MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 8 - 小樽市鰊御殿⑧ 隠れ部屋と、田中福松邸復元図(2023年5月10日/1日め)

2023年5月10日 小樽市鰊御殿で。絶景に圧倒されました。(北海道小樽市)


5月10日(水)


小樽市鰊御殿で、2階を見学しています。


奥の客寝室には、隠れ部屋に通じる入り口がありました。4枚の襖を全部閉めると、ただの押し入れに見えるのですが…、

右側の2枚の襖を開けると、その奥にガラス戸があります。ここから先が「隠れ部屋」になっていました。

黄色い丸の部分が、隠れ部屋への通路です。


【隠れ部屋】
現在、ガラスになっている部分は、かつては押し入れの板壁でした。その一部が「ドンデン返し」の仕掛けになっていて、向こう側に出入りできるようになっていました。板壁の向こう側には、下方向に、約10平方メートルの広さの小部屋があり、「隠れ部屋」と呼ばれました。
この部屋については、網元と一部の家族しか知らず、大正末には使われることもなくなったので、どのように使用されていたかは謎とされています。が、以下のように推測されています。
①ニシン漁では、現金取引によって、巨額の販売代金を受け取るため、防犯対策としての現金保管場所とした。
②素性の良くない漁夫が酔って暴れた時に、網元や家族の避難場所とした。
③腕の良い漁夫を他所から引き抜くことがあった。その際、元漁場から漁夫を連れ戻しに来たときの隠し場所とした。
④ニシン漁が不漁の年に、借金取りが来たときの網元の隠れ場所とした。
⑤田中家番屋は急傾斜の崖の下に建っていたため、雪崩の危険性があった。太い柱や梁で守られているこの場所がいちばん強固だったので、雪崩の際の家族の避難場所とした。


さて。
どれが正解だったのでしょうね…。^^
とりあえず、
夫がガラス戸の奥に行ってみたのですが、
中はがらんどうで、
なにもなかったそうです…。
(なので、写真も撮っていません。)


「隠れ部屋」から戻ってきた夫。
「まあ、あまり見なくてもいいと思うよ。」
と言うので、MIYOは行きませんでした。😄


夫が隠れ部屋を探検しているあいだ、MIYOはここにいました。

あはは、座りこんで写真撮ってます。

このとき撮っていたのが、コレです。階段の手すりに描かれたコラージュ。手の込んだ模様です。

ここに描かれているのは、波と雲でしょうか。^^


これですべての部屋の見学が終わったので、
受付のある、漁夫用玄関に戻りました。


漁場に掲げられていた番屋々例。「昭和10年3月 青山漁場」とあります。「喧嘩口論賭博禁止」「みんな仲良く」「火の用心」…などと書かれていました。

これがそのまま手ぬぐいになって、販売されていました。^^


最後に、玄関近くに展示されていた、
一枚の写真を。


小樽に移築する前、泊村にあったころの田中福松邸の写真です。1991年から7年をかけ、1997年に竣工したそうです。ニシン漁に関する一連の建物が、ずらりと並んでいます。左から2番目の母屋から右に向かって、什器倉(石倉)、米倉、網蔵、神社、漬物倉と続き、右端にあるのが、巨大な船蔵です。

これを、大林組さんがきれいな絵にしてくださっているのを発見しました。
No.29「漁場」|大林組広報誌「季刊大林」|大林組


中央に母屋があり、そこから右方向に、
 什器倉(石倉)
 米倉
 神社
 漬物倉
と並んでいます。
手前には、
ニシンの釜炊き作業をする煙が上がり、
その右には、
広い廊下(ニシンの一時保管場所)
もあります。


そして、
そのさらに手前の海に設けられている、
入り江のようなものが、袋間です。
*袋間については、また別の機会に説明いたします。


絵には含まれていませんが、
この右側には、さらに、
 巨大な船蔵
そして米蔵の背後には
 網蔵
があったようで、
写真には、それらも写っています。


もう、見ているだけでワクワクします。
現代の「鰊盛業屛風」みたいな。😄
大林組さん、グッジョブです。


(つづく)


(おまけのお話)


小樽市鰊御殿の左半分を占めていた、
漁夫だまり。
その奥は、漁夫の寝部屋になっていました。


ロフト形式になっていて、そこに漁夫が布団を並べて寝ました。

ロフトの下部分は、ゆかりの品が展示されていて、博物館のようになっていました。

ロフトの上部分については、「漁夫寝室」というパネルがあるだけで、梯子もなく、MIYOはそのまま通り過ぎてしまいました。でも、多動夫が背伸びして、中をのぞいて写真も撮っていたのだそうです(アホ。笑)。その写真を、番外編として掲載しておきます。

うわ…。襖の奥に積み上げられた物品は、ゴミ捨て場状態。😅 「鰊 大漁祈願 海上安全」と墨書された棒は、横にされ、倒れそうな襖のつっかえ棒になっていました。

うーん…。もっこが打ち捨てられています。😅 状態がきれいなので、複製品かもしれません。でも、「山(へ)に十(やまじゅう)」って、青山家の屋号(印)では…?(ちなみにここは田中家)

