MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 42 - 北海道開拓の村⑭(旧農商務省滝川種羊場機械庫、旧札幌師範学校武道場)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・旧来正旅館で。結婚写真を撮るカップルです。(北海道札幌市)


11月6日(土)


書きそびれていた、ふたつの建物の続きです。
前回掲載したのは、
旧田村家北誠館蚕種製造所でした。



今回は、そのふたつめ、
旧農商務省滝川種羊場機械庫
をご紹介します。


旧農商務省滝川種羊場機械庫です。いかにも、「倉庫」らしい外観です。


【旧農商務省滝川種羊場機械庫】
1921年(大正10年)に、滝川市に建設された、農業機械庫です。農商務省の技師が、北欧の建築様式を取り入れて設計したものであり、大正中期に建築された種羊場の代表的な施設です。基礎には自然石を積み、小屋組は洋風構造のキングポスト・トラス組で、建物の正面と左右には下屋が設けられています。
当時、農商務省滝川種羊場では、メリノー種やサウスダウン種など、約750頭の緬羊を試験飼育していました。この機械庫には、緬羊の飼料となる牧草の栽培に使用するため、ヘイモーアー、ヘイテッダー、ヘイレーキなどの大型農機具が格納されていました。現在は、機械庫と下屋に大型農機具を中心とした農業機械を展示し、農具庫では、これら農業機械の技術発達に関する資料を展示しています。


内部です。広い庫内には、当時活躍していたであろう農業機械がびっしりと並べられていました。

古いトラクターですね。MIYOがわかったのはこれくらいで、その他の機械は、見慣れないものばかりでした。

畜力噴霧機というものです。防除作業のための農薬を農地に噴霧する機械だったようです。これを家畜につないで引っ張らせたのでしょう。


【畜力噴霧機】
背負噴霧機に比べて格段に作業効率が高いため、大正時代に、行政と大工場の共同出資で国内に導入されました。その後、輸出に頼る体質から脱却するために国産化が進み、それによって改良が進み、国内の畜力噴霧機は高度化していきました。その後、トラクタの普及を想定し、空冷エンジンを搭載した畜力車載型動力噴霧機が登場します。当時から完成度は高く、基本的な機構は、現在のトラクタ用ブームスプレーヤでも、大きく変ってはいません。


その後も、いくつにも分かれた部屋を歩いたのですが、出てくる、出てくる、たくさんの農業機械たち。笑

同じ機械を、前方から後方からと、ウロウロしながら撮りまくる夫が目にうかぶようです。🤣🤣

昭和40年代の石油発動機。中央には、Kubotaというプレートが、誇らしげに付けられていました。


【株式会社クボタ】
1890年の創業で、日本の農業の機械化を推進し続けてきました。その始まりは、鋳物業だったそうです。14歳で大阪へ出てきた創業者が、鋳物屋で修行を積みながら資金を蓄え、19歳のとき、長屋の一角を借りて「大出鋳物」を創業しました。以来120年。現在の資本金は841億円。グローバルに事業を展開し、2021年の売り上げは2兆円を超えているそうです。すごい会社だったんですね!^^


当時の機械に残されていたロゴです。

ちなみに、現在のロゴはこんなにオシャレです。笑 よく混同されますが、自動車部品メーカーの「久保田鐵工所」とは別の会社なのだそうです。

この農業機械たちが、かつて、北海道の大地で活躍していた頃を想像しながら歩きました。この農業機械の歴史は、とりもなおさず、北海道で農業に尽力し続けた人々の歴史でした。

ひっそりと展示されていた、縄ない機。縄を綯(な)う機械ですね。筵も作っていたようです。昭和20年代のもので、木枠部分に、「長野県丸子町(現・上田市丸子町)タヤ製作所」と書いてあります。こんな機械があったということは、北海道に稲わらが普通にあったということなのでしょう。


