MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 42 - 北海道開拓の村⑭(旧農商務省滝川種羊場機械庫、旧札幌師範学校武道場)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・旧来正旅館で。結婚写真を撮るカップルです。(北海道札幌市)


11月6日(土)


書きそびれていた、ふたつの建物の続きです。
前回掲載したのは、
旧田村家北誠館蚕種製造所でした。



今回は、そのふたつめ、
旧農商務省滝川種羊場機械庫
をご紹介します。


旧農商務省滝川種羊場機械庫です。いかにも、「倉庫」らしい外観です。


【旧農商務省滝川種羊場機械庫】
1921年(大正10年)に、滝川市に建設された、農業機械庫です。農商務省の技師が、北欧の建築様式を取り入れて設計したものであり、大正中期に建築された種羊場の代表的な施設です。基礎には自然石を積み、小屋組は洋風構造のキングポスト・トラス組で、建物の正面と左右には下屋が設けられています。
当時、農商務省滝川種羊場では、メリノー種やサウスダウン種など、約750頭の緬羊を試験飼育していました。この機械庫には、緬羊の飼料となる牧草の栽培に使用するため、ヘイモーアー、ヘイテッダー、ヘイレーキなどの大型農機具が格納されていました。現在は、機械庫と下屋に大型農機具を中心とした農業機械を展示し、農具庫では、これら農業機械の技術発達に関する資料を展示しています。


内部です。広い庫内には、当時活躍していたであろう農業機械がびっしりと並べられていました。

古いトラクターですね。MIYOがわかったのはこれくらいで、その他の機械は、見慣れないものばかりでした。

畜力噴霧機というものです。防除作業のための農薬を農地に噴霧する機械だったようです。これを家畜につないで引っ張らせたのでしょう。


【畜力噴霧機】
背負噴霧機に比べて格段に作業効率が高いため、大正時代に、行政と大工場の共同出資で国内に導入されました。その後、輸出に頼る体質から脱却するために国産化が進み、それによって改良が進み、国内の畜力噴霧機は高度化していきました。その後、トラクタの普及を想定し、空冷エンジンを搭載した畜力車載型動力噴霧機が登場します。当時から完成度は高く、基本的な機構は、現在のトラクタ用ブームスプレーヤでも、大きく変ってはいません。


その後も、いくつにも分かれた部屋を歩いたのですが、出てくる、出てくる、たくさんの農業機械たち。笑

同じ機械を、前方から後方からと、ウロウロしながら撮りまくる夫が目にうかぶようです。🤣🤣

昭和40年代の石油発動機。中央には、Kubotaというプレートが、誇らしげに付けられていました。


【株式会社クボタ】
1890年の創業で、日本の農業の機械化を推進し続けてきました。その始まりは、鋳物業だったそうです。14歳で大阪へ出てきた創業者が、鋳物屋で修行を積みながら資金を蓄え、19歳のとき、長屋の一角を借りて「大出鋳物」を創業しました。以来120年。現在の資本金は841億円。グローバルに事業を展開し、2021年の売り上げは2兆円を超えているそうです。すごい会社だったんですね!^^


当時の機械に残されていたロゴです。

ちなみに、現在のロゴはこんなにオシャレです。笑 よく混同されますが、自動車部品メーカーの「久保田鐵工所」とは別の会社なのだそうです。

この農業機械たちが、かつて、北海道の大地で活躍していた頃を想像しながら歩きました。この農業機械の歴史は、とりもなおさず、北海道で農業に尽力し続けた人々の歴史でした。

ひっそりと展示されていた、縄ない機。縄を綯(な)う機械ですね。筵も作っていたようです。昭和20年代のもので、木枠部分に、「長野県丸子町(現・上田市丸子町)タヤ製作所」と書いてあります。こんな機械があったということは、北海道に稲わらが普通にあったということなのでしょう。


