MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 45 - 北海道開拓の村⑰(旧廣瀬写真館、旧札幌拓殖倉庫)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・旧廣瀬写真館の待合室です。(北海道札幌市)


函館から戻りました。またよろしくお願いいたします。
坂の多い函館の街を歩き回り、毎日、海鮮丼をいただきました。笑

今回は、かねてから行きたかった、江刺、松前まで足を伸ばしました。
北海道南端の地では、強風に吹き飛ばされそうになり、荒波の激しさに驚きました。笑
帰ってきたばかりですが、早くも次の訪問を心待ちにしています。😅


11月6日(土)


山村群エリア内で、全スポットの見学を終え、
ふたたび、市街地群エリアに戻ってきました。


違い地群エリアを走る3本の道路で、右端の道路を歩きながら、見学を続けます。

旧廣瀬写真館です。

ゴールデンカムイ第124話では、こんなふうに描かれています。そっくりですね。^^(画像をお借りしました)


【旧広瀬写真館】
大正末期(1920年代)から1958年(昭和33年)まで、岩見沢市街で営業した写真館を再現しました。外観は洋風ですが、内部の多くは和風で、和洋折衷の建物です。撮影には自然光を用いたため、写場を2階に設けました。北側の屋根は斜めのガラス張りになっており、これはシングルスラントと呼ばれました。磨りガラスが下見張りのように重ねて葺かれており、拡散光が写場全体に行き渡ります。白と黒の天幕(多段カーテン)は、傾斜したガラス窓に沿って開閉できるようになっており、これをスライドさせることによって光量を調整しました。このほかにも、光量の調節のために、反射板や調光器を用いていたようです。


左側面から見ると、こんな感じです。屋根のソーラーシステムのように見える部分が、シングルスラントです。

玄関を入ってすぐの部屋は、受付になっていました。

続いて、家族の居間や台所があります。

さらに、8畳の部屋がふたつ。

いちばん奥がトイレです。白い花と果実が描かれています。当時のトイレでは、形や柄が、訪れる家ごとに違っているので、つい撮ってしまいます。😅

2階に上がります。

写場です。

北側は、斜めの屋根がガラス張りになっています。これが、シングルスラントです。


【シングルスラント】
ななめに取り付けられたガラス屋根のことです。磨りガラスが下見張りのように重ねられて葺かれています。これにより、拡散光が写場全体に行き渡りました。傾斜したガラス窓に沿って、白と黒の天幕(多段カーテン)がついています。この天幕をスライドさせて、光量を調整しました。


ゴールデンカムイ第124話には、この写場で撮影しているシーンがでてきます。左上に、シングルスラントの一部が描かれていますね。^^(画像をお借りしました)

フィルムはガラス乾板で、だるま型三脚台座式アンソニーカメラを用いて撮影しました。

2階には、このほかに暗室と待合室がありました。

旧廣瀬写真館を出て、さらに通りを進みます。右奥に見えているのは、第36話でご紹介した、旧武岡商店です。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 36 - 北海道開拓の村⑧(旧近藤医院、旧武岡商店)(2021年11月6日/4日め) - MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと

旧札幌拓殖倉庫が見えてきました。

旧札幌拓殖倉庫は、第32話でも写真をご紹介しています。

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 32 - 北海道開拓の村④(体験学習棟、旧札幌拓殖倉庫、旧山本消防組番屋、旧若狭家たたみ蔵、開拓の村食堂)(2021年11月6日/4日め) - MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと


このときは前を通っただけでしたが、
今回は、内部を歩いてみました。


「拓殖」とは、未開の荒れ地を切り開いてそこに住みつくという意味だそうです。


【旧札幌拓殖倉庫】
札幌軟石を使用した倉庫です。1907年(明治40年)に札幌駅の北側に建てられ、5年後、五十嵐倉庫合名会社から札幌拓殖倉庫株式会社に引きつがれました。この建物は、札幌駅北側に隣接し、線路に直角に位置していた6棟の内の一番西側の棟です。梁間5間、桁行27間、面積135坪の木骨石造でした。開拓期の農産物の集散に大きな役割を果たし、地域の発展に貢献しました。昭和56年、その敷地が鉄道高架用地として買収されることとなり、開拓の村に移築復元されました。


