MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 105 - よいち水産博物館④ 北海道鰊大漁概況之図、奥寺家の神棚、そして会津藩士団(2021年11月13日/11日め)

2021年11月13日 よいち水産博物館で。かつて、リンゴの木箱に貼られていたラベルの数々です。(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


よいち水産博物館に来ています。
前回は、陸揚げされたニシンが、
もっこ背負いによって運ばれ、
ニシン粕に加工されるまでを見てきました。


ニシン漁場の一連の作業について、
「北海道鰊大漁概況之図」という、
明治時代に描かれた絵が残っています。
横長の壮大な絵なので、4分割で掲載いたします。


右下:カムイに祈りを捧げるアイヌ民族が描かれています。
左下:陸揚げされたニシンを、もっこ背負いが廊下へと運び、ニシンつぶし、釜炊き、干場、船積みなどの一連の作業を行っています。

右上:海上では、定置網漁と刺網漁がおこなわれています。
右中:警察官や病院長などのお偉方に、大船頭が漁の模様を説明しています。対応を増させた洋装の主人は、望遠鏡で漁の模様を眺めています。
中央:ニシンの搾りかすの塊や、細かく砕いて干している様子が描かれています。小間物商や木綿商、餅を売り歩く人や収税委員なども随所に見られます。

右下:干場のニシン粕にムシロをかけて発酵させています。粕が灰色から茶色に変色すると、俵につめます。
左下:俵詰めされたニシン粕が、船で出荷されるところです。

ニシン粕は、さらに大きな舟に積まれ、日本全国へと運ばれました。

ジオラマもありました。定置網漁でニシンを獲っているようすです。

浜を埋め尽くすように、たくさんの番屋が並びます。

ニシンの釜炊き場や、ニシンを干す納屋場も見えます。

最後に、奥寺家の神棚が展示されていました。奥寺家は、1870年に余市に移住し、余市地方で大型の網を使ってニシン漁を営んでいました。明治から昭和にかけては、ニシンの定置網10か所以上を運営した大漁家でした。神棚は、ニシン漁の大漁、作業の安全、無病息災を祈ったもので、今も多くのお札が残されています。

1868年からニシン漁に携わった、中村家の神棚です。

ニシン漁船に積まれたお札と、お札を入れた木箱です。

ニシンを追って蝦夷地に出漁した人々が、大漁を願って信仰したのが、竜宮三尊(稲荷、弁財天、竜神)でした。

左から、弁財天、竜神、稲荷(ニシンの神様)です。


さて。
この博物館に来て、
私たちが初めて知ったことを、
最後に書いておきたいと思います。
それは、余市に入植した、
会津藩士団についての展示でした。


会津藩士団が提出した御受書の副本が、今もよいち水産博物館に保管されています。


【会津藩士団の御受書】
1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争で、会津藩は最後まで戦い続けましたが、討幕軍との激戦の末に降伏し、ついに廃藩となりました。敗残の会津藩士たちは、「朝敵」「逆賊」の汚名を着せられて蝦夷地行きを命ぜられ、1869年(明治2年)に小樽に到着します。翌年、余市郡への移住が決定すると、旧会津藩士団は、開拓使に御受書を提出します。そこには、「朝敵」の汚名をそそぐ固い決意を表して、227名の名を印し、血判を押してありました。その副本と思われるものが、よいち水産博物館に保管されており、余市町指定文化財となっています。


右上にあるのが御受書です。文書のはじめには、「朝敵(天皇の敵)」と呼ばれた汚名をはらす決意とともに、「天皇のご恩に報いて仕事に励み、もしも怠ればきつく戒めていただきたい」という意味の言葉が記されていました。


【入植後の会津藩士たち】
士族から農民へと立場が変わった旧会津藩士たちは、御受書に記した決意の下、刀を斧や鍬に持ち替え、周囲からの「会津降伏人」という蔑視に堪えながら、荒れ地を耕し、開墾に励みました。過酷な重労働と苦しい生活が続く中、1879年(明治12年)に、少量ながらリンゴが結実。その後、「余市リンゴ」は名声を博し、余市地方周辺の果樹栽培の基礎を築くこととなりました。