【北海道の米作りと縄】
開拓時代以前の北海道では、米作をしていなかったため、稲わらで作る縄は貴重品でした。北海道で初めて水田造りに成功したのは、1873年(明治6年)のことだったそうです。やがて1988年、北海道の米作りに向く品種の「きらら397」が誕生します。実に100年以上も後のことでした。
北海道での長い米作りの歴史の中で、貴重品とされていた稲わらが、やがてあたりまえのものとなっていったわけです。長野で作られた縄ない機が札幌で活躍するようになるまでの道筋を思うと、感慨深いものがありました。


この縄ない機を作ったワタヤ製作所ですが、
帰宅後に調べてみたら、長野県上田市で、
現在も企業として活躍していることがわかり、
たいへん驚きました。


株式会社綿谷製作所です。養蚕業の先進地帯であった長野県丸子町で、煮繭機、操糸機、一般機械器具製造の製造会社として、1935年(昭和10年)に設立されました。現在は、大型機械加工や産業用機械装置製造に携わっているそうです。(画像をお借りしました。)

日本の製造業は、すごいなあ…、と、しみじみ思いました。

屋外に設置されているものもありました。


まあ…、
だいたいおわかりかと思いますが、
MIYOが撮ったのは、
機械庫内部を俯瞰する写真一枚くらいで、
その他の写真は、全部、多動夫が
ウロチョロしながら撮りまくったものです。笑


私にとっては、
ちんぷんかんぷんな機械が多かったのですが、
夫の目にはおもしろかったようで、
写真だらけです。笑
こういうのが、
「違う視点」って言うのでしょうかね。😅


ちなみに、好き勝手に撮りまくった写真を、
ひとつひとつ調べて、
展示の順に並べ直して掲載したのは、
今回も、もちろん私です。
(タイヘンでした…。😂😂)



これで、農村群エリアで気になっていたふたつのスポットを掲載できました。^^


…ということで、元のお話に戻ります。
市街地群エリアを出て、山村群エリアへ。
再び、お山の中を分け入っていきます。笑


このときに、私たちが立てたプランです。市街地群エリアから青い矢印のように歩き、山村群エリアでまだ訪れていなかった3か所を見学したあと、再び、市街地群エリアに戻ります。右端の通りを直進しながら見学を続け、漁村群エリアに突入します。🤣🤣


こんなにウロウロと、だいじょうぶか?
と言われそうです。
ほんと、アホみたいだと、私も思います。


できるかぎり、すべてのスポットを見たい。
でも時間がない。
そして、いまだ手つかずで残っている、
漁村群エリア


実は、私たちがいちばん見たかった家は、
このエリアにあるのです。
「漁村群エリアを見ないで、
 帰るわけにはいかない。」
と悲壮な決意の、ノーテンキ夫婦でした。😅😅
はたしてこのとおりにできるのでしょうか。😅


とりあえず、山村群エリアにはいります。
プランにしたがって歩き、
市街地群エリアからいちばん近くにある、
旧札幌師範学校武道場
に行ったのですが…。


武道場のすぐ隣りにある、旧札幌農学校寄宿舎のりっぱな建物が見えてしまいました。


思わず、
ふらふらと寄宿舎の方に行こうとする夫。
その首根っこをつかまえて、
武道場へと進みます。🤣🤣


決めた順番の通りに歩かないとだめ!
 思いつきで歩くと、
 わけがわからなくなるでしょ!」


いや、ほんとうは私も、
武道場より寄宿舎の方が見たかったのです。😅
でも、残された時間は少なく、
タイトなスケジュールで歩いているのに、
気分で経路を変えると、時間のロスが出てきます。


…ということで、予定どおり、まずはこちらへ。旧札幌師範学校武道場です。


【旧札幌師範学校武道場】
1929年(昭和4年)、北海道教育大学札幌校の前身である北海道札幌師範学校の武道場として建設されました。入母屋造り、平入りの和風建築意匠を強調した木造平屋建ての建物で、剣道、柔道場として使用されましたが、戦後、1949年(昭和24年)からは、一時図書館として、その後は第二体育館として利用されました。


