MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 47 - 北海道開拓の村⑲(旧青山家漁家住宅②文庫倉、石倉、板倉、米倉)/ Coke Onペイと今月のネイル(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・漁村群エリアで。7棟の建物が並ぶ旧青山家漁家住宅は、とにかくでかかった。笑(北海道札幌市)


11月6日(土)


旧青山家漁家住宅の母屋(番屋)は、
2014年のNHK連続テレビ小説「マッサン」で、
ロケ地となりました。


母屋(番屋)です。「マッサン」では、漁師の網元・森野熊虎(風間杜夫)が建てた鰊御殿として登場します。

その母屋の左に、4つの蔵が続いています。これを、一つずつ見て行きます。

母屋のすぐ隣にある、文庫倉です。


【文庫倉】
上等な家具、調度、日常使用しない衣類、予備の寝具、祭礼用具、書籍、その他、漁場経営の記録資料など、漁家にとって重要な家財を収納していた建物です。
この建物は「土蔵」とも呼ばれ、外壁や入り口の扉は土塗りで、漆喰仕上げとなっています。解体時、屋根構造の部分に焦げ跡が認められましたが、これは、1919年(大正8年)に母屋が消失したときのものと考えられています。


2階建てになっています。

天井まで、お宝がびっしりと積まれています。これはMIYOが撮りました。

こちらは、夫が撮った写真。やはり、MIYOよりも被写体に近いですね。笑

文庫倉の隣りにある、石倉です。


【石倉】
大正時代、酒倉のほか文庫倉の一部として使用していましたが、後に、船具や漁具なども収納しました。
漁場では、網おろしや漁場切揚げに使用され、さらには、「廊下洗い」と称してにしん加工作業が一段落した際に、漁夫に酒がふるまわれる場となりました。そのため、この倉は、漁場全体の酒倉となり、最盛期には20~30の酒樽が収納されていたそうです。
倉の内部は左右に分かれており、現在、右側の一番倉には、親方の日常生活用具、左側の二番倉には、酒樽や食生活用具を展示しています。


右側の一番倉。親方の日常生活用具を展示しています。

左側の二番倉。酒樽や食生活用具を展示しています。

右奥の母屋から、文庫倉、石倉と並んでいます。下の写真でいちばん手前に写っているのが、板倉です。

板倉です。


【板倉】
「雑倉」とも呼ばれ、内部は右側から、味噌倉、漬物倉、雑倉の3つに仕切られていました。
味噌は、大正時代には数俵の大豆を大釜で煮たのち臼でつき、3年間ほど熟成させてから使用しました。漬物には、水漬け、糠漬け、すし鰊などがあり、元場のほか出張(でばり)漁場も含めた数百人の漁夫の分もここで準備していました。雑倉には、鰊釜や錨など大型の漁具や製造加工具のほか、薪なども収納されていました。


たくさんのもっこが並んでいます。この中ににしんを満載し、背負って運びました。

この四角い器具はシメ胴と言い、ニシンの油を搾るための装置でした。この中にニシンを入れて、シメ具にかけて搾りました。

そしていちばん左端にある、米倉です。(画像をお借りしました)


【米倉】
大正時代の青山家は、小樽や雄冬沿岸に18か統の建網を経営していました。建網1か統の漁夫は25~30名で、1日に消費する米は約3斗(約45キロ)でした。これらの漁場で働く漁夫の食糧を調達するため、青山家では旭川近郊の比布村に129町歩(約128ヘクタール)の小作農場を持ち、そこから上がる年1200俵(約72トン)ほどの小作米を、この米倉に収納していました。


毎日、600人の漁夫に食べさせるための米を貯蔵していたと…。そのための農場まで所有していたとは、驚くばかりです。


これで、母屋から横に立ち並ぶ、
5棟の見学が終わりました。
あとふたつです。


(つづく)


(おまけのお話)


Coke On の、オトクなキャンペーンのお話です。


ふだん、自販機で購入することは
ほとんどないのですが、
この北海道旅行の間に、
自販機しかない場所に行ってしまいました。
しかたなく、自販機から購入したのですが、
そのときに、
「自販機の飲料がスマホで買える。
 今ならキャンペーン中で100円戻ります。」
と書いてあるのを発見。
オトクなことは、見過ごせません。笑
ヒマだったので、試してみました。