【農業移民とリンゴ栽培】
大木が空を覆い、熊笹や雑草が生い茂る原野に入った旧会津藩士たちの生活は過酷で貧しいものでしたが、やがてリンゴが実り、収穫が安定すると、暮らし向きは良くなっていきました。
明治12年ごろには、会津藩士団に続いて秋田団が入植し、その2年後には筑前団も入植。こうして、余市町のリンゴ栽培は広がって行きました。


かつて、リンゴの木箱に貼られていたラベルの数々。左の中段にあるのが、旧会津藩士団ゆかりのラベルです。右上にあるのは、木箱を開ける時に使ったくぎ抜き。そうでした。小さいころ、リンゴは木箱に入っていました。もみ殻も詰まっていましたよね。^^ 右下は、抜き型です。木箱にあてて、上から墨でこすり、文字を書きました。

会津藩士団の子弟の武芸修行のために、講武館が設けられ、剣術や槍、柔術の指導が行われていました。そこで教えられた柔術(真妙流)は、江戸藩邸や会津で伝えられてきたもので、会津藩士団によって、余市にも伝えられました。

彼らの苦労を偲び、1920年(大正9年)、「開村記念碑」が建立されました。余市入植50周年を記念して、旧会津藩関係者が建てたものです。(余市町指定文化財)(画像をお借りしました)


【開村記念碑】
記念碑が建てられている付近は、かつて藩士団の幹部住宅や教学所、共同浴場などがあった場所で、その通りは現在も「侍小路」の名で親しまれています。石碑の横には、オンコ(福島のイチイ)が見えます。これは、1984年(昭和59年)、会津藩最後の藩主である松平容保公の孫にあたる松平勇雄福島県知事が来町した際に、植樹したものだそうです。また、その向かいには、戊辰戦争の責任者として切腹した会津藩家老の萱野権兵衛を偲び、「殉節碑」が建立されました。


イチイの木についての説明は、こちらに書いてあります。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 5 - 平岡樹芸センター④ / RAMEN RS 改でお昼ごはん(2021年11月3日/1日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

萱野権平衛とその次男・郡長正については、以前の会津日記で書いています。
コロナでも福島。満開の桜の下、城を仰ぐ 26 - 会津が教えてくれたこと(2021年4月10日/2日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


2021年4月の福島旅行では、戊辰戦争での、
会津藩士たちの悲惨な最期の記録を見て、
胸を突かれるような思いでした。
が、彼らのさらにその後の話を、
遠く離れた余市で知ることになるとは、
想像もしていなかったので、
たいへん驚きました。


リンゴ農家として苦労の連続であっても、
子弟のための講武館を作った、会津藩士たち。
彼らはいつでも前を向き、武士としての誇りを
持ち続けていたのだと思います。
やはりどこまでも、会津藩士だったのですね…。


余市における現在の果樹栽培の
基礎を築いた、会津藩士団。
彼らの記録は、余市町はもちろんのこと、
明治期における北海道開拓と、
その後の農業の発展を語るうえで、
不可欠かつ貴重なものとして、
よいち水産博物館で、今も大切に保管されています。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 104 - よいち水産博物館③ もっこ背負いからニシン粕の出荷まで(2021年11月13日/11日め)

2021年11月13日 よいち水産博物館で。納屋場の身欠きニシンともっこ背負いの女性が描かれています。(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


よいち水産博物館に来ています。


整然と並べられた、ニシン漁関連のアイテム。

当時の人々の作業着も展示してありました。左はもっこ背負い、右は漁夫が着たものです。

ひとつひとつに、丁寧な説明のプレートが付けられていて、博物館の方々の意気込みが伝わってきます。^^

【船ともっこ背負い】
やはりまずはここからですね。タモ、枠船、磯船、そして右にあるのは、お馴染みのもっこです。壁の写真も、ひとつひとつがすばらしいものでした。^^