中は、普通の武道場が再現されています。現在も、柔道のけいこなどで使用されているようでした。


さて。
次はいよいよ、旧札幌農学校寄宿舎です。


「早く、早く。」と急ぎ足で前を行く夫。子どもみたいですね。🤣


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 41 - 北海道開拓の村⑬(旧開拓使札幌本庁舎、旧田村家北誠館蚕種製造所)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・旧田村家北誠館蚕種製造所で。(北海道札幌市)


11月6日(土)


白とピンクの色合いが美しい、旧浦河支庁庁舎。

その窓から見えた、美しい建物が…、

旧開拓使札幌本庁舎です。息をのむような美しさです。


【旧開拓使札幌本庁舎】
1869年(明治2年)、明治新政府は、草原と林におおわれた原野であった札幌を、北海道の政治の中心地とすることに決めました。新しいまちづくりのなかで、役所や学校、お雇い外国人教師の官舎などには西洋風の建築スタイルがとり入れられたため、札幌中心部はアメリカ東部の都市のような雰囲気になっていきました。そのシンボル的な建物として1873年(明治6年)に完成したのが、開拓使札幌本庁舎です。

建築された場所は、赤レンガ庁舎の名で親しまれている旧北海道庁本庁舎の北側でした。建築にあたっては、開拓使顧問ケプロンの構想に基づき、開拓使工業局営繕課が担当しました。建築の5年後に火災のため焼失しましたが、開拓の村では、建築当時の本庁舎を再現してあります。
現在、建物の内部には、総合案内・情報サービスコーナー、講堂、研修室があり、見学の事前事後の学習・休憩などに活用されています。


旧開拓使札幌本庁舎は、開拓の村の中でも、
ひときわ目をひく美しさでした。
残念ながら、このときは工事中で、
中に入ることができませんでした。
悔しいので(笑)、
夫があっちこっちウロウロして、
撮りまくった外観写真を、
一挙にご紹介します。笑



これで、馬車鉄道が敷かれているメインストリートの両側にある建物は、すべて見学し終わりました。市街地群エリアには、このほかにもまだ道路が2本あり、そこにも多数の家屋が建っているのですが、とりあえずここで一区切りとします。ここからは、市街地群エリアを出て、再び、山村群エリアに入っていくことにしました。


ということで、
舞台は山村群エリアに移ります。
…といいたいところなのですが、
実はずっと気になっていることがあります。


地図の右上、農村群エリアに、
 旧田村家北誠館蚕種製造所
 旧農商務省滝川種羊場機械庫

があるのですが、
私の記憶違いから、
この2か所を掲載しそこなってしまい、
そのままどんどん歩を進めてしまいました。


実はこの2か所は、農村群エリアに着いてから、
いちばん初めに行った場所でして、
そこから下へ下へと移動しながら、
見学を進めて行ったわけです。


順番が前後してしまいましたが、
市街地群エリアが一段落したのを機に、
ここで、この二つをご紹介したいと思います。
(ややこしくてスミマセン。)


馬車鉄道に乗って、舞台は再び農村群エリアに変わります。笑

終点に到着。

ここで、まずは旧ソーケシュオマベツ駅逓所に行き…、

つづいて旧岩間家農家住宅へ。岩間家は仙台藩の士族移民団として入植したため、家屋は仙台の建築様式で建てられたそうです。

そしてこのあとに、旧田村家北誠館蚕種製造所へと行ったんですね…。😅 左右に細長く伸びた建物でした。

正面玄関です。


【旧田村家北誠館蚕種製造所】
絹(糸)の原料になる蚕の卵(蚕種)をとる建物です。樺戸郡浦臼村で、養蚕伝習所の教師であった田村忠誠が、1901年(明治34年)から1905年(明治38年)にかけて建築しました。当時模範とされた東京蚕業試験場の蚕室を参考としたそうです。この製造所では、蚕種の製造販売を行うかたわら、多くの養蚕技術者を養成しました。