まずは、Coke On というアプリをインストール。
コカ・コーラの自販機でドリンクを選び、
ラインペイで支払いました。
すると、キャンペーン中ということで、
100円(100ラインポイント)が戻ってきました。


Coke Onアプリが使える自販機には、こんなのが付いています。


東京に戻ってからは、
アプリのことはすっかり忘れていたのですが、
現在、新たなキャンペーン中です。
「100円以上のコカ・コーラ製品を購入すると、
 毎週一回、100円相当が戻ってくる。」
のだそうです。
詳細はこちらです。
https://c.cocacola.co.jp/app/pay/2022_payfes_spring/
そこで、買ってみました。


「やかんの麦茶600ml 120円」を、ペイペイで購入。スマホをかざすだけでドリンクが出てくるって、すごい時代ですね。笑(2022年4月14日)

購入した瞬間に、ペイペイから100ポイントが戻ってきました。笑

一週間後、ネイルサロンの帰りに、今度はCOSTA COFFEEをd払いで。後日、100ポイント(dポイント)が付与されるそうです。あっ ネイルの色が、COSTA COFFEEと同じでした。笑(2022年4月20日)


COSTA COFFEEは、270mlで170円。
以前から飲んでみたかったのですが、
ちょっとお高いので、躊躇していました。
でも、100円戻ってくるし、
いい機会だと思って、買ってみました。笑
期待を裏切らず、おいしかったです!^^


キャンペーンは5月1日までです。
私は、来週も買います!笑


今月のネイルです。COSTA COFFEEの色ですよね。笑(2022年4月20日 新大久保・Blancで)

マグネットネイルというものだそうで、見る角度によって、光沢や色が変化します。

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 46 - 北海道開拓の村⑱(旧青山家漁家住宅①母屋)/ 山口かほるさんの個展(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・漁村群エリアです。(北海道札幌市)


11月6日(土)


漁村群エリアに到着しました。
このエリアには、
海辺をイメージした池がつくられていて、
漁家の住宅が再現されています。


海にみたてた池がある、漁村群エリアです。


ここは、私たちが、
最も見たいと思っていたエリアでした。
まずは、旧青山家漁家住宅に行きます。


小樽の祝津にしん漁の三大網元と言われた、
青山家、白鳥家、茨木家のひとつである、
青山家の家屋が移設されたものです。


旧青山家漁家住宅です。家屋の外観が、これまでに見たどの家屋とも違っています。


【旧青山家漁家住宅とその配置】
青山家は山形県出身で、小樽沿岸でニシン建網を経営した漁家でした。建網とは、塀のように海の中に定置網を建て、囲われた網の中へ魚を追い込んで獲る漁法です。青山家元場(本拠地)には、10数棟の建物が存在しましたが、ここには、そのうちの7棟(母屋、文庫倉、石倉、板倉、米倉、網倉、外便所)が移築されています。このほかには、水揚げした鰊を収納した廊下、粕蔵、船倉などがありました。建物の前には、作業場や干し場とするための、広い庭が設けられています。鰊漁場の建物が、このように集約的に保存されているところは少なく、貴重な遺構の一つとなっています。

一群の建造物のうち、網倉を除いた各棟の配置は創建当時のままであり、日本海沿岸に一般的に見られた鰊漁場の景観に比べると特異なものとなっています。
海を模した池の浜から少し上がった平地に、海岸線に対して垂直方向に一直線に並べて建てられているのは、創建当時の配置を再現しているからです。これは、狭い土地を一定の間数で地割りした、江戸時代末期以来の土地の利用形態によるものです。


まずは母屋を見学します。1919年(大正8年)年に建てられました。

大きな寄棟屋根の建物で、てっぺんに望楼のようなものが載っています。窓の上から軒裏までは漆喰で塗り込めてあります。

入口が二つ並んでいます。左側は、むくりのついた切妻型の入口ひさしで、ヤン衆(漁夫)たちが出入りする番屋の入口でした。右側は、反った千鳥破風の入母屋型の入口ひさしで、親方の住まいの玄関です。