作業時の衣装を着せた「もっこ背負いの人形」まで置いてあるのが、泣かせます。😂😂

【ニシンつぶし】
もっこ背負いによって運ばれたあとは、「ニシンつぶし」が始まります。その工程で使われた道具類が並んでいました。左の方に木の箱がありますが、これは、つぶし方が使っていた「テッコ」です。ニシンをさばき、この中に、数の子や白子を入れました。右側の木組は、藁で結んだ身欠きニシンを干すために使いました。

つぶし方は、こんな台座に座って作業をしました。白子(精嚢)やカズノコ(卵巣)は各々の容器(テッコ)に入れ、エラから口にかけての部分は、藁で結んで天日で干しました。
ニシンつぶしの詳細はこちらです。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 92 - 旧余市福原漁場⑤ 石倉(ニシンつぶしと漁の終焉)(2021年11月13日/11日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

旧余市福原漁家には、納屋場(干場)の一部が、当時のままに残されていました。ここで、内臓を取り除いたニシンを干し、身欠きニシンを作りました。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 90 - 旧余市福原漁場③ 納屋場、雑倉、石倉(北前船)(2021年11月13日/11日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

【ニシンを煮る】
大きなニシン釜です。ニシン粕を作る際に、ニシンを煮るために使われました。(直径1.3メートル、深さ0.6メートル)

ニシン釜にニシンを入れ、海水と共に煮上げます。

こんなふうに、ニシンをドバドバと釜に入れたんですね。^^

【圧搾する】
煮あがったニシンを圧搾機にかけて搾ると、粕玉になります。圧搾機は、当初は角胴(右)でしたが、後に丸胴(左)が使われるようになりました。後に、丸胴はさらに改良されて、金属製になります。

それぞれのコーナーに置かれた説明パネルも、わかりやすくてすばらしいです。ていねいな仕事ぶりに、頭がさがります。


圧搾器から抜いた粕玉を砕いて
莚(むしろ)の上に広げ、
乾燥させれば、ニシン粕の完成です。


つまり、ニシン粕を作る手順は、
 ①煮る。
 ②搾る。
 ③搾りかすを乾燥させる。
の3つでした。
(意外とシンプルですね。^^)


【梱包と出荷】
できあがった身欠きニシンをヒモで束ねて縛るために使った、身欠き結束機です。

ニシン粕は俵に入れ、棒はかりで重量を測りながら梱包しました。

俵の重量を測るときは、棒を使って、ふたりがかりで棒はかりを支えたようです。こんなイラストまで置いてあるとは、この博物館、すごすぎます。😅

ニシン粕一俵の重さは、26貫(97.5㎏)と決まっていました。

ニシン粕梱包の風景

船によるニシン粕の出荷風景(奥寺家)

余市駅での出荷風景


ニシン粕の生産作業についての展示は、
これまで、他所でも見てきましたが、
なかでも、この博物館のすばらしいところは、
ひとつひとつのアイテムに、
丁寧な説明が付けられているところです。


人形やイラストを使い、
「より具体的に実像がイメージできるように」
と工夫されているところも泣かせます。
展示されている写真も、臨場感にあふれていて、
ワクワクしてくるようなものばかりでした。


このときは、あまり時間がなくて、
駆け足で回ってしまったのですが、
今さらながら、それが残念です。
「ニシンのことをしっかりと伝えたい。」
と願う、人々の熱意が伝わってくる、
すばらしい博物館でした。


余市の漁場の風景です。藁で結んで干してある身欠きニシンともっこ背負いが描かれています。ニシンを満載したもっこは、20キロ近い重さがあったそうです。それを背負って運ぶのは女性の仕事でした。

増毛で見た、もっこ背負いの女性を思い出しました。いい笑顔でした。
コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 13 - 千石蔵①(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


次回は、よいち水産博物館で初めて知った、
「会津藩士団」について書きたいと思います。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 103 - よいち水産博物館②(ニシン漁の歴史)/ ANAファーストクラスのカレー(2021年11月13日/11日め)