それでは、中に入ります。

内部には、通路に沿っていくつもの部屋があり、養蚕の作業風景が再現されていました。

蚕に食べさせるための桑を刻んでいるところです。

大きく育った蚕が見えます。

繭から生糸をとる作業です。

靴を脱いであがり、さらに奥へ奥へと進むと…、

そこには、たくさんの蚕棚が広がっていました。

いちばん奥の土間には、養蚕に関わる資料がたくさん展示されていて、さながら博物館のようでした。(そもそも開拓の村自体が、「野外博物館」という位置づけなのですが。笑)


何年も前に訪れた、
富岡製糸工場を思い出しました。
世界遺産となって一躍脚光をあびましたが、
このような蚕種製造所は、
製糸工場よりもさらに前の工程、
ということになります。
当時、日本の一大産業であった製糸業は、
このような蚕種製造所に支えられていた
ということを、初めて知りました。


日本の近代産業の礎となった、蚕種製造所。
その記録を今に伝える建物が、現在もひっそりと、
開拓の村に残されていました。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 40 - 北海道開拓の村⑫(旧開拓使工業局庁舎、旧小樽新聞社、旧浦河支庁庁舎)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・馬車鉄道で働く道産子、オウラです。(北海道札幌市)


戻りました。またよろしくお願いいたします。
今回は、旧開拓使工業局庁舎、旧小樽新聞社、旧浦河支庁庁舎を訪ねます。


11月6日(土)


旧札幌警察署南一条巡査派出所を出て、
旧開拓使工業局庁舎に向かって歩きました。


旧開拓使工業局庁舎です。


【旧開拓使工業局庁舎】
1873年(明治6年)に設置された開拓使工業局は、道路・橋梁・官庁・学校などの施設をはじめ、家財、機械・農具・車両などの製造事業を行い、北海道の発展に大きな業績を残しました。この建物は1877年(明治10年)に札幌市街中心部に建設されたもので、明治初期の洋風事務所建築の特徴を示し、開拓使関係庁舎としては現存する唯一のものです。

建築にあたり、工業局営繕課は、米国から輸入した建築雛形書を参照しながら洋風建築を習得していきました。この建物では、通り抜けの玄関ホール兼階段室をもつ平面構成や、屋根の棟飾り、ポーチの破風飾り、軒下の持送りなどに、米国建築書を参照したことが確認されています。旧開拓使工業局庁舎は、明治初期の北海道開拓を支えた同局工作場の現存唯一の遺構であるとともに、工業局営繕課の設計業務の実態を示す建物として、歴史的に高い価値が認められます。(国指定重要文化財)


屋根の棟飾りやポーチの破風飾りが美しい建物です。

内部には、当時の製造業に関する様々な物品が展示されていました。当時の鮭の缶詰とラベルです。「さけすづけ」「ます」と書いてあります。

ちなみにこれは、加賀橋立の蔵六園で見た、日本第一号のかに缶。樺太工場で製造したそうです。これに比べると、ずいぶん洗練されています。(2020年7月26日)


開拓使物産局麦酒製造所の写真です。

麦酒樽と…、

麦酒商標です。

木製の荷車。馬につないで運んだのでしょうか。

旧小樽新聞社です。旧開拓使工業局庁舎の隣りにあります。


【旧小樽新聞社】
小樽新聞社は、1894年(明治27年) に創立され、函館毎日新聞、北海タイムスとともに道内の代表的新聞の一つでした。この建物は、1909年(明治42年)の建築です。木造の骨組みで、外壁には札幌近郊で産出する札幌軟石(溶結凝灰岩)を積み上げた構造で、明治期石造建築の特徴を示しています。


たくさんの活字が残されていました。

手動の輪転機のようです。

そして、旧小樽新聞社の隣りにある、旧浦河支庁庁舎です。ようやく、通りのいちばん端まで戻りました。


【旧浦河支庁庁舎】
1897年(明治30年)、北海道庁が郡区役所を廃止し支庁制度を設けた結果、浦河郡に浦河支庁が置かれました。この建物は、1919年(大正8年)に当時の浦河村および道庁の費用で建築され、1932年(昭和7年)、日高支庁と改称されました。1956年(昭和31年)、浦河町に払い下げられた後は、堺町会館や博物館として利用されました。