左側の玄関から入ります。「青山留吉」「衛生組合 組長 青山政吉」とあります。


【青山留吉】
1836年(天保7年)、山形県の貧しい家で、第6子として生まれました。1859年(安政6年)、24歳の時に、北海道の漁場に1人で渡りました。

はじめは、後志国高島郡祝津村(小樽市祝津)で雇漁夫として働きましたが、約1年後に、小規模ながら同地にて漁場を開きます。そして明治期の積丹半島を中心に、漁場を次々と拡大しました。やがて青山家は、漁場15ヶ統余り、漁船130隻、使用人300人余を擁する道内有数の漁業家に成長します。
財を成した留吉は、故郷の山形県に、青山本邸を建設しました。後には田地250町余りを所有する大地主となり、一時は村税の8割を納めていたといいます。
漁業一筋48年の後、1908年(明治41年)、留吉は、北海道の漁場を養子の政吉に譲り、山形県に隠居しました。当時73歳でした。晩年は山形県で過ごしましたが、1916年(大正5年)、山形と北海道の両青山家の隆盛を見守りながら、81歳で、波乱万丈の生涯を閉じました。


この、「青山」という名前に、
聞き覚えがありました。
小樽で訪ねた、
「にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)」
です。


にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)

コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 39 - 小樽市総合博物館本館から「にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)①」へ(2021年6月28日/4日め) - MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと
コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 40 - にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)②(2021年6月28日/4日め) - MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと
コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 41 - にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)③/テレカ寄付のお礼とお願い(2021年6月28日/4日め) - MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと


帰宅後に調べてみたところ、
やはり、主は同じ人物「青山留吉」でした。
青山留吉が、にしん漁で財を成し、
故郷の山形に「青山本邸」を建てて
隠居します。


2代目留吉(青山政吉)の娘・政恵は、
山形の祖父(初代留吉)の家に遊びに行き、
青山本邸の見事さに魅了されました。
「あんな家を建てて住みたい。」という
政恵の願いを聞き入れて、
父である2代目留吉が建てたのが、
小樽の「青山別邸」だったのです。


 ああ、そうか。
 だから、小樽のあの豪華なお邸は、
 「別邸」という名前だったのだ…。


と、初めてわかりました。
青山家につながるお屋敷は3軒ある、
ということになります。
 ①青山家漁家住宅(初代留吉が小樽に建築。
  その後、開拓の村に移築。)
 ②青山本邸(初代留吉が山形に建築。)
 ③青山別邸(2代目留吉が小樽に建築。)
ですね。
(こうなったら、山形の「青山本邸」にも、
 ぜひ、行ってみたいところです。^^)


つまり、今、私たちの目の前にあるのが、
①の青山家漁家住宅なのです。
初代青山留吉が、人生で最も活躍し、
ニシン漁で莫大な財産を築いていたころに、
漁家の生業(なりわい)を行いながら、
住まいとしていたところです。


玄関を入ると、広い板の間が広がっていました。小さな武道場のような広さです。

ここで、ヤン衆(漁夫)たちが生活していました。

壁際には、漁夫が寝泊まりするための「ネダイ」が巡らされています。ここは畳敷きになっていて、夜はここに布団を敷いて寝ました。ここでもやはり、ひとり分のスペースは一畳くらいのようです。

反対側の棚には、食器や台所用具を収納しています。

階段を上がったところは、物置のようです。今で言うロフトのような造りですね。

台所です。

続いて、この母屋の右半分のエリア(親方の住まい)です。障子の奥に見えているのは、母屋の左半分で、上の写真でご紹介した、ヤン衆(漁夫)たちの生活スペースです。

帳場です。

仏壇の横に飾ってあるのは、青山政吉(2代目留吉)の写真です。

神棚の隣りには、初代・青山留吉の写真がありました。

ここは、家族の生活スペースだったようです。


さて。
青山家の話が長くなりましたが…。笑


あと一時間半しかないというのに、
旧青山家漁家住宅、7棟もあるんだそうです。
つまり、見学スポットが、
7つもあるってことですね…。
はぁ…。


「一番初めに、まずはここから、
 見学を始めればよかったんだよな…。」
などと、夫も嘆いていますが、
いまさら、手遅れです。


ずっと見たいと思っていた、
旧青山家漁家住宅
本当は、
ヤン衆(漁夫)たちが寝起きしていた場所に、
30分くらい、ただ座って過ごしたい。
そんな気持ちでしたが、時間がありません。
やむを得ず、先を急ぎます。


(つづく)


(お知らせ)