…と思って、札幌・青山家漁家住宅の写真を調べてみたら、やっぱりそうでした。やまじゅうの印がついたもっこが並んでいます。(2021年11月6日 札幌市・旧青山家漁家住宅)

青山家漁家住宅に行ったときの日記はこちらです。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 47 - 北海道開拓の村⑲(旧青山家漁家住宅②文庫倉、石倉、板倉、米倉)/ Coke Onペイと今月のネイル(2021年11月6日/4日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


ちなみに、こちらは茨木家の女性用もっこです。口の中に米と書かれた「カクコメ」が、茨木家の印でした。(小樽市鰊御殿の中に展示されていました。)


小樽鰊御殿のロフトに放置されていた、
「やまじゅうのもっこ」は、
同じ小樽の青山貴賓館から寄贈されたもの
だったのでしょうか。
それとも、単なる複製品だったでしょうか。
(こんなところに放置しないで、ちゃんと展示してください。笑)


小樽市鰊御殿では、ここまで、
とてもきれいに整備された内部を
見学してきたので、
このロフト部分の荒れようには驚きました。


しかしながら、荒れ放題とはいえ、
横に延びている梁の立派なこと。
すごいですね。
このお屋敷に使った材木と同じ量で、
今なら30軒の家を
建てることができるそうです。^^

積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 7 - 小樽市鰊御殿⑦ 客間、客寝室、客控の間(2023年5月10日/1日め)

2023年5月10日 小樽市鰊御殿で。眺めのいい特等席でした。(北海道小樽市)


5月10日(水)


小樽市鰊御殿に来ています。
1階の見学を終えて、次は、
親方一家居住区の2階に上がりました。


1階の親方家族用の玄関隣りにある階段を上がって、2階に上がりました。昔の階段が急勾配のものが多いですが、ここには珍しく手すりがついていました。使い込まれているので、当初からついていたものかもしれません。


階段を上がるにつれて、
少しずつ、2階が見えてきました。
すると、大広間のいちばん向こうのすみに、
ちんまりと座っている夫が見えました。


「そんなとこに座りこんで何してるの?」と笑ったのですが…、

夫がそこに座っている理由に、MIYOはまだ気づいていません。笑

「うしろ、見てみ。」と言われてふりかえってみて、絶句。祝津の海が広がっています。

この広間の2面が全部窓になっていて、そこから、すばらしい景色が見えていました。

この客間は、ゴールデンカムイ5巻第40話「ニシン御殿」でも描かれています。

夫のマネして、MIYOも同じ位置に座ってみました。


夫がすみっこに座り込んでいた、
その理由がようやくわかりました。
この位置から見える景色が、
いちばんきれいなのです。


すごいです…。


この鰊御殿は、約130年前に、
積丹半島の泊村に建てられたものですが、
泊村でも、海に面していました。
なので、やはり美しい海や山が見えたはず。
こんな景色を、親方は、
わがものにしていたのですね…。


ニシン漁で莫大な富を築いた者だけが
手にすることができた眺めでした。


これが現在の小樽市鰊御殿(赤い屋根の家)です。番屋といえば海岸沿いに決まっているのに、「なんでこんな丘の上に移築したのだろう…。」と不思議に思っていました。(画像をお借りしました)


この2階に来てみて、
本来は海岸沿いにあるはずのニシン番屋を
わざわざ丘の上に移築した理由が、
ようやくわかりました。


2階からのこの絶景を、最も堪能できる場所として、祝津の丘の上を選んだのですね…。^^


しばらく、この場所に座りこんでいたのですが、
次にMIYOが言ったことばは、
「なんかさ。星野リゾートみたいだね。」
でした。(アホ)


はげしく場違いなのですが、私も夫も、
一年前に行った、
「星野リゾート 界 ポロト」
を思い出していました。😄😄


「星野リゾート 界 ポロト」です。スイートルームですが、dポイントを利用して、なんと無料で泊まりました。😄(2022年6月20日 北海道白老郡白老町)

リビングルームの2面が窓で、ポロト湖が一望できました。

窓から見えた景色です。絵葉書の写真ではありません。

このときの日記です。
コロナでもポロト湖。星野リゾート 界 ポロト スイートを無料で楽しむ 4 - ちむどんどんの71㎡(2022年6月20日/4日め)


界 ポロトには、一泊しただけです。
たった一泊でも、
あの、夢のように楽しかったひとときは、
今も忘れられません。


田中福松親方は、
鰊御殿2階から、美しい海や山を、
毎日見ていたんだなあ…。


今の私と同じところに座って、
ただぼんやりと海を眺めていた日が、
親方にもあったかもしれません。



この2階部分。
かつては、客間、客寝室、客控の間と、
3つの部屋に分かれていました。


現在は、3部屋の間の襖が取り払われ、大広間として見学できるようになっています。

手前が客間で、奥にあるのが客寝室です。

客間には、違い棚や床の間が設けられています。

床の間の木彫りです。

天袋に描かれている牡丹は、山田東洋の作です。


【山田東洋】
1865年(慶応元年)、新潟県柏崎市に生まれ、1946年(昭和21年)に81歳で死去しました。父は書画家・茶人の山田鏡古。15歳で上京し、東洋洋画学校で高橋由子 一に学びました。1900年(明治33年)、33歳で北海道へ渡り、40年間画道に励みました。得意とした朱達磨で知られ、火事災難除けの達磨として一般に受け入れられました。


