさんの展示がありました。


旧黒岩家住宅の模型です。真ん中に、現在の玄関となっている引き戸がありますが、かつてはこの左に、もうひとつの玄関(旧玄関)がありました。

昭和期まで使われていた、旧玄関です。玄関前の庭を埋め尽くすように積み上げられた薪の量に驚きます。

写真もたくさんありました。下の写真は、ソーケシュオマベツ駅逓所です。黒岩家は通行屋でしたが、その役割は、駅逓所と同じでした。

北海道開拓の村にある、旧ソーケシュオマベツ駅逓所の写真と、ここを訪れた時の日記です。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 28 - 北海道開拓の村①(鉄道馬車、旧ソーケシュオマベツ駅逓所、旧納内屯田兵屋)(2021年11月6日/4日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

「熊と争う」と題された写真の数々です。左上が、熊に左腕を噛まれた加藤さん。多くの人々が、熊と戦いました。


【熊と争う】
(展示の説明文から)
手負い熊が、簾舞(みすまい)の里に下りてきて、大松寺の裏山に現れました。当時加藤さんは薪を切っていたのですが、うしろで「ウオッ」という物凄い声がしたので、振り向くとすぐ間近にその熊がいました。
突然のことに驚き、危険を感じた加藤さんは、薪切りを手伝っていた16歳の子供を逃がしてやり、すぐさま手元にあった刃広(はびろ)を取り上げて熊に向かいました。が、夢中で格闘しているうちに、左腕をがぶりと噛まれてしまいました。
ちょうどその時に、近くで人声がしました。そのせいか、熊は素早くその場から逃げ去りました。加藤さんは、全身傷だらけの重傷を負ったのですが、一命をとりとめることができました。
その熊はその後、大松寺の物置に駆け込んだところを、地元ハンターによって射殺されました。
このできごとは、今でも語り草となっています。


旧黒岩家住宅のあちこちに
クマが飾ってあるのは、
ただの飾りではなかったのですね…。
殺されたクマもかわいそうですが、
住んでいる方々にとってみれば、
そんなことを言ってる場合ではないのも、
もちろんわかります…。


広間を通り抜けると、板の間を囲むように、4つの和室があります。

黒岩家は宿屋を兼業しており、多くの部屋が必要だったため、このような間取になったようです。

広間から入ってすぐ、左手にある6畳間(和室①)です。箪笥や行李が置いてあるので、ここは家人の部屋だったのかもしれません。

4つの部屋は、それぞれ、襖一枚でつながっています。

和室①(左)と和室②(右)です。

そして和室②から和室③を見たところです。

和室③は、少し大きめの8畳間です。

和室③には床の間があり、縁側に面していて明るいので、いちばん高いお部屋だったのかも。^^

やはり目を引くのは、8畳間いっぱいに敷かれた、クマの毛皮です。

…なのですが、夫はクマではなくて火鉢が気になったようです。笑

このときに夫が撮った火鉢です。たしかにすごいですね。大木の切株で作ってあるようです。


あともう少しなのですが、
長くなりましたので、
続きは次回にいたします。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 116 - 旧黒岩家住宅② 通路、納屋、居間、台所(2021年11月14日/12日め)

2021年11月14日 旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)で。玄関から居間を見たところです。(北海道札幌市)


11月14日(日)


旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)に来ています。
玄関を入って右側の、
「定山渓鉄道博物館」のようなスペースから、
つきあたりを左に行くと、
さらに展示が続いていました。

通路にびっしりと置かれているのは、かつて使用されていた、様々な農機具です。

納屋の中には、雑多な生活用具も。なんだかほんとうに、農家の納屋に入ったみたいな感じです。笑


普段の生活で使っていたと思われるスキーも並んでいました。

湯たんぽばかりを並べているコーナーで、不思議なものを見つけました。「国策湯丹保」と書いてあります。


【国策湯丹保】
戦時中、戦争遂行のための兵器生産に充当するため、あらゆる金属性の生活物資が供出させられ、その代替として「代用品」がつくられました。そういった動きは、1938年(昭和13年)頃から始まったようです。供出の対象とされたのは「鋼及び銑鉄、銅、白金、鉛、亜鉛、錫…」で、鉄鋼その他の金属の代用品としては、陶磁器、木製品などが推奨されました(昭和13年7月20発行 内閣情報部『週報』)。陶製の湯たんぽは、金属製湯たんぽの代用品の典型で、数多く見られます。が、表面に「国策湯丹保」と銅版転写され、その意図が明示されているものは、そう多くは残されていません。貴重な戦時資料と言えます。
この国策湯丹保は、側面に溝が彫られています。布を巻きつけて使用したので、布が外れないようにするため、または熱が直接素肌に当たらないようにするための工夫だったと思われます。


ひとつひとつがおもしろいのですが、
じっくり見ていると、
ここから出られなくなりそうなので、笑
この辺で家の中に入ってみることにしました。


靴を脱いで玄関を上がったところにあるのが、居間です。

正面つきあたりには、神棚があります。

玄関に大きなクマの毛皮が飾ってありましたが、こちらにあるのは、ちょっとかわいい、小さめのクマさんです。

この居間の右側には、台所があります。

展示品を入れたガラスケースが見えますが、その向こうが台所です。

台所です。

煮炊きをするかまどは、土間とか部屋の隅にあるものと思っていましたが、この家では部屋の中に鎮座していました。

天井部分です。梁から火棚が提げられています。

そして、かまどの反対側(窓際)には、流しがありました。

これは「すわり流し」というものです。


【すわり流し】
水や火を使う台所は、湿気や煙を出す必要があります。そのため、土間の一隅に設けられていました。しかし、水や火の便が良くなるにつれて、狭い土間よりも「居間につづく床上」に設けられるようになり、これを「すわり流し」と呼びました。
宿屋を兼業していた黒岩家では、炊事量が多かったので、早くから「すわり流し」をとり入れたものと思われます。
このような、古民家におけるすわり流しは、全国でもあまり見られないものです。「洗うという仕事が家の中でできるようになった」ことの背景には、水道のインフラ整備や普及が大きく影響しています。


土間ではなく、家の中の土足でない場所に
水回りやかまどがあるというのは、
今でこそあたりまえですが、
上水道などのインフラが整備されてこそ、
だったんですね…。


再び、居間に戻りました。

今度は、その向こうに続く部屋を見てみます。


(つづく)