MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
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コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 41 - 北海道開拓の村⑬(旧開拓使札幌本庁舎、旧田村家北誠館蚕種製造所)(2021年11月6日/4日め)

2021年11月6日 北海道開拓の村・旧田村家北誠館蚕種製造所で。(北海道札幌市)


11月6日(土)


白とピンクの色合いが美しい、旧浦河支庁庁舎。

その窓から見えた、美しい建物が…、

旧開拓使札幌本庁舎です。息をのむような美しさです。


【旧開拓使札幌本庁舎】
1869年(明治2年)、明治新政府は、草原と林におおわれた原野であった札幌を、北海道の政治の中心地とすることに決めました。新しいまちづくりのなかで、役所や学校、お雇い外国人教師の官舎などには西洋風の建築スタイルがとり入れられたため、札幌中心部はアメリカ東部の都市のような雰囲気になっていきました。そのシンボル的な建物として1873年(明治6年)に完成したのが、開拓使札幌本庁舎です。

建築された場所は、赤レンガ庁舎の名で親しまれている旧北海道庁本庁舎の北側でした。建築にあたっては、開拓使顧問ケプロンの構想に基づき、開拓使工業局営繕課が担当しました。建築の5年後に火災のため焼失しましたが、開拓の村では、建築当時の本庁舎を再現してあります。
現在、建物の内部には、総合案内・情報サービスコーナー、講堂、研修室があり、見学の事前事後の学習・休憩などに活用されています。


旧開拓使札幌本庁舎は、開拓の村の中でも、
ひときわ目をひく美しさでした。
残念ながら、このときは工事中で、
中に入ることができませんでした。
悔しいので(笑)、
夫があっちこっちウロウロして、
撮りまくった外観写真を、
一挙にご紹介します。笑



これで、馬車鉄道が敷かれているメインストリートの両側にある建物は、すべて見学し終わりました。市街地群エリアには、このほかにもまだ道路が2本あり、そこにも多数の家屋が建っているのですが、とりあえずここで一区切りとします。ここからは、市街地群エリアを出て、再び、山村群エリアに入っていくことにしました。


ということで、
舞台は山村群エリアに移ります。
…といいたいところなのですが、
実はずっと気になっていることがあります。


地図の右上、農村群エリアに、
 旧田村家北誠館蚕種製造所
 旧農商務省滝川種羊場機械庫

があるのですが、
私の記憶違いから、
この2か所を掲載しそこなってしまい、
そのままどんどん歩を進めてしまいました。


実はこの2か所は、農村群エリアに着いてから、
いちばん初めに行った場所でして、
そこから下へ下へと移動しながら、
見学を進めて行ったわけです。


順番が前後してしまいましたが、
市街地群エリアが一段落したのを機に、
ここで、この二つをご紹介したいと思います。
(ややこしくてスミマセン。)


馬車鉄道に乗って、舞台は再び農村群エリアに変わります。笑

終点に到着。

ここで、まずは旧ソーケシュオマベツ駅逓所に行き…、

つづいて旧岩間家農家住宅へ。岩間家は仙台藩の士族移民団として入植したため、家屋は仙台の建築様式で建てられたそうです。

そしてこのあとに、旧田村家北誠館蚕種製造所へと行ったんですね…。😅 左右に細長く伸びた建物でした。

正面玄関です。


【旧田村家北誠館蚕種製造所】
絹(糸)の原料になる蚕の卵(蚕種)をとる建物です。樺戸郡浦臼村で、養蚕伝習所の教師であった田村忠誠が、1901年(明治34年)から1905年(明治38年)にかけて建築しました。当時模範とされた東京蚕業試験場の蚕室を参考としたそうです。この製造所では、蚕種の製造販売を行うかたわら、多くの養蚕技術者を養成しました。


それでは、中に入ります。

内部には、通路に沿っていくつもの部屋があり、養蚕の作業風景が再現されていました。

蚕に食べさせるための桑を刻んでいるところです。

大きく育った蚕が見えます。

繭から生糸をとる作業です。

靴を脱いであがり、さらに奥へ奥へと進むと…、

そこには、たくさんの蚕棚が広がっていました。

いちばん奥の土間には、養蚕に関わる資料がたくさん展示されていて、さながら博物館のようでした。(そもそも開拓の村自体が、「野外博物館」という位置づけなのですが。笑)


何年も前に訪れた、
富岡製糸工場を思い出しました。
世界遺産となって一躍脚光をあびましたが、
このような蚕種製造所は、
製糸工場よりもさらに前の工程、
ということになります。
当時、日本の一大産業であった製糸業は、
このような蚕種製造所に支えられていた
ということを、初めて知りました。


日本の近代産業の礎となった、蚕種製造所。
その記録を今に伝える建物が、現在もひっそりと、
開拓の村に残されていました。


(つづく)

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