コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 46 - 北海道開拓の村⑱(旧青山家漁家住宅①母屋)/ 山口かほるさんの個展(2021年11月6日/4日め)
(2022/04/23 15:50記)
2021年11月6日 北海道開拓の村・漁村群エリアです。(北海道札幌市)
11月6日(土)
漁村群エリアに到着しました。
このエリアには、
海辺をイメージした池がつくられていて、
漁家の住宅が再現されています。
海にみたてた池がある、漁村群エリアです。
ここは、私たちが、
最も見たいと思っていたエリアでした。
まずは、旧青山家漁家住宅に行きます。
小樽の祝津にしん漁の三大網元と言われた、
青山家、白鳥家、茨木家のひとつである、
青山家の家屋が移設されたものです。
旧青山家漁家住宅です。家屋の外観が、これまでに見たどの家屋とも違っています。
【旧青山家漁家住宅とその配置】
青山家は山形県出身で、小樽沿岸でニシン建網を経営した漁家でした。建網とは、塀のように海の中に定置網を建て、囲われた網の中へ魚を追い込んで獲る漁法です。青山家元場(本拠地)には、10数棟の建物が存在しましたが、ここには、そのうちの7棟(母屋、文庫倉、石倉、板倉、米倉、網倉、外便所)が移築されています。このほかには、水揚げした鰊を収納した廊下、粕蔵、船倉などがありました。建物の前には、作業場や干し場とするための、広い庭が設けられています。鰊漁場の建物が、このように集約的に保存されているところは少なく、貴重な遺構の一つとなっています。
一群の建造物のうち、網倉を除いた各棟の配置は創建当時のままであり、日本海沿岸に一般的に見られた鰊漁場の景観に比べると特異なものとなっています。
海を模した池の浜から少し上がった平地に、海岸線に対して垂直方向に一直線に並べて建てられているのは、創建当時の配置を再現しているからです。これは、狭い土地を一定の間数で地割りした、江戸時代末期以来の土地の利用形態によるものです。
まずは母屋を見学します。1919年(大正8年)年に建てられました。
大きな寄棟屋根の建物で、てっぺんに望楼のようなものが載っています。窓の上から軒裏までは漆喰で塗り込めてあります。
入口が二つ並んでいます。左側は、むくりのついた切妻型の入口ひさしで、ヤン衆(漁夫)たちが出入りする番屋の入口でした。右側は、反った千鳥破風の入母屋型の入口ひさしで、親方の住まいの玄関です。
左側の玄関から入ります。「青山留吉」「衛生組合 組長 青山政吉」とあります。
【青山留吉】
1836年(天保7年)、山形県の貧しい家で、第6子として生まれました。1859年(安政6年)、24歳の時に、北海道の漁場に1人で渡りました。
はじめは、後志国高島郡祝津村(小樽市祝津)で雇漁夫として働きましたが、約1年後に、小規模ながら同地にて漁場を開きます。そして明治期の積丹半島を中心に、漁場を次々と拡大しました。やがて青山家は、漁場15ヶ統余り、漁船130隻、使用人300人余を擁する道内有数の漁業家に成長します。
財を成した留吉は、故郷の山形県に、青山本邸を建設しました。後には田地250町余りを所有する大地主となり、一時は村税の8割を納めていたといいます。
漁業一筋48年の後、1908年(明治41年)、留吉は、北海道の漁場を養子の政吉に譲り、山形県に隠居しました。当時73歳でした。晩年は山形県で過ごしましたが、1916年(大正5年)、山形と北海道の両青山家の隆盛を見守りながら、81歳で、波乱万丈の生涯を閉じました。
この、「青山」という名前に、
聞き覚えがありました。
小樽で訪ねた、
「にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)」
です。
にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)
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帰宅後に調べてみたところ、
やはり、主は同じ人物「青山留吉」でした。
青山留吉が、にしん漁で財を成し、
故郷の山形に「青山本邸」を建てて
隠居します。
2代目留吉(青山政吉)の娘・政恵は、
山形の祖父(初代留吉)の家に遊びに行き、
青山本邸の見事さに魅了されました。
「あんな家を建てて住みたい。」という
政恵の願いを聞き入れて、
父である2代目留吉が建てたのが、
小樽の「青山別邸」だったのです。
ああ、そうか。
だから、小樽のあの豪華なお邸は、
「別邸」という名前だったのだ…。
と、初めてわかりました。
青山家につながるお屋敷は3軒ある、
ということになります。
①青山家漁家住宅(初代留吉が小樽に建築。
その後、開拓の村に移築。)
②青山本邸(初代留吉が山形に建築。)
③青山別邸(2代目留吉が小樽に建築。)
ですね。
(こうなったら、山形の「青山本邸」にも、
ぜひ、行ってみたいところです。^^)
つまり、今、私たちの目の前にあるのが、
①の青山家漁家住宅なのです。
初代青山留吉が、人生で最も活躍し、
ニシン漁で莫大な財産を築いていたころに、
漁家の生業(なりわい)を行いながら、
住まいとしていたところです。
玄関を入ると、広い板の間が広がっていました。小さな武道場のような広さです。
ここで、ヤン衆(漁夫)たちが生活していました。
壁際には、漁夫が寝泊まりするための「ネダイ」が巡らされています。ここは畳敷きになっていて、夜はここに布団を敷いて寝ました。ここでもやはり、ひとり分のスペースは一畳くらいのようです。
反対側の棚には、食器や台所用具を収納しています。
階段を上がったところは、物置のようです。今で言うロフトのような造りですね。
台所です。
続いて、この母屋の右半分のエリア(親方の住まい)です。障子の奥に見えているのは、母屋の左半分で、上の写真でご紹介した、ヤン衆(漁夫)たちの生活スペースです。
帳場です。
仏壇の横に飾ってあるのは、青山政吉(2代目留吉)の写真です。
神棚の隣りには、初代・青山留吉の写真がありました。
ここは、家族の生活スペースだったようです。
さて。
青山家の話が長くなりましたが…。笑
あと一時間半しかないというのに、
旧青山家漁家住宅、7棟もあるんだそうです。
つまり、見学スポットが、
7つもあるってことですね…。
はぁ…。
「一番初めに、まずはここから、
見学を始めればよかったんだよな…。」
などと、夫も嘆いていますが、
いまさら、手遅れです。
ずっと見たいと思っていた、
旧青山家漁家住宅。
本当は、
ヤン衆(漁夫)たちが寝起きしていた場所に、
30分くらい、ただ座って過ごしたい。
そんな気持ちでしたが、時間がありません。
やむを得ず、先を急ぎます。
(つづく)
(お知らせ)
山口かほるさんから、個展の案内状をいただきました。
コート・ギャラリー国立で、5月26日から31日です(無料)。
【山口 かほる】
1950年5月生まれ。
生後3ヶ月で脳性マヒと診断される。
10歳の時に兄嫁から絵を習い、口で描くことを始めた。
14歳で入所した施設では、4時に起き、両手が使えないから、時間をかけて朝食を自分で食べ、学校へ行った。やがて宗教に出会い、心の救いと友人を得、忍耐を学んだ。
絵画は、16年間研究所に通い、学習を重ねた。初めは口で描いたが、長年酷使した体のためにとの助言に沿い、現在は足で描いている。個展の開催多数。