2021年11月13日 よいち水産博物館で。ニシンについての展示を見ました。ニシンはイワシに似ていますが、イワシより平たい魚です。春に産卵のために沿岸に来るので、「春告魚」とも呼ばれます。漢字の「鰊」のつくり「柬」は「若い」という意味。小魚を指すことから、ニシンにこの字が当てられました。また、「鯡」とも書きます。つくりの「非」は否定を表し、「まだ成魚になりきっていない魚」という意味を表しています。「鰊」と「鯡」はどちらも「ニシン」と読みますが、どちらが先にできたかは不明です。が、室町時代の『節用集』には、両方の字が記載されています。(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


よいち水産博物館に来ています。


【よいち水産博物館】
ニシン漁で栄えた余市町の歴史資料を中心に展示しています。また、考古資料を中心とした展示の「歴史民俗資料館」を併設しています。館内で特に注目したいのは、ニシンに関する膨大な資料群です。これらのニシン史資料は、北海道開道100年を記念して町中心部に開設したよいち水産博物館に集積されたもので、枠船、網、タモ類、網元家財具のほか、文献写真資料も豊富です。
ニシン漁の積丹場所は、表積丹(小樽市、余市町)と裏積丹(岩内町、泊村、神恵内村)に分かれますが、表積丹の中心地が余市でした。シリパ岬の海岸には、今日も多くの番屋、建網投錨地原標などの現地遺産が残っています。近くには重要文化財の旧下ヨイチ運上家、旧余市福原漁場もあり、3か所をまとめて見学することも可能です。


アイヌの人々に関する展示が終わり、
次はいよいよ、
ニシン漁に関する展示エリアに入りました。


網やタモがたくさんあります。移設されてきたであろう街灯も、いい味を出しています。^^

網元の大皿。番屋に置かれていたと思われます。

余市酒造会社による、清酒「十一州」の陶製樽(昭和20年代)。

ゴマフアザラシの皮で作られた、手さげかばん(時期不明)。

余市町議会の議場にかけられていた柱時計(大正~昭和時代)。セイコーのものです。この時代の展示を見ていると、時計はほぼすべてがセイコー(精工舎)製です。うれしくなってつい撮ってしまいましたが、この頃が会社の全盛期だったのかも。😅


まずは、北前船の展示から見ていきます。


今も残る、たくさんの絵馬。かつて、北前船の船主たちが、航海の安全を願って奉納したものです。いかに多くの船が余市に寄港していたかがうかがえます。

加州(石川県南部・加賀国の別称)・橋立浦の大家喜栄丸兵助が、1863年(文久3年)に奉納した絵馬がありました。
加賀橋立は、初めて北前船のことを教えてくれた地でした。
コロナでも金沢。3人で歩いた、3泊4日のおトク旅 17 - 加賀橋立 北前船主集落(2020年7月26 日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

これは、若州(若狭国)・小浜の木綿屋重治郎が、1855年(安政2年)に奉納した、長福丸の絵馬。

船箪笥。船の中で貴重品を保管するために使用しました。船が沈没しても水に浮き、中に水が入らないように作られていました。

上:ストローハット(明治時代)、ミノゲボッチ(大正時代)
下:てっかえし(手袋)、あくどあて、つまご、ふかぐつ、ネルの長靴(いずれも明治時代)


ミノゲボッチというのが、異彩を放っています。
帽子に人間の毛髪が付けられているようです。
ネットで調べてみたのですが、
これはなんなのか、よくわかりませんでした。
そこで、ふと、思いつきました。
「これはもしかしたら、
 『身の毛帽子』という意味ではないのか?」
と…。


つまりコレですね…。😅(画像をお借りしました)


オシャレ用のウィッグですが、
抗がん剤治療で頭髪がなくなったときに、
かぶることもあります。
帽子で押さえるので、ずれにくいんですよ。
そういえばMIYOも、
治療中にこんなのを買っていたような…。😅