外観は白とピンクの色合いで、玄関ポーチも優し気な雰囲気です。

支庁長室です。

2階に上がってみます。内部も、白とピンクでかわいらしい色合いです。^^

迎賓馬者です。


【迎賓馬車】
北海道で迎賓馬車が使用されたのは明治20年代からで、使用者も、官庁や牧場主に限られていました。ここに展示されている馬車は、1906年(明治39年)から、札幌の鉄道作業極北海道出張所で使用されていたものです。その後、1921年(大正10年)に王子製紙江別工場が購入し、昭和20年代まで、工場長や事務長の公務、来客の送迎に使用されていました。


特設展示ということで、代表的な照明器具や暖房器具が展示されていました。北海道開拓の村では、各建造物の内部において、それぞれの所在地と年代に応じた照明や暖房を再現しているそうです。

支庁舎だけに、壁にはこんなものが貼ってありました。

窓の向こうには、今訪れたばかりの旧開拓使工業局庁舎と旧小樽新聞社が見えます。

そして反対側の窓からは、美しいフォルムの建築物が見えました。旧開拓使札幌本庁舎です。


次回は、旧開拓使札幌本庁舎の
全景をご紹介します。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 39 - 北海道開拓の村⑪(旧山本理髪店、旧島歌郵便局、旧札幌警察署南一条巡査派出所) / 銀座「ももてなし家」で、再びキャンペーン中。(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・旧山本理髪店で。(北海道札幌市)


*4月9日からお休みいたします。


今回は、理髪店、郵便局、派出所を訪ねます。


11月6日(土)


引き続き、市街地エリアを歩きます。
メインストリートの反対側、
旧渡辺商店の隣りにある、
旧山本理髪店です。


旧山本理髪店。右側に見えるのは、前回ご紹介した、旧渡辺商店と旧浦河公会会堂です。

ゴールデンカムイ第87話でも、こんなふうに描かれています。(画像をお借りしました)


【旧山本理髪店】
傾斜の急な切妻屋根、玄関の雨よけアーチなど、大正期の洋風建築の特徴を残したスマートな外観です。北海道神宮裏参道沿いの「床屋さん」として、札幌で長く親しまれてきました。

大正末期、電気やガスは高価であったため、多くの店では、炭火を利用して湯を沸かしたりタオルを蒸していました。炭火と水を絶やさないよう、天主は常に気を付ける必要がありました。また、この頃から、理容椅子は木製4本足のものから金属製の台のついた回転椅子に変わっていきました。
平成25年、全国理容連合会より、理容遺産に認定されました。


店内のようすです。これはMIYOが撮りました。小学生の頃、こんな散髪屋さんで髪を切ってもらったことがあります。もう50年以上も前なんですね。笑

いっしょに撮っているのですが、夫が撮る写真はいつも、私のよりも被写体に近いです。笑

当時のスタイル見本。ここから選んでいたのでしょうか。


つづいて、旧島歌郵便局です。


MIYOが通っていた小学校も、こんな感じの木造校舎でした。笑

この郵便局も、ゴールデンカムイ第118話で登場します。そっくりですね。^^(画像をお借りしました)

右側が郵便局の窓口で、左側は通用口です。


【旧島歌郵便局】
この建物は1902年(明治35年)に、郵便局機能のために建てられたもので、局長や職員の住居は別棟でした。
北海道で近代郵便の取り扱いが始まるのは1872年(明治5年)で、島歌(久遠郡せたな町)には、1886年(明治19年)に郵便局が設置されました。1893年(明治26年)には、畑野清治が2代目局長として就任し、業務を取り扱いました。以後この局は、畑野家によって引き継がれてきました。明治末期の島歌地域は、鰊漁や昆布の生産などで活況を呈していたため、郵便物の取り扱いが多く、局長をはじめ、事務雇員3人、集配人2人、逓送人2人が働いていました。