細長い通路沿いに、倉庫が並んでいます。

中には、北海道で使用された農機具が展示されていました。

北海道の農業開拓が組織的・計画的に行われるようになるのは、明治後期からですが、当初は鍬・鋤のような在来農具によって開墾、耕作が行われました。一方、開拓使は、欧米の畑作品種や家畜、畜力農機具を導入した欧米農法の定着に取り組みました。これにより、ブラウ、ハローなどのさまざまな農機具が輸入されました。

正面上部には、開拓使の旗印である「北辰旗」の「五陵星」が」刻まれていました。


これで、右端の通り沿いの見学を終えました。
このまま一気に走り、
いよいよ、手つかずだった漁村群エリア
突入します。


あと一時間半。
とにかく、行けるとこまで行きます。


(つづく)


(おまけのお話)


「ゴールデンカムイ」をネットで見ています。


4月28日まで、全313話を、無料で読むことができます。


読んでいると、あちこちの場面で、
北海道開拓の村の風景が
使われているのがわかり、
2倍楽しめます。^^


山本理髪店、島歌郵便局
登場しているのを見つけたので、
画像をお借りし、以下の日記に加筆しました。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 39 - 北海道開拓の村⑪(旧山本理髪店、旧島歌郵便局、旧札幌警察署南一条巡査派出所) / 銀座「ももてなし家」で、再びキャンペーン中。(2021年11月6日/4日め) - MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと


当時の情景を忠実に再現している、
ゴールデンカムイ。
ストーリーも、とてもおもしろいです。
写真とアニメを見比べながら、
楽しんで頂けたらうれしいです。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 44 - 北海道開拓の村⑯(旧札幌農学校寄宿舎 (恵迪寮)②、森林鉄道機関庫)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・森林鉄道機関庫で。(北海道札幌市)


北海道ラブが止まりません。笑
4月15日のフライトで、函館に行ってきます。ブログは、しばらくお休みをいただきます。
「ANAにキュン」を利用し、わずか5800マイル(往復ひとり分)という、
驚異的な安さで、航空券をゲットしました。^^
滞在中のレンタカーは、dポイントを利用したので、わずか1000円です。
相変わらずのオトク旅行を、今回も楽しんできます。^^


11月6日(土)


旧札幌農学校寄宿舎 (恵迪寮)
に来ています。


学生たちが生活していた部屋を見学したあとは、恵迪寮にちなんだ様々の資料を見ていきました。

中でもおもしろかったのは、当時の学生たちが供されていた食事を紹介するコーナーです。ガラスケースの中には、当時の食事のサンプルが並べられていました。

昭和初期の頃の朝食です。白米のごはん、ワカメや豆腐の入った味噌汁、たくあんや浅漬けなどのおしんこがありました。それでも足りない学生には、自費で生卵や納豆などを追加できました。良き時代でした。

札幌農学校寄宿舎発足当時の夕食。スープに獣肉(鹿肉)、野菜、パンとバターなどがでました。モダンな食事ですね。

その他、豚飯(明治末から大正)、馬のたたき団子が3個入った北國汁(大正末期から昭和初期)などもありました。

充実のメニューでしたが、戦争が始まると物資が不足し、やがて、一日の所要量の1/4しか提供されなくなったそうです。

学生が書き残したものの数々。「ニュートンも、クソの落下に気がつかず」だそうです。

ボタンを押すと、恵迪寮歌を聞くことができます。なんと、33曲もあったんですね!笑

そして、1983年(昭和58年)、コンクリートの寮舎が完成しました。食堂は姿を消し、居屋は個室となりました。

同じ年、役目を終えた旧恵迪寮舎が取り壊されました。札幌農学校寄宿舎として開舎してから78年後のことでした。建物の一部は、恵迪寮同窓会に払い下げとなり、北海道開拓の村に運ばれました。

現在、私たちが見ることのできる旧恵迪寮は、明治38年の開舎当時の姿で復元されたものです。


かつてここで生活した学生たちの、
生き生きとした暮らしぶりが偲ばれる、
あたたかな雰囲気の建物でした。


もっとここにいたかったのですが、
時間がありません。
後ろ髪をひかれる思いで、
山村群エリアの奥へと進んでいきました。


林の奥に、午前中に訪れた、旧平造材部飯場が見えてきました。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 31 - 北海道開拓の村③(開拓小屋、炭焼き小屋、旧平造材部飯場)(2021年11月6日/4日め) - MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと

めざす建物は、この旧平造材部飯場の少し先にあります。

ありました。森林鉄道機関庫です。小さい小屋に見えますが、中に入ると、びっくりするものがありました。


【森林鉄道機関庫】
大正8年度から、北海道庁は、拓殖計画に国有林の直営伐採事業を加えました。それにより、木材搬出のための森林鉄道の敷設に着手。その後、道内各地で建設が進められました。昭和初期には、従来の流送にかわって鉄道運材が主流となり、機関車や貨車のほか、機関庫、貯木場も整備されました。
この機関庫は、昭和初期に作られたものを再現しています。


伐採した木材を積んだ貨車が…、

蒸気機関車につながっていました。

1950年に製作された、森林鉄道ディーゼル気動車。野村プリモス型イスズDA43型エンジンです。大夕張営林署管轄の下夕張森林鉄道(昭和16年~昭和41年)および夕張岳森林鉄道(昭和18年~昭和41年)で、昭和41年に廃止されるまで稼働していました。

森林鉄道トローリーだそうです。


これで、
残っていた3か所の見学が終わりました。


山村群エリアは、全スポットを制覇です。笑


…と、喜んでいる場合ではありません。
これから、市街地群エリアの見学をしながら、
漁村群エリアに突入しなくてはなりません。
閉館時間まで、あと2時間をきっています。
やばいです。
まだ行ってないところが、
かなり残っているというのに。


ということで、森林をつっきって、市街地群エリアへと戻ります。


全スポットを見学したかったのですが、
時間が全然足りません。
朝、開館時間に到着してから、
ずうっと見学し続けてるんですけど。😂😂


北海道開拓の村。
とほうもない広さでした。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 43 - 北海道開拓の村⑮(旧札幌農学校寄宿舎 (恵迪寮)①)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・旧札幌農学校寄宿舎(恵迪寮)で。当時、舎で学生が食べていた食事のサンプルに見入っているところです。(北海道札幌市)


11月6日(土)


旧札幌農学校寄宿舎(恵迪寮)が見えてきました。


全部で3棟。かなりの規模です。

旧札幌農学校寄宿舎(恵迪寮)です。


【旧札幌農学校寄宿舎(恵迪寮)】
開拓使仮学校に始まる札幌農学校(現北海道大学)は、1876年(明治9年)に、現在の時計台付近に開学し、1903年(明治36年)に現在地へと移転しました。その際に寄宿舎も新築され、4年後に“恵迪寮(けいてきりょう)”と命名されました。当時は、玄関棟と2棟36室および厨房棟がありましたが、開拓の村では玄関棟と2棟12室を復元しています。


玄関棟です。玄関棟の両側に寄宿棟が1棟ずつ配置され、3棟が渡り廊下でつながっています。


ここで靴を脱いであがり、寮内を見学することができます。

職員室です。

渡り廊下の先に、寄宿棟があります。

寄宿棟に入りました。ここでは、当時学生が生活した部屋が再現されています。階段を上がって、2階に行くこともできます。

学生の部屋です。木でできたベッドには畳が置かれていて、この上に布団を敷いて寝ました。

こんな感じですね。敷布団がないのが気になるところです。^^

ひと部屋に4台のベッドが置かれていました。

ベッドの下は物入れになっています。

明治9年の、札幌農学校舎則です。「職員の命にしたがうこと」「貸与品を破損した場合いは弁償すること」「大声で歌ったり騒いだりしないこと」「交代で室内を掃除すること」「沐浴は4時から5時半」「30分以上遅刻した者には食事を提供しない」…などと書いてありました。

2階の窓から眺めた恵迪寮です。

このほか、恵迪寮にまつわる資料が、多数展示されていました。


次回は、当時の恵迪寮で、
学生たちが食べていた食事のサンプルを
ご紹介します。


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 42 - 北海道開拓の村⑭(旧農商務省滝川種羊場機械庫、旧札幌師範学校武道場)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・旧来正旅館で。結婚写真を撮るカップルです。(北海道札幌市)


11月6日(土)