「ミノゲボッチ」の頃には、
抗がん剤はなかったはずですが、
なににつかったんでしょうね…。
結局、よくわからないままでした。😓


【追記】
その後、夫がさらに調べたところ、
これは「蓑帽子」というものであることがわかりました。
ミノボッチとも呼ばれる風雪をしのぐための被りもので、
毛髪と思われたものは棕櫚(シュロ)でした。
東北、北陸地方で雨や雪を防ぐために使用されていたそうです。
「ゴールデンカムイ」でも登場していました。^^

(子供の頃の谷垣ニシパがかぶっています。笑)


次は、ニシン漁の歴史に関する展示です。


余市において、和人によるニシン漁は、
江戸時代に始まりました。
最初は、和人との交易品として、
アイヌが漁を行っていました。
が、やがて、和人が蝦夷地にやってきて、
漁をするようになりました。
当時の余市は、
表積丹におけるニシン漁の中心地
で、「ヨイチ場所」と呼ばれました。


当時のヨイチ場所です。真ん中にある、「運上家」をご覧ください。玄関がふたつあります。

現在の旧下ヨイチ運上家です。絵の運上家と、外観が同じですね。^^
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 99 - 「たけや」のお昼ごはんと、旧下ヨイチ運上家①(土間、下台所、上台所)/ 槫板葺石置屋根(2021年11月13日/11日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

この運上家を作ったのは、商人・竹屋林長左衛門でした。


【運上家】
江戸時代、アイヌとの交易や和人による漁業の権利は、松前藩(後には幕府)から許可を得た藩士のものでした。その権利は、「場所」ごとに分け与えられていました。その権利を請け負った商人が拠点とした建物が、運上家でした。


その後、明治時代になり、
運上家と「場所」の仕組みはなくなりました。
が、ニシン漁は、明治になってさらに盛んになり、
明治20年代ごろから、
多数のニシン番屋が建ち並ぶようになりました。


最も必要とされたのは、
ニシンから作る肥料(ニシン粕)でした。
もともと本州では、
イワシを原料にした肥料が使われていましたが、
しだいに手に入りづらくなっていました。
そこで、蝦夷地のニシンが注目されました。
ニシンは、食用としてだけでなく、
主に魚肥として重宝され、
北前船によって西日本一帯へと運ばれました。


ニシン粕の製造はますます盛んになり、
定置網の改良などもあって、
北海道全体の漁獲量は、
明治30年代にピークを迎えます。
東北や道南地方から多くの漁夫がやってきて、
そのまま定住する人も増えました。


ニシンの群来は、北海道の日本海側にやってきました。沿岸地帯は、ニシン景気でわきました。が、その後、乱獲により、ニシン漁は衰退していきました。

それでは、展示を見て行きます。フロア全体に、ニシン漁全盛期のころのアイテムが、整然と並んでいました。


次回は、ニシン漁関連の展示をご紹介します。


(つづく)


(おまけのお話)


2023年2月16日


ANAが新しく解説した通販サイト、
ANA Mall のお話です。
ANA Mall紹介|ANA Mall|マイルが貯まる・使えるショッピングモール
オープニングキャンペーンということで、
会員登録して3000円以上購入すると、
400マイルがもらえるそうです。
(このキャンペーンは終了しました。)
全部で508マイルが付与されるそうなので、
マイルにつられて買ってみました。(アホ)


コレです。ファーストクラスで提供されている、阿波尾鶏とマッシュルームのカレー6個セット(5400円)。

「ANAファーストクラスでご提供している、こだわりのカレーです。徳島県産ブランド鶏『阿波尾鶏』を使用し、ANAファーストクラスシェフのオリジナルレシピでご用意しました。」…だそうです。