山口かほるさんから、個展の案内状をいただきました。
コート・ギャラリー国立で、5月26日から31日です(無料)。

【山口 かほる】
1950年5月生まれ。
生後3ヶ月で脳性マヒと診断される。
10歳の時に兄嫁から絵を習い、口で描くことを始めた。
14歳で入所した施設では、4時に起き、両手が使えないから、時間をかけて朝食を自分で食べ、学校へ行った。やがて宗教に出会い、心の救いと友人を得、忍耐を学んだ。
絵画は、16年間研究所に通い、学習を重ねた。初めは口で描いたが、長年酷使した体のためにとの助言に沿い、現在は足で描いている。個展の開催多数。

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 45 - 北海道開拓の村⑰(旧廣瀬写真館、旧札幌拓殖倉庫)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・旧廣瀬写真館の待合室です。(北海道札幌市)


函館から戻りました。またよろしくお願いいたします。
坂の多い函館の街を歩き回り、毎日、海鮮丼をいただきました。笑

今回は、かねてから行きたかった、江刺、松前まで足を伸ばしました。
北海道南端の地では、強風に吹き飛ばされそうになり、荒波の激しさに驚きました。笑
帰ってきたばかりですが、早くも次の訪問を心待ちにしています。😅


11月6日(土)


山村群エリア内で、全スポットの見学を終え、
ふたたび、市街地群エリアに戻ってきました。


違い地群エリアを走る3本の道路で、右端の道路を歩きながら、見学を続けます。

旧廣瀬写真館です。

ゴールデンカムイ第124話では、こんなふうに描かれています。そっくりですね。^^(画像をお借りしました)


【旧広瀬写真館】
大正末期(1920年代)から1958年(昭和33年)まで、岩見沢市街で営業した写真館を再現しました。外観は洋風ですが、内部の多くは和風で、和洋折衷の建物です。撮影には自然光を用いたため、写場を2階に設けました。北側の屋根は斜めのガラス張りになっており、これはシングルスラントと呼ばれました。磨りガラスが下見張りのように重ねて葺かれており、拡散光が写場全体に行き渡ります。白と黒の天幕(多段カーテン)は、傾斜したガラス窓に沿って開閉できるようになっており、これをスライドさせることによって光量を調整しました。このほかにも、光量の調節のために、反射板や調光器を用いていたようです。


左側面から見ると、こんな感じです。屋根のソーラーシステムのように見える部分が、シングルスラントです。

玄関を入ってすぐの部屋は、受付になっていました。

続いて、家族の居間や台所があります。

さらに、8畳の部屋がふたつ。

いちばん奥がトイレです。白い花と果実が描かれています。当時のトイレでは、形や柄が、訪れる家ごとに違っているので、つい撮ってしまいます。😅

2階に上がります。

写場です。

北側は、斜めの屋根がガラス張りになっています。これが、シングルスラントです。


【シングルスラント】
ななめに取り付けられたガラス屋根のことです。磨りガラスが下見張りのように重ねられて葺かれています。これにより、拡散光が写場全体に行き渡りました。傾斜したガラス窓に沿って、白と黒の天幕(多段カーテン)がついています。この天幕をスライドさせて、光量を調整しました。


ゴールデンカムイ第124話には、この写場で撮影しているシーンがでてきます。左上に、シングルスラントの一部が描かれていますね。^^(画像をお借りしました)

フィルムはガラス乾板で、だるま型三脚台座式アンソニーカメラを用いて撮影しました。

2階には、このほかに暗室と待合室がありました。

旧廣瀬写真館を出て、さらに通りを進みます。右奥に見えているのは、第36話でご紹介した、旧武岡商店です。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 36 - 北海道開拓の村⑧(旧近藤医院、旧武岡商店)(2021年11月6日/4日め) - MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと

旧札幌拓殖倉庫が見えてきました。

旧札幌拓殖倉庫は、第32話でも写真をご紹介しています。

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 32 - 北海道開拓の村④(体験学習棟、旧札幌拓殖倉庫、旧山本消防組番屋、旧若狭家たたみ蔵、開拓の村食堂)(2021年11月6日/4日め) - MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと


このときは前を通っただけでしたが、
今回は、内部を歩いてみました。


「拓殖」とは、未開の荒れ地を切り開いてそこに住みつくという意味だそうです。


【旧札幌拓殖倉庫】
札幌軟石を使用した倉庫です。1907年(明治40年)に札幌駅の北側に建てられ、5年後、五十嵐倉庫合名会社から札幌拓殖倉庫株式会社に引きつがれました。この建物は、札幌駅北側に隣接し、線路に直角に位置していた6棟の内の一番西側の棟です。梁間5間、桁行27間、面積135坪の木骨石造でした。開拓期の農産物の集散に大きな役割を果たし、地域の発展に貢献しました。昭和56年、その敷地が鉄道高架用地として買収されることとなり、開拓の村に移築復元されました。


細長い通路沿いに、倉庫が並んでいます。

中には、北海道で使用された農機具が展示されていました。

北海道の農業開拓が組織的・計画的に行われるようになるのは、明治後期からですが、当初は鍬・鋤のような在来農具によって開墾、耕作が行われました。一方、開拓使は、欧米の畑作品種や家畜、畜力農機具を導入した欧米農法の定着に取り組みました。これにより、ブラウ、ハローなどのさまざまな農機具が輸入されました。

正面上部には、開拓使の旗印である「北辰旗」の「五陵星」が」刻まれていました。


これで、右端の通り沿いの見学を終えました。
このまま一気に走り、
いよいよ、手つかずだった漁村群エリア
突入します。


あと一時間半。
とにかく、行けるとこまで行きます。


(つづく)


(おまけのお話)


「ゴールデンカムイ」をネットで見ています。


4月28日まで、全313話を、無料で読むことができます。


読んでいると、あちこちの場面で、
北海道開拓の村の風景が
使われているのがわかり、
2倍楽しめます。^^


山本理髪店、島歌郵便局
登場しているのを見つけたので、
画像をお借りし、以下の日記に加筆しました。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 39 - 北海道開拓の村⑪(旧山本理髪店、旧島歌郵便局、旧札幌警察署南一条巡査派出所) / 銀座「ももてなし家」で、再びキャンペーン中。(2021年11月6日/4日め) - MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと


当時の情景を忠実に再現している、
ゴールデンカムイ。
ストーリーも、とてもおもしろいです。
写真とアニメを見比べながら、
楽しんで頂けたらうれしいです。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 44 - 北海道開拓の村⑯(旧札幌農学校寄宿舎 (恵迪寮)②、森林鉄道機関庫)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・森林鉄道機関庫で。(北海道札幌市)


北海道ラブが止まりません。笑
4月15日のフライトで、函館に行ってきます。ブログは、しばらくお休みをいただきます。
「ANAにキュン」を利用し、わずか5800マイル(往復ひとり分)という、
驚異的な安さで、航空券をゲットしました。^^
滞在中のレンタカーは、dポイントを利用したので、わずか1000円です。
相変わらずのオトク旅行を、今回も楽しんできます。^^


11月6日(土)


旧札幌農学校寄宿舎 (恵迪寮)
に来ています。


学生たちが生活していた部屋を見学したあとは、恵迪寮にちなんだ様々の資料を見ていきました。

中でもおもしろかったのは、当時の学生たちが供されていた食事を紹介するコーナーです。ガラスケースの中には、当時の食事のサンプルが並べられていました。

昭和初期の頃の朝食です。白米のごはん、ワカメや豆腐の入った味噌汁、たくあんや浅漬けなどのおしんこがありました。それでも足りない学生には、自費で生卵や納豆などを追加できました。良き時代でした。

札幌農学校寄宿舎発足当時の夕食。スープに獣肉(鹿肉)、野菜、パンとバターなどがでました。モダンな食事ですね。

その他、豚飯(明治末から大正)、馬のたたき団子が3個入った北國汁(大正末期から昭和初期)などもありました。

充実のメニューでしたが、戦争が始まると物資が不足し、やがて、一日の所要量の1/4しか提供されなくなったそうです。

学生が書き残したものの数々。「ニュートンも、クソの落下に気がつかず」だそうです。

ボタンを押すと、恵迪寮歌を聞くことができます。なんと、33曲もあったんですね!笑

そして、1983年(昭和58年)、コンクリートの寮舎が完成しました。食堂は姿を消し、居屋は個室となりました。

同じ年、役目を終えた旧恵迪寮舎が取り壊されました。札幌農学校寄宿舎として開舎してから78年後のことでした。建物の一部は、恵迪寮同窓会に払い下げとなり、北海道開拓の村に運ばれました。