利用者が雨に濡れないように、破風のあるポーチが設けてあります。

郵便局の窓口の内側です。カウンター越しに取り付けられた格子窓のうち、下段のガラスだけが横にスライドするように設計されていて、そこから郵便の受け渡しを行っていました。

建物の左側には、こんな部屋がありました。職員の詰め所だったようです。

配達時に使用した装具のようです。

隣りに、かわいらしい建物が見えたので、行ってみます。

 旧札幌警察署南一条巡査派出所です。


【旧札幌警察署南一条巡査派出所】
1911年(明治44年)に建てられました。それよりも前、札幌創成橋の脇に最初に交番が建てられたのは1885年(明治18年)でした。木造で、札幌創成橋交番所と呼ばれていた。同じ木造で一度改築されたが、その後個人の篤志による寄付で建てかえられたのがこの建物です。壁のレンガは、小口面と長手面を交互に表して積むイギリス積み手法を用いています。
南一条交番は、1972年、冬季オリンピック開催による道路の拡幅工事に伴って移転するまで、「赤レンガ鋼板」と呼ばれて市民に親しまれ、町の治安を守ってきました。


内部は奥行きがあり、取調室と事務室に分かれています。

入ってすぐの事務室では、巡査が調書を書いているようすを展示しています。ドアの向こうには取調室があります。

次回は、旧開拓使工業局庁舎を訪ねます。


(つづく)


(おまけのお話)


ふたたび、とっとり・おかやま新橋館
のお話です。
ここは、鳥取県と岡山県のアンテナショップです。


2階のビストロカフェ「ももてなし家」で、500円のお弁当をふたつ買ったところ、1000円分の割引券をもらってしまったお話を、以前の日記で書きました。


コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 25 - 旧永山武四郎邸 / 銀座「ももてなし家」で、500円のお弁当。(2021年11月5日/3日め) - MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと


この割引券、3月中旬まで有効とのことで、
締め切りぎりぎりでしたが、
なんとか使うことができました。


大山ハーブチキンの焼き鳥丼(800円)と日生牡蠣の卵とじ丼(800円)です。(2022年3月10日)


合計1600円ですが、割引券を使って、
実質600円になりました。
持ち帰っている間に型くずれしていますが、
おいしくいただきました。


キャンペーンは終わってしまったのですが、
昨日、歯科通院のついでに、
とっとり・おかやま新橋館に行ったところ、
再び、同じキャンペーンが始まっていました!笑


1000円購入ごとに、500円の割引券がもらえます。8月31日までのキャンペーンです。

鳥取・岡山の素材を使ったご当地グルメが、こんなにたくさんあります。

それならば…ということで、
またも買ってしまいました。


新メニューのえびめし丼(500円)と日生牡蠣の卵とじ丼(800円)です。(2022年4月5日)


牡蠣の卵とじ丼があまりにおいしかったので、
リピートです。^^
えびめし丼は、海老の旨味が効いた、
カレー味の炒飯でした。
おいしかったです。^^


ふたつで1300円だったので、割引券を一枚いただきました。^^

1階のとっとり・おかやま新橋館では、鳥取と岡山のベーカリーフェアを開催中です。夕方だったので、半額でゲットできました。


「究極の食パン」と言われる、
TREES BREADのレーズン食パン(540円→270円)と
白バラ牛乳ロール(150円→75円)
を買いました。


夫が、「次は穴子の炊き込み丼を食べたい」
と言うので、また行こうと思います。
もちろん、夕方をねらって行くつもりです。笑

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 38 - 北海道開拓の村⑩(旧本庄鉄工場、旧浦河公会会堂、旧渡辺商店)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・旧浦河公会会堂で。(北海道札幌市)


今回は、鉄工場、礼拝堂、雑貨店を訪ねます。


11月6日(水)


旧藤原車橇製作所の井戸を通り過ぎると、
旧本庄鉄工場があります。


旧本庄鉄工場


【旧本庄鉄工場】
本庄鉄工場は、石狩市で、明治30年から2代にわたって営業していました。石狩川河口にひらけた旧市街にあって、漁具や漁船の付属品のほか、農具などを作りました。この建物は、本庄鉄工場の仕事場として、1925年(大正14年)から昭和50年代まで使用されていたものです。開拓地に欠かせなかった鍛冶屋のようすがしのばれる建物です。