ファーストクラスなんて一生乗れないと思うので、
せめてカレーくらいは食べてみよう、
と思って注文しました。爆


で、届いたのがコレです。レトルトカレー6個がセットになっています。バーコードにも飛行機が描かれてますよ。^^

早速試食。我が家では、ごはんに大麦と雑穀を入れています。スープはウィンナーといんげんのコンソメ。

その後、スーパーで「ポークビンダルー」を発見。珍しいので、これも食べてみました。

左がポークビンダルーで、右がANAのカレーです。それぞれ、ひとり分を夫と半分こしました。スープは、前日のスンドゥブの残りです。笑


ポークビンダルーはまあまあでしたが、
ANAのカレーは、ほんとにおいしかったです。
夫、「また食べたい。いつ食べる?」と、
しきりに言ってます。🤣


残りは3箱。
1個900円のカレーは、気軽に食べられなくて、
大事にとってあります。
でも、MIYOが居ないときに、
夫が勝手に食べてしまいそうなので、
とりあえず、わからないところに隠しました。
(ケチくさいことしないで、また買え。
 …と言われそうですが。😅😅)


900円のレトルトカレー。
安くはありませんが、おいしかったし、
少しだけファーストクラス気分になれたので、
まあ、よしとします。笑

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 102 - よいち水産博物館①(余市で暮らしたアイヌの人々)(2021年11月13日/11日め)

2021年11月13日 「よいち水産資料館」で。右側には、「余市歴史民俗資料館」とも書いてあります。建物内部から船の舳先が突き出ているという、不思議な演出です。^^(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


旧下ヨイチ運上家(うんじょうや)から、
車を走らせ、
よいち水産博物館に到着しました。


住所は合っているはずなのですが、建物には、「余市歴史民俗資料館」と書いてあります。

はじめは、「多動夫が行き先を間違えたのか?」と思いました。でもなぜか、中に入ると「よいち水産博物館」と書いてありました。よかった。笑


ネットで調べてみると、
よいち水産博物館・余市町歴史民俗資料館
と、併記してありました。
2館がいっしょになっているようです。


中に入ると、まずいちばん先に目に入ったのは、北前船の模型です。

やはり、ニシン漁を語るには、北前船が切っても切れません。笑
なぜ北前船なのか。その理由はこちらです。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 90 - 旧余市福原漁場③ 石倉(北前船)(2021年11月13日/11日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

これは、ニシン漁で使われた「汲船」のようです。
旧余市福原漁場で見た汲船の日記はこちらです。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 91 - 旧余市福原漁場④ 石倉(ニシン漁ともっこ背負い)(2021年11月13日/11日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

かつて、ニシン漁が華やかなりし頃の看板が残されていました。「奥寺漁場」「住友金属鉱山」などの文字が見えます。


もともと、
この地に住んでいたのはアイヌ民族だった
ということで、
アイヌについての展示もたくさんありました。
(館内には、さらにもっと以前の、
 縄文時代の出土品もありましたが、
 これについては、割愛いたします。)


鮭の皮を縫い合わせて作られた靴(ケリ)。
ウポポイで見た魚皮靴(チェブケレ)はこちらです。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 62 - ウポポイ⑨(チキサニ広場とイカラウシ工房)/ 積丹半島のバフンウニ丼 / コンビニで5%オフになるカード3(2021年11月7日/5日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

盆。食べ物を盛る時などに使用します。前面に伝統的な文様が掘られています。

容器(ピサック)。

左奥:イナウ。ヤナギやスギを削って作りました。祈りや祭を行うときに使用します。
右奥:シントコ。このように、小さな脚をもつシントコは、ポンケマシントコと呼ばれました。
左前:クマの頭骨。道南~余市の周辺で採取されました。
右前:杯(トゥキ)とイクパスィ(右前)。トゥキは、神に祈るときに使用する酒を入れる椀でした。また、椀の上にはイクパスィを置きました。イクパスィの先端部の裏には、三角形の刻みが施されます。これはパルンぺと言い、「口」を意味しています。

イクパスィの先端部です。

熊送り(クマの霊送り儀礼)での、祭壇の図です。クマを殺すときに行われました。

手前:花矢(イベレアイ)。熊送りの儀式に使用されるもので、先端に文様彫刻を施し、赤布をつけました。
奥:矢筒(イカヨプ)。儀式用の矢筒で、漆塗りです。金具の装飾もあります。