書きそびれていた、ふたつの建物の続きです。
前回掲載したのは、
旧田村家北誠館蚕種製造所でした。



今回は、そのふたつめ、
旧農商務省滝川種羊場機械庫
をご紹介します。


旧農商務省滝川種羊場機械庫です。いかにも、「倉庫」らしい外観です。


【旧農商務省滝川種羊場機械庫】
1921年(大正10年)に、滝川市に建設された、農業機械庫です。農商務省の技師が、北欧の建築様式を取り入れて設計したものであり、大正中期に建築された種羊場の代表的な施設です。基礎には自然石を積み、小屋組は洋風構造のキングポスト・トラス組で、建物の正面と左右には下屋が設けられています。
当時、農商務省滝川種羊場では、メリノー種やサウスダウン種など、約750頭の緬羊を試験飼育していました。この機械庫には、緬羊の飼料となる牧草の栽培に使用するため、ヘイモーアー、ヘイテッダー、ヘイレーキなどの大型農機具が格納されていました。現在は、機械庫と下屋に大型農機具を中心とした農業機械を展示し、農具庫では、これら農業機械の技術発達に関する資料を展示しています。


内部です。広い庫内には、当時活躍していたであろう農業機械がびっしりと並べられていました。

古いトラクターですね。MIYOがわかったのはこれくらいで、その他の機械は、見慣れないものばかりでした。

畜力噴霧機というものです。防除作業のための農薬を農地に噴霧する機械だったようです。これを家畜につないで引っ張らせたのでしょう。


【畜力噴霧機】
背負噴霧機に比べて格段に作業効率が高いため、大正時代に、行政と大工場の共同出資で国内に導入されました。その後、輸出に頼る体質から脱却するために国産化が進み、それによって改良が進み、国内の畜力噴霧機は高度化していきました。その後、トラクタの普及を想定し、空冷エンジンを搭載した畜力車載型動力噴霧機が登場します。当時から完成度は高く、基本的な機構は、現在のトラクタ用ブームスプレーヤでも、大きく変ってはいません。


その後も、いくつにも分かれた部屋を歩いたのですが、出てくる、出てくる、たくさんの農業機械たち。笑

同じ機械を、前方から後方からと、ウロウロしながら撮りまくる夫が目にうかぶようです。🤣🤣

昭和40年代の石油発動機。中央には、Kubotaというプレートが、誇らしげに付けられていました。


【株式会社クボタ】
1890年の創業で、日本の農業の機械化を推進し続けてきました。その始まりは、鋳物業だったそうです。14歳で大阪へ出てきた創業者が、鋳物屋で修行を積みながら資金を蓄え、19歳のとき、長屋の一角を借りて「大出鋳物」を創業しました。以来120年。現在の資本金は841億円。グローバルに事業を展開し、2021年の売り上げは2兆円を超えているそうです。すごい会社だったんですね!^^


当時の機械に残されていたロゴです。

ちなみに、現在のロゴはこんなにオシャレです。笑 よく混同されますが、自動車部品メーカーの「久保田鐵工所」とは別の会社なのだそうです。

この農業機械たちが、かつて、北海道の大地で活躍していた頃を想像しながら歩きました。この農業機械の歴史は、とりもなおさず、北海道で農業に尽力し続けた人々の歴史でした。

ひっそりと展示されていた、縄ない機。縄を綯(な)う機械ですね。筵も作っていたようです。昭和20年代のもので、木枠部分に、「長野県丸子町(現・上田市丸子町)タヤ製作所」と書いてあります。こんな機械があったということは、北海道に稲わらが普通にあったということなのでしょう。


【北海道の米作りと縄】
開拓時代以前の北海道では、米作をしていなかったため、稲わらで作る縄は貴重品でした。北海道で初めて水田造りに成功したのは、1873年(明治6年)のことだったそうです。やがて1988年、北海道の米作りに向く品種の「きらら397」が誕生します。実に100年以上も後のことでした。
北海道での長い米作りの歴史の中で、貴重品とされていた稲わらが、やがてあたりまえのものとなっていったわけです。長野で作られた縄ない機が札幌で活躍するようになるまでの道筋を思うと、感慨深いものがありました。