現在、私たちが見ることのできる旧恵迪寮は、明治38年の開舎当時の姿で復元されたものです。


かつてここで生活した学生たちの、
生き生きとした暮らしぶりが偲ばれる、
あたたかな雰囲気の建物でした。


もっとここにいたかったのですが、
時間がありません。
後ろ髪をひかれる思いで、
山村群エリアの奥へと進んでいきました。


林の奥に、午前中に訪れた、旧平造材部飯場が見えてきました。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 31 - 北海道開拓の村③(開拓小屋、炭焼き小屋、旧平造材部飯場)(2021年11月6日/4日め) - MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと

めざす建物は、この旧平造材部飯場の少し先にあります。

ありました。森林鉄道機関庫です。小さい小屋に見えますが、中に入ると、びっくりするものがありました。


【森林鉄道機関庫】
大正8年度から、北海道庁は、拓殖計画に国有林の直営伐採事業を加えました。それにより、木材搬出のための森林鉄道の敷設に着手。その後、道内各地で建設が進められました。昭和初期には、従来の流送にかわって鉄道運材が主流となり、機関車や貨車のほか、機関庫、貯木場も整備されました。
この機関庫は、昭和初期に作られたものを再現しています。


伐採した木材を積んだ貨車が…、

蒸気機関車につながっていました。

1950年に製作された、森林鉄道ディーゼル気動車。野村プリモス型イスズDA43型エンジンです。大夕張営林署管轄の下夕張森林鉄道(昭和16年~昭和41年)および夕張岳森林鉄道(昭和18年~昭和41年)で、昭和41年に廃止されるまで稼働していました。

森林鉄道トローリーだそうです。


これで、
残っていた3か所の見学が終わりました。


山村群エリアは、全スポットを制覇です。笑


…と、喜んでいる場合ではありません。
これから、市街地群エリアの見学をしながら、
漁村群エリアに突入しなくてはなりません。
閉館時間まで、あと2時間をきっています。
やばいです。
まだ行ってないところが、
かなり残っているというのに。


ということで、森林をつっきって、市街地群エリアへと戻ります。


全スポットを見学したかったのですが、
時間が全然足りません。
朝、開館時間に到着してから、
ずうっと見学し続けてるんですけど。😂😂


北海道開拓の村。
とほうもない広さでした。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 43 - 北海道開拓の村⑮(旧札幌農学校寄宿舎 (恵迪寮)①)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・旧札幌農学校寄宿舎(恵迪寮)で。当時、舎で学生が食べていた食事のサンプルに見入っているところです。(北海道札幌市)


11月6日(土)


旧札幌農学校寄宿舎(恵迪寮)が見えてきました。


全部で3棟。かなりの規模です。

旧札幌農学校寄宿舎(恵迪寮)です。


【旧札幌農学校寄宿舎(恵迪寮)】
開拓使仮学校に始まる札幌農学校(現北海道大学)は、1876年(明治9年)に、現在の時計台付近に開学し、1903年(明治36年)に現在地へと移転しました。その際に寄宿舎も新築され、4年後に“恵迪寮(けいてきりょう)”と命名されました。当時は、玄関棟と2棟36室および厨房棟がありましたが、開拓の村では玄関棟と2棟12室を復元しています。


玄関棟です。玄関棟の両側に寄宿棟が1棟ずつ配置され、3棟が渡り廊下でつながっています。


ここで靴を脱いであがり、寮内を見学することができます。

職員室です。

渡り廊下の先に、寄宿棟があります。

寄宿棟に入りました。ここでは、当時学生が生活した部屋が再現されています。階段を上がって、2階に行くこともできます。

学生の部屋です。木でできたベッドには畳が置かれていて、この上に布団を敷いて寝ました。

こんな感じですね。敷布団がないのが気になるところです。^^

ひと部屋に4台のベッドが置かれていました。

ベッドの下は物入れになっています。

明治9年の、札幌農学校舎則です。「職員の命にしたがうこと」「貸与品を破損した場合いは弁償すること」「大声で歌ったり騒いだりしないこと」「交代で室内を掃除すること」「沐浴は4時から5時半」「30分以上遅刻した者には食事を提供しない」…などと書いてありました。

2階の窓から眺めた恵迪寮です。

このほか、恵迪寮にまつわる資料が、多数展示されていました。


次回は、当時の恵迪寮で、
学生たちが食べていた食事のサンプルを
ご紹介します。


(つづく)