盆、イナウ、トゥキ、イクパスィ、
クマの霊送りなどについての記述は、
ウポポイの見学日記にあるので、
ここでは割愛します。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 59 - ウポポイ⑦(国立アイヌ民族博物館 - 衣服と生活・儀礼の品々)(2021年11月7日/5日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


巨大なパチンコのようですが、これはアイヌの人々の墓標でした。

余市の各地で見つかった墓標の写真です。

アイヌや周辺民族における文様の分布図です。アイヌ以外にも、多数の北方民族が存在しており、その文様は民族によって異なっていました。
北方民族の美しい衣装の数々はこちらです。(2021年6月27日 北海道網走市)
コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 19 - 北海道立北方民族博物館①(魚の皮の民)(2021年6月27日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


ここまでは、
「かつて余市に住んでいた
 アイヌの人々に関する品々」

についての展示でした。
建物の正面には、
「余市歴史民俗資料館」
とあったので、
アイヌについての展示があるのは当然です。


そしてここからが、「よいち水産博物館」の本領発揮です。


次回は、
余市で行われたニシン漁
に関する展示をご紹介します。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 101 - 旧下ヨイチ運上家③(上手玄関、裏座敷、表座敷、縁側、そして2階)(2021年11月13日/11日め)

2021年11月13日 旧下ヨイチ運上家・上手座敷で。ここにはかつて、「遠山の金さん」のお父さんが滞在していました。(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


旧下ヨイチ運上家に来ています。
次は、上手座敷を歩きます。


【上手座敷】
運上やの建設面積約540㎡に及びましたが、そのおよそ半分を占めていたのが上手座敷です。松前藩士や勤番下役の詰所(役人や勤番下役の勤務場所)という位置づけでしたが、江戸幕府その他の藩士たちの止宿所としても使用されました。

エリア内は、身分によってそれぞれ居住区が分けられており、中廊下を挟んで、武士たち専用の部屋がありました。


中廊下を少し歩くと、右側に上手玄関が見えました。

上手玄関です。


【上手玄関】
松前藩士や江戸幕府の役人等、武士たちが出入りした玄関です。三方ひさし付き屋根玄関で、一般の人は出入りできませんでした。


あらためて運上家の外観を見てみると、玄関がふたつあることがわかります。左側が、私たちが入った玄関で、この中には船主や漁夫のためのエリア(板の間)がありました。それに対して、右側の玄関の内側は武士のためのエリアで、すべて畳敷きになっていました。


ひとつ屋根の下ではありますが、
藩士たちは、上手玄関から出入りし、
上手座敷だけで過ごすので、
通常、漁夫たちや身分の低い人々とは
顔を合わせることもなかったと思われます。


障子や襖も豪華絢爛です。奥の金の襖は江戸時代のもので、波と千鳥が描かれています。


さて、上手座敷には、
中廊下を挟んで4つの部屋がありました。
玄関側の表一、表二、
そして庭に面した、裏一、裏二です。


まずは、いちばん奥の部屋である裏一から見て行きます。

裏一では、西蝦夷地巡検視・目付 遠山金四郎景晋(かげくに)が滞在していたときのようすを再現しています。


【遠山金四郎景晋】
幕府より西蝦夷地巡見を命じられ、1806年(文化3年)、旧暦4月15日より13日間、この運上家に滞在しました。当地では、ヨイチ・ユワナイ間の山道切り開きの策定と、北方警備の調査などを行いました。
「遠山の金さん」の父親として知られていますが、江戸幕府の対外政策の第一戦を担って東西奔走した人物でした。幕府の蝦夷地直轄、ロシア使節レザノフ長崎来航、朝鮮通信使易地聘礼などの重要案件に携わり、現地に派遣されています。その出張は、1799年から1811年までの12年間に、蝦夷地3回、長崎1回、対馬2回にのぼっています。

1805年から1806年にかけて西蝦夷地から宗谷まで見聞したあとは、長崎奉行となり、江戸に戻ってからは勘定奉行を勤めました。文政年間の能吏として知られ、中川忠英、石川忠房と共に三傑と呼ばれました。