【北海道の米作りと縄】
開拓時代以前の北海道では、米作をしていなかったため、稲わらで作る縄は貴重品でした。北海道で初めて水田造りに成功したのは、1873年(明治6年)のことだったそうです。やがて1988年、北海道の米作りに向く品種の「きらら397」が誕生します。実に100年以上も後のことでした。
北海道での長い米作りの歴史の中で、貴重品とされていた稲わらが、やがてあたりまえのものとなっていったわけです。長野で作られた縄ない機が札幌で活躍するようになるまでの道筋を思うと、感慨深いものがありました。


この縄ない機を作ったワタヤ製作所ですが、
帰宅後に調べてみたら、長野県上田市で、
現在も企業として活躍していることがわかり、
たいへん驚きました。


株式会社綿谷製作所です。養蚕業の先進地帯であった長野県丸子町で、煮繭機、操糸機、一般機械器具製造の製造会社として、1935年(昭和10年)に設立されました。現在は、大型機械加工や産業用機械装置製造に携わっているそうです。(画像をお借りしました。)

日本の製造業は、すごいなあ…、と、しみじみ思いました。

屋外に設置されているものもありました。


まあ…、
だいたいおわかりかと思いますが、
MIYOが撮ったのは、
機械庫内部を俯瞰する写真一枚くらいで、
その他の写真は、全部、多動夫が
ウロチョロしながら撮りまくったものです。笑


私にとっては、
ちんぷんかんぷんな機械が多かったのですが、
夫の目にはおもしろかったようで、
写真だらけです。笑
こういうのが、
「違う視点」って言うのでしょうかね。😅


ちなみに、好き勝手に撮りまくった写真を、
ひとつひとつ調べて、
展示の順に並べ直して掲載したのは、
今回も、もちろん私です。
(タイヘンでした…。😂😂)



これで、農村群エリアで気になっていたふたつのスポットを掲載できました。^^


…ということで、元のお話に戻ります。
市街地群エリアを出て、山村群エリアへ。
再び、お山の中を分け入っていきます。笑


このときに、私たちが立てたプランです。市街地群エリアから青い矢印のように歩き、山村群エリアでまだ訪れていなかった3か所を見学したあと、再び、市街地群エリアに戻ります。右端の通りを直進しながら見学を続け、漁村群エリアに突入します。🤣🤣


こんなにウロウロと、だいじょうぶか?
と言われそうです。
ほんと、アホみたいだと、私も思います。


できるかぎり、すべてのスポットを見たい。
でも時間がない。
そして、いまだ手つかずで残っている、
漁村群エリア


実は、私たちがいちばん見たかった家は、
このエリアにあるのです。
「漁村群エリアを見ないで、
 帰るわけにはいかない。」
と悲壮な決意の、ノーテンキ夫婦でした。😅😅
はたしてこのとおりにできるのでしょうか。😅


とりあえず、山村群エリアにはいります。
プランにしたがって歩き、
市街地群エリアからいちばん近くにある、
旧札幌師範学校武道場
に行ったのですが…。


武道場のすぐ隣りにある、旧札幌農学校寄宿舎のりっぱな建物が見えてしまいました。


思わず、
ふらふらと寄宿舎の方に行こうとする夫。
その首根っこをつかまえて、
武道場へと進みます。🤣🤣


決めた順番の通りに歩かないとだめ!
 思いつきで歩くと、
 わけがわからなくなるでしょ!」


いや、ほんとうは私も、
武道場より寄宿舎の方が見たかったのです。😅
でも、残された時間は少なく、
タイトなスケジュールで歩いているのに、
気分で経路を変えると、時間のロスが出てきます。


…ということで、予定どおり、まずはこちらへ。旧札幌師範学校武道場です。


【旧札幌師範学校武道場】
1929年(昭和4年)、北海道教育大学札幌校の前身である北海道札幌師範学校の武道場として建設されました。入母屋造り、平入りの和風建築意匠を強調した木造平屋建ての建物で、剣道、柔道場として使用されましたが、戦後、1949年(昭和24年)からは、一時図書館として、その後は第二体育館として利用されました。


中は、普通の武道場が再現されています。現在も、柔道のけいこなどで使用されているようでした。


さて。
次はいよいよ、旧札幌農学校寄宿舎です。


「早く、早く。」と急ぎ足で前を行く夫。子どもみたいですね。🤣


(つづく)

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