この縄ない機を作ったワタヤ製作所ですが、
帰宅後に調べてみたら、長野県上田市で、
現在も企業として活躍していることがわかり、
たいへん驚きました。


株式会社綿谷製作所です。養蚕業の先進地帯であった長野県丸子町で、煮繭機、操糸機、一般機械器具製造の製造会社として、1935年(昭和10年)に設立されました。現在は、大型機械加工や産業用機械装置製造に携わっているそうです。(画像をお借りしました。)

日本の製造業は、すごいなあ…、と、しみじみ思いました。

屋外に設置されているものもありました。


まあ…、
だいたいおわかりかと思いますが、
MIYOが撮ったのは、
機械庫内部を俯瞰する写真一枚くらいで、
その他の写真は、全部、多動夫が
ウロチョロしながら撮りまくったものです。笑


私にとっては、
ちんぷんかんぷんな機械が多かったのですが、
夫の目にはおもしろかったようで、
写真だらけです。笑
こういうのが、
「違う視点」って言うのでしょうかね。😅


ちなみに、好き勝手に撮りまくった写真を、
ひとつひとつ調べて、
展示の順に並べ直して掲載したのは、
今回も、もちろん私です。
(タイヘンでした…。😂😂)



これで、農村群エリアで気になっていたふたつのスポットを掲載できました。^^


…ということで、元のお話に戻ります。
市街地群エリアを出て、山村群エリアへ。
再び、お山の中を分け入っていきます。笑


このときに、私たちが立てたプランです。市街地群エリアから青い矢印のように歩き、山村群エリアでまだ訪れていなかった3か所を見学したあと、再び、市街地群エリアに戻ります。右端の通りを直進しながら見学を続け、漁村群エリアに突入します。🤣🤣


こんなにウロウロと、だいじょうぶか?
と言われそうです。
ほんと、アホみたいだと、私も思います。


できるかぎり、すべてのスポットを見たい。
でも時間がない。
そして、いまだ手つかずで残っている、
漁村群エリア


実は、私たちがいちばん見たかった家は、
このエリアにあるのです。
「漁村群エリアを見ないで、
 帰るわけにはいかない。」
と悲壮な決意の、ノーテンキ夫婦でした。😅😅
はたしてこのとおりにできるのでしょうか。😅


とりあえず、山村群エリアにはいります。
プランにしたがって歩き、
市街地群エリアからいちばん近くにある、
旧札幌師範学校武道場
に行ったのですが…。


武道場のすぐ隣りにある、旧札幌農学校寄宿舎のりっぱな建物が見えてしまいました。


思わず、
ふらふらと寄宿舎の方に行こうとする夫。
その首根っこをつかまえて、
武道場へと進みます。🤣🤣


決めた順番の通りに歩かないとだめ!
 思いつきで歩くと、
 わけがわからなくなるでしょ!」


いや、ほんとうは私も、
武道場より寄宿舎の方が見たかったのです。😅
でも、残された時間は少なく、
タイトなスケジュールで歩いているのに、
気分で経路を変えると、時間のロスが出てきます。


…ということで、予定どおり、まずはこちらへ。旧札幌師範学校武道場です。


【旧札幌師範学校武道場】
1929年(昭和4年)、北海道教育大学札幌校の前身である北海道札幌師範学校の武道場として建設されました。入母屋造り、平入りの和風建築意匠を強調した木造平屋建ての建物で、剣道、柔道場として使用されましたが、戦後、1949年(昭和24年)からは、一時図書館として、その後は第二体育館として利用されました。


中は、普通の武道場が再現されています。現在も、柔道のけいこなどで使用されているようでした。


さて。
次はいよいよ、旧札幌農学校寄宿舎です。


「早く、早く。」と急ぎ足で前を行く夫。子どもみたいですね。🤣


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 41 - 北海道開拓の村⑬(旧開拓使札幌本庁舎、旧田村家北誠館蚕種製造所)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・旧田村家北誠館蚕種製造所で。(北海道札幌市)


11月6日(土)