中廊下を隔てて奥に見えている部屋は、表一です。

つづいて裏二です。この部屋は勤番詰所で、知行主や藩士、勤番下役が役所的な業務を行う部屋でした。人形は、「ヨイチ場所詰 勤番役人」を再現しています。

裏一と裏二に沿って、縁側が設けられています。この縁側の手前に、トイレと風呂がありました。

縁側から見える庭の風景です。

次は、中廊下を挟んで反対側にある、表一です。幕府勘定吟味役・村垣左太夫定行が滞在していたときのようすを再現しています。


【村垣左太夫定行】
1787年(天明7年)より9度に渡り、「遠国御用」を務めました。幕府より西蝦夷地巡見を命じられ、1805年(文化2年)から翌年にかけて、目付遠山金四郎景晋と共に松前・蝦夷地を視察し、1806年の旧暦3月23日に、ヨイチに到着しました。西蝦夷地を収公するために、この運上家に滞在したあと、石狩方面へ出発しています。視察後、蝦夷地の記録を「西蝦夷日記」にまとめて幕府に提出したことから、1807年(文化4年)、松前奉行に任命されました。その後は、老中水野忠成の元で幕府財政に携わり、諸国河川修復、金銀改鋳、江戸町会所貸付金管掌、諸国総石高検査などを担当しました。


最後の表二には、腰元が控えていました。腰元とは、身分の高い人に仕える侍女ですが、当時ここには女性は入れなかったそうなので、この人形は演出なのかもしれません。

これで、一階部分のすべての部屋を見ました。最後に、下勝手と上勝手の間にある階段を上がって、二階を見てみます。

階段です。上台所の奥、上勝手という場所にあります。

階段を上がったところです。

2階には、このような部屋が8つあり、「寝部屋」と書いてありました。


【運上家・2階部分】
2階には板の間が8部屋あり、漁師や旅人が泊ったとされています。この2階部分には囲炉裏の熱が上がってくるので、意外と温かく過ごせていたようです。この8部屋は、運上家の左半分である板の間の上にのみ設けられており、右半分の上手座敷エリアには行けないようになっていました。これは、上手座敷の上の部屋から、機密情報を盗み聞きされることがないように、という配慮からだったようです。


これで、すべての場所の見学を終えました。
最後にあらためて、
旧下ヨイチ運上家の概要を記しておきます。


【旧下ヨイチ運上家】
かつて松前藩は、米作が成立しない土地柄ゆえに無高とされており、アイヌ人との交易に経済的基盤を依存していました。その実質的な担い手だったのが、「場所請負人」と認められた商人達でした。彼らは交易のみならず、漁場経営、駅逓、アイヌ人の撫育などの業務をも同時に行っていました。運上家は、彼らのような商人達が各々の請負場所に建てた活動拠点で、往時は松前藩領内に85ヶ所もあったとされています。が、廃藩置県後に破却が相次ぎ、唯一現存しているのが、旧下ヨイチ運上家です。明治以降に開拓が進んだ北海道にとって、藩政期の歴史を伝える建物は、きわめて貴重な存在で、1971年、国の重要文化財に指定されました。


かつてこのあたりは海沿いだったそうですが、現在は、海岸が少し遠ざかっています。

運上家から見た景色です。ずいぶん埋め立てられています。


さて。
ここで、すでに1時を過ぎていました。
夫が予約している、
ニッカウヰスキー北海道工場 余市蒸溜所
の見学は、2時半から始まります。
かなり時間がおしていましたが、
多動夫、あきらめません。


「次の場所にいくよ!」と、うれしそうです。😂😂

旧余市福原漁場で買った共通入場券(880円)に含まれていた、「よいち水産博物館」に行こうというもくろみです。爆


旧余市福原漁場と旧下ヨイチ運上家で、
入場料の合計は600円。
あと一か所に行けば、モトがとれるのです。
ってことで、
「なんとしても、
 よいち水産博物館に行かなければ。」
というビンボウ根性が出てしまいました。
(アホです。笑)


またまた今回も、ドタバタ旅行ですね…。😅


(つづく)