コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 31 - 北海道開拓の村③(開拓小屋、炭焼き小屋、旧平造材部飯場)(2021年11月6日/4日め)
(2022/03/19 14:30記)
2021年11月6日 山村群エリアの炭焼小屋で。(北海道札幌市)
11月6日(土)
開拓小屋の写真ですが、今日になって、
夫がたくさん撮っていたのがわかったので、
もう少し掲載します。
開拓小屋の全景です。
通路のような部分から入ります。
つきあたりが出入り口です。扉はなく、上にしばりつけてあるむしろを、夜はおろしたものと思われます。
これは私が撮った写真です。私は、一枚で俯瞰しようとするのですが、夫はさらに細部を撮り続けます。これらを両方合わせて、いつも日記を書いています。笑
ここで食事をしたんですね。
窓に板などはなく、木の枝の柵があるだけです。
そして、その窓を外から撮った写真です。
いかがでしょうか…。
夫の写真の、この撮り方。
家の様子を詳しく撮っていて、
MIYOの写真よりもわかりやすいのですが、
詳しすぎますね。🤣🤣🤣
もう、開拓小屋だけで、
連載一日分が終わりそうな勢いです。😂😂
通常、ブログを書く際に、
夫が好き勝手にランダムに撮ったものを、
私の写真と合わせます。
その後、展開したいストーリーを構成し、
それに沿って、
すべての写真を並べなおしてから
掲載しているのですが、
この作業がいちばんたいへんです。笑
実は、ここまでの「北海道開拓の村①②」は、
MIYOが撮った写真だけで書いていたことが、
今朝になってわかりました。
夫が撮った、開拓の村の膨大な写真が、
今頃になって出てきたのです。
(我が家にはよくあることですが。😔)
いったい何百枚あるのかわかりません。😂
これからは、これをいっしょに掲載するので、
このあとの日記は、
さらにくわし~くなっていくと思います。
まあ、ごいっしょに、
旅行気分を楽しんで頂ければうれしいです。
ということで、山村群エリアに入り、
開拓小屋から吊り橋に向かったのですが、
その道すがら、
いくつかの見学スポットに寄っていきました。
こんなところを歩いていきます。一応、道はあるのですが、もう、博物館の見学と言うよりも、「山歩き」に近いです。笑
炭焼小屋に到着しました。
【炭焼小屋】
北海道は国内有数の木炭生産地で、主に黒炭(くろすみ)が生産されました。炭窯の種類は多様ですが、明治・大正期の北海道では、角窯が多く使われました。一般に、専業の炭焼きは大型の窯を、副業では、小型の窯を使用していました。
この炭窯は、大正末期の副業製炭業者の角窯を再現しています。
山の中を、さらに歩きます。
旧平造材部飯場が見えてきました。
【旧平造材部飯場】
大正後期に下川村奥名寄の御料林内に建てられた、造材飯場を再現しています。造材飯場とは、伐木や造材に携わった山子や集・運材作業に従事した藪出し、馬追いなどが山中で寝泊まりした小屋でした。この飯場では、40人ほどの山子と藪出しが生活し、馬追い飯場は別棟になっていました。
同じ飯場の側面なのですが、こちら側を撮ったあと…、
ダダダ~っと走って反対側に行き、今度は裏側を撮りたくなってしまう、多動夫。(ゴクロウサマです。笑)
つきあっていられないので、MIYOはさっさと中に入ります。笑
中はこんな風になっています。ここで、作業のあとに、たくさんの藪出しが寝泊まりしたんですね…。
濡れた装具を、いろりの上に吊るして乾かしています。
むしろ一枚の上にふとんを敷いて、それがひとり分のスペースだったようです。
同じような写真なのですが、夫は、棚とそこに置いてある私物(食器)が気になり…、
私は、畳んである寝具や衣類が気になってるんですね…。🤣🤣
びっしりと布団が並ぶようすを見て、私も夫も、網走監獄を思い出してしまいました。
飯場の方々の生活が監獄なみ、
と言いたいのではありません。
この5か月前に網走監獄を見た時は、
囚人たちがすし詰めで寝かされていることに
驚きましたが、
開拓時代の北海道では、
こんなふうにして寝るのは、
そう珍しいことではなかったのかもしれない、
と気づいたのです。
いえ、北海道だけでなく、
当時の日本では、こんな光景は、
どこでもあたりまえだったのではないか…。
日本が貧しく、
誰もが生きることに懸命だった時代が、
ここに凝縮され、
再現されているように思いました。
農村群から山村群に入り、山中を徘徊しながら、吊り橋へと歩いた道筋です。
(つづく)






