白とピンクの色合いが美しい、旧浦河支庁庁舎。

その窓から見えた、美しい建物が…、

旧開拓使札幌本庁舎です。息をのむような美しさです。


【旧開拓使札幌本庁舎】
1869年(明治2年)、明治新政府は、草原と林におおわれた原野であった札幌を、北海道の政治の中心地とすることに決めました。新しいまちづくりのなかで、役所や学校、お雇い外国人教師の官舎などには西洋風の建築スタイルがとり入れられたため、札幌中心部はアメリカ東部の都市のような雰囲気になっていきました。そのシンボル的な建物として1873年(明治6年)に完成したのが、開拓使札幌本庁舎です。

建築された場所は、赤レンガ庁舎の名で親しまれている旧北海道庁本庁舎の北側でした。建築にあたっては、開拓使顧問ケプロンの構想に基づき、開拓使工業局営繕課が担当しました。建築の5年後に火災のため焼失しましたが、開拓の村では、建築当時の本庁舎を再現してあります。
現在、建物の内部には、総合案内・情報サービスコーナー、講堂、研修室があり、見学の事前事後の学習・休憩などに活用されています。


旧開拓使札幌本庁舎は、開拓の村の中でも、
ひときわ目をひく美しさでした。
残念ながら、このときは工事中で、
中に入ることができませんでした。
悔しいので(笑)、
夫があっちこっちウロウロして、
撮りまくった外観写真を、
一挙にご紹介します。笑



これで、馬車鉄道が敷かれているメインストリートの両側にある建物は、すべて見学し終わりました。市街地群エリアには、このほかにもまだ道路が2本あり、そこにも多数の家屋が建っているのですが、とりあえずここで一区切りとします。ここからは、市街地群エリアを出て、再び、山村群エリアに入っていくことにしました。


ということで、
舞台は山村群エリアに移ります。
…といいたいところなのですが、
実はずっと気になっていることがあります。


地図の右上、農村群エリアに、
 旧田村家北誠館蚕種製造所
 旧農商務省滝川種羊場機械庫

があるのですが、
私の記憶違いから、
この2か所を掲載しそこなってしまい、
そのままどんどん歩を進めてしまいました。


実はこの2か所は、農村群エリアに着いてから、
いちばん初めに行った場所でして、
そこから下へ下へと移動しながら、
見学を進めて行ったわけです。


順番が前後してしまいましたが、
市街地群エリアが一段落したのを機に、
ここで、この二つをご紹介したいと思います。
(ややこしくてスミマセン。)


馬車鉄道に乗って、舞台は再び農村群エリアに変わります。笑

終点に到着。

ここで、まずは旧ソーケシュオマベツ駅逓所に行き…、

つづいて旧岩間家農家住宅へ。岩間家は仙台藩の士族移民団として入植したため、家屋は仙台の建築様式で建てられたそうです。

そしてこのあとに、旧田村家北誠館蚕種製造所へと行ったんですね…。😅 左右に細長く伸びた建物でした。

正面玄関です。


【旧田村家北誠館蚕種製造所】
絹(糸)の原料になる蚕の卵(蚕種)をとる建物です。樺戸郡浦臼村で、養蚕伝習所の教師であった田村忠誠が、1901年(明治34年)から1905年(明治38年)にかけて建築しました。当時模範とされた東京蚕業試験場の蚕室を参考としたそうです。この製造所では、蚕種の製造販売を行うかたわら、多くの養蚕技術者を養成しました。


それでは、中に入ります。

内部には、通路に沿っていくつもの部屋があり、養蚕の作業風景が再現されていました。

蚕に食べさせるための桑を刻んでいるところです。

大きく育った蚕が見えます。

繭から生糸をとる作業です。

靴を脱いであがり、さらに奥へ奥へと進むと…、

そこには、たくさんの蚕棚が広がっていました。

いちばん奥の土間には、養蚕に関わる資料がたくさん展示されていて、さながら博物館のようでした。(そもそも開拓の村自体が、「野外博物館」という位置づけなのですが。笑)


何年も前に訪れた、
富岡製糸工場を思い出しました。
世界遺産となって一躍脚光をあびましたが、
このような蚕種製造所は、
製糸工場よりもさらに前の工程、
ということになります。
当時、日本の一大産業であった製糸業は、
このような蚕種製造所に支えられていた
ということを、初めて知りました。


日本の近代産業の礎となった、蚕種製造所。
その記録を今に伝える建物が、現在もひっそりと、
開拓の村に残されていました。


(つづく)