MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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ベトナム家族旅行:
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コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 30 - 北海道開拓の村③(旧小川家酪農畜舎、旧菊田家農家住宅、開拓小屋)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 農村群エリアから山村群エリアに移ると、光景が一変します。樹木に囲まれた山道を、黙々と歩きました。笑 念のため、あえて言いますが、私たちたちはハイキングに来たわけではなく、ここは「博物館」の一部です。(北海道札幌市)


11月6日(土)


北海道開拓の村で、
農村群エリアを歩いています。
次は、少し歩いて、
旧小川家酪農畜舎を訪ねました。


旧小川家酪農畜舎


【旧小川家酪農畜舎】
大正末期に、札幌農学校出身の小川三策が建築した者です。アメリカから取り寄せた設計図を参考にしたそうで、19世紀のアメリカで発達したバルーンフレーム構造であるのが特徴です。右側の軟石サイロは、のちに厚別の農家より譲りうけて移築したものです。
バルーンフレーム構造:18世紀末にシカゴで発明されてアメリカで一般化した、木造の構法です。日本やヨーロッパの木造建築では、柱と梁を組みますが、その組み合わせ部分に工夫が必要でした。それに対して、バルーンフレーム構造は、柱を2~3等分したような間柱(スタッド)を50cm程度に密に並べ、それに板を打ち付けることで固めて組み立てる構法です。間柱と板と釘だけを使い、切断と釘打ち作業だけでつくれるので、熟練した職人は不要となります。


大正末期、北海道で酪農業が盛んになったころの牛舎の内部を再現しています。当時、牛の寝床は牛房と呼ばれていました。この畜舎では、計12頭を、搾乳牛と育成牛に分けてつないでいました。

子牛くんもいますね。^^

牛飼いは、乳牛の腹の下に入り、手しぼりでバケツに搾乳しました。生乳は綿布で漏され、輸送缶に詰め、直ちに冷却されました。

畜舎の周囲には、柵をめぐらせた牧場が再現されています。

美しい風景の中、次のスポットへと歩きます。

旧菊田家農家住宅です。


【旧菊田家農家住宅】
1886年(明治19年)に北海道庁が設立されて以降、本州以南から北海道へ移住する団体が増加しました。新潟県では、長岡の有力者であった、大橋一蔵や関矢孫佐衛門などが「北越殖民社」を組織し、現在の江別市に集団で移住し、野幌原野を開拓しました。慣れない土地での開墾や生活は厳しく、水害や冷害にも悩まされましたが、稲作やえん麦、玉ねぎなどの畑作を定着させていきました。この建物は、「北越殖民社」の一員である新潟県魚沼からの移住者が、移住直後の1893年(明治26年)頃に建築したものです。後に、同じく南蒲原郡出身の初代菊田常吉が買い受け、ここで生活しました。


玄関を入ります。

玄関を入ると、右手にいくつもの部屋が広がっていました。野幌に移住した農家の1907年(明治40年)頃の生活の様子を再現しているそうです。靴を脱いで上がり、部屋の中を歩いてみました。

当時の食事風景です。やはり、新潟名物笹団子が食卓にあったんですね。^^

台所です。この頃には、人びとの生活も落ち着き、故郷から受け継いだ神楽を奉納するなど、お祭りも盛んになったそうです。

ここで農村群エリアが終わり、この先は山村群エリアとなります。


鉄道馬車を降りて、地図を見ながら、
地図上の下方向に向かって歩きながら、
とりあえず、農村群エリアをクリアしようと
思っていたのですが…。
このときになって、旧信濃神社を
見落としていたことに気がつきました。


引き返す時間はありません。
すでに、だいぶ離れたところまで
来てしまっています。
仕方ないので、最後にもう一度、
農村群エリアに戻ることにして、
目前の山村群エリアへと歩きました。


山村群エリアに到着。あれが、めざす開拓小屋のようですが…。今までに見てきた家屋とは様相が異なっています。

「本当にここ?」 地図を見て、何度も確かめました。

開拓時代の写真です。たしかに、このような家で生活していたようです。(画像をお借りしました)


【開拓小屋】
明治末期頃の開拓は初期的な時期でした。開拓者は、まず、生い茂る笹や草を刈り、木を切り倒して土地を拓き、小屋を建てることから始めました。生活するのに欠かせない水を得るために、小屋は川が近いところに建てられました。このような、移住者が最初に建てた住宅を、開拓小屋と言います。


あまりにも粗末な造りであることに動揺しながら、入口を入りました。この通路のつきあたりを左に曲がって家の中に入るのですが、そこには扉がありません。外から家の中に風が直接吹き込まないよう、こうして、入口部分に通路を作ったのだな、とわかりました。

丸太を地面に埋めて柱とし、桁(けた)や梁(はり)、垂木(たるき)をわたし、笹や茅などで屋根や壁を葺き、出入り口と窓にはむしろを下げました。屋内は一部が土間で、笹や枯草を重ねた上にむしろを敷いたところを居間として、炉を設けました。

これが窓です。むしろを下げているだけなので、相当寒かったと思います。厳寒の北海道を、ほんとうにこの家で乗り切ったのでしょうか。


こんなところから、
開拓者の生活が始まったとは、
思ってもみませんでした。
人々はどれほど苦労してきたことか。
それを思うと、なにか申し訳ない気持ちで、
もはや、
「古い家を楽しく見学する」
なんて気分ではなくなってきました。


そこで、ここで少し休憩し、
気持ちを切り替えることにしました。
ちょうどお昼に近くなっていたので、
いったん見学を中止して、
開拓の村の出入り口まで戻ります。
そこに食堂があるので、
お昼ごはんを食べて、また出直そう、
ということになりました。


山村群エリアは、山の中にあります。草深い中を歩き続けると、いきなり、吊り橋が現れました。

ここを通り抜けないと、食堂まで行けないんですよ。笑 やれやれ。えらいところに来ちゃったなあ…って感じでした。😂😂

山の中を歩いて、吊り橋を渡って、さらにその後、出入り口にある食堂までたどり着くには、それまでに歩いてきたのと同じくらいの距離を歩かねばならないのでした。


これはもう、お弁当持参で歩くべきでしたね。
時間がないとか言ってるのに、
うかうかと、食堂まで戻ってる場合では
ありませんでした。
でも、行き当たりばったりの旅なので、
けっこう無駄なことをやってます。笑


(つづく)

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