1925年(大正14年)、この鉄工場には、親方と13人の家族、そして小学校を出たばかりの弟子がひとり、暮らしていました。春先には農具を、夏から秋にかけては、石狩川河口での鮭刺網漁に使う錨(いかり)や和船の船釘を、家族も手伝いながら製造しました。火床の中で材料を熱し、金敷の上で鍛造作業を繰り返す鍛冶職人の仕事は、すべてが勘に頼る手仕事でした。ここでは、鮭漁期を迎える時期の鍛冶屋のようすを再現しています。


入口を入ると、まずは広い鍛冶場になります。

当時は、できあがったばかりの、ピカピカの錨や農具が並んでいたことでしょう。

鍛冶場の奥には、和室が4部屋ありました。右端の部屋で食事をしたようです。

10畳の広い部屋です。囲炉裏を囲んで15人が食事したら、にぎやかだったことでしょう。


これで、メインストリートの右側の建物は、
すべて見学を終えました。
つづいて、同じ通りの反対側にある、
旧浦河公会会堂に入ってみました。


旧浦河公会会堂


【旧浦河公会会堂】
旧浦河組合基督教会として、1894年(明治27年)、浦河郡荻伏村(現在の浦河町)に建築されました。木造平屋建て、一部2階の建物です。北海道開拓を目的に設立された赤心社の礼拝・集会所でした。赤心社は、1880年(明治13年)に神戸で設立され、翌年から荻伏村に入植を開始しています。赤心社の指導者の多くがキリスト教徒であったため、1886年(明治19年)に浦河公会が組織されました。


ランプの形が優雅ですね。現在でも、ここで結婚式を行うことができるそうです。

旧浦河公会会堂を出たら、通りの向こうから鉄道馬車がやってきました。^^ 馬車の向こう側には、これまでに見て来た建物が並んでいます。左から、旧藤原車橇製作所、旧太田装蹄所、旧大石三省堂支店、そして旧武岡商店…。さらに、旧近藤医院、旧武井商店酒造部、三〼河本そば屋と続き、いちばん奥に見えているのは、旧来正旅館。すばらしい眺めでした。

引き馬のオウラは道産子。健気に仕事しています。

ゆったりと、私たちの前を通り過ぎ…、

旧ソーケシュオマベツ駅逓所へと移動していきました。


見学を続けます。
次は、旧浦河公会会堂のとなりにある、
旧渡辺商店です。


旧渡辺商店


【旧渡辺商店】
枝幸郡中頓別(なかとんべつ)に建てられた雑貨店です。中頓別は、明治30年代に砂金掘りでにぎわい、1916年(大正5年)の鉄道開通後は、交通の要所として発展しました。漆喰仕上げの土蔵造りは、石造やレンガ造とともに耐火・耐寒を目的とした構造です。が、北海道ではあまり例がない建物です。

この建物では、1階が店舗、2階が座敷として使用され、店主の住宅と商品の倉庫は別棟となっていました。


店内には、台所用品や子どものおもちゃなど、多岐にわたるものが並べられていました。

上から吊るしてあるのは、ザルやすりこぎなどの生活用品。

その下には、尋常小学校の教科書が並んでいました。大正末期の新学期を控えた時期の、店舗のようすを再現しているそうです。当時の雑貨店では、日用品などのほか、書籍や教科書などを取り扱うところもありました。

床をご覧ください。奥の扉からレールが延びているのがわかりますでしょうか。このレールを使って、トロッコで倉庫の商品を出し入れしていたそうです。

倉庫の商品を出し入れするのにトロッコが必要なくらいに、お店がはやっていたということですね。^^

左に見えているのが、倉庫です。

市街地エリアで、鉄道馬車が走るメインストリートの右側の見学が終わりました。次は、来た道を戻りながら、メインストリート左側の建物を見て歩きます。


(つづく)