さて、実はこの2階部分には、
「隠れ部屋」なるものがありました。
次回は、そのエリアをご紹介します。


(つづく)

積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 6 - 小樽市鰊御殿⑥ 3つの茶の間、酒部屋、仏間、そして親方夫婦の部屋(2023年5月10日/1日め)

2023年5月10日 小樽市鰊御殿で。MIYOが立っているところは、親方夫婦の居間(10畳)でした。(北海道小樽市)


5月10日(水)


帳場の隣りにある、茶の間に行きました。


写真のいちばん手前の部屋です。かつてはここに囲炉裏があったのですが、現在は取り払われ、代わりに火鉢が置いてありました。鴨居の上に黒く見えているのは、神棚です。

茶の間の上部に造られた、りっぱな神棚です。


【鰊御殿の神棚】
積丹郡鰊漁場親方である斎藤彦三郎氏が、越後の宮大工に製作させた、総檜造りのお堂です。北海道の開拓期には、鰊豊漁祈願のための神仏祈願が非常に熱心に行われました。各鰊場の親方も、競ってこのような神棚を安置し、盛大なお祭りを行いました。神棚のなかには、当時数千金を投じた豪華なものもありました。


神棚の左隣りに置かれていた、弓張りちょうちん入箱。網元の結婚式や初詣、お墓参りなどの式日や客人の迎え入れに使用するちょうちんを入れて保管しました。(この箱は青山家のものでした。)

弓張りちょうちんとは、竹を弓のように曲げ、提灯をその上下にひっかけて張り開くようにしたちょうちんのことです。

続いて、酒部屋と主人夫婦の部屋です。

奥が酒部屋だったのですが、今はリフォームされて、ふつうの和室になっています。そして手前が主人夫婦の部屋です。意外と狭い、6畳間でした。

主人夫婦の部屋には、この押し入れがあるだけです。

その隣りにある仏間は、主人夫婦の部屋よりもずっと広くて立派でした。

奥にある部屋が仏間です。書院造で、10畳もの広さです。(手前の着物がかかっている部6畳間は、主人夫婦の部屋です。)

案内パネルの向こう側をご覧ください。左が主人夫婦の部屋で、右が仏間です。主人夫婦の部屋は、着物がかかっているだけの幅しかありません。対して仏間には、押し入れと床の間が並んでいます。あまりの違いに笑ってしまいました。

仏間です。床の間には、書院が付いています。

書院には、美しい組子障子が設えてありました。

最後は、主人夫婦の居間と家族の茶の間です。

手前が家族の茶の間で、奥が主人夫婦の居間でした。

MIYOが立っている部分が親方夫婦の居間です。その右側(着物がかけてあるところ)が、親方夫婦の部屋。そしてこの居間の左側には…、

親方家族用の玄関がありました。(三和土には、なぜか、ニシンを炊く大釜が展示してあります。笑)


ここまで、親方家族の居住エリアで、
7つの部屋が並ぶ大広間と玄関を
ご紹介しました。


廊下は玄関前と縁側にあるのみで、
各部屋をつなぐ廊下などはないため、
部屋の移動をするときは、
他の部屋を横切ることもあったと思います。
自分のいる部屋に、
誰がいつ入ってくるかわからないという、
プライバシーのないレイアウトですが、笑
ただひとつだけ、
誰も入ってくることがない部屋があります。
それは、「主人夫婦の部屋」です。
そういう意味では、
狭くてもいちばんいい部屋が、
「主人夫婦の部屋」だったのかもしれません。


【鰊御殿とその主・田中福松】
明治~大正年間、積丹半島を中心に後志沿岸一帯はニシン漁の全盛期を迎え、数多くの豪勢なニシン漁舎が建てられました。小樽市鰊御殿もそのうちのひとつで、1897年(明治30年)に、田中家が莫大な費用と心意気をかけて建てたものでした。
その主・田中福松は、1854年(安政元年)、17歳のときに、青森県東津軽郡から叔父を頼って北海道に渡りました。当初は雇漁夫(ヤン衆)として働きましたが、その後、場所(漁場)を買い請け、明治中期には、積丹地方の代表的な漁業主になりました。


一階部分のいちばん奥には、階段がありました。親方家族用の玄関の隣りにあたります。

この階段は、二階の客間に続いています。ちなみに、階段の左側に少し見えているのは、親方家族用の便所です。残念ながら立ち入り禁止になっていて、中を見ることはできませんでした。


次回は、鰊御殿の2階部分を歩きます。


(つづく)

積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 5 - 小樽市鰊御殿⑤ 帳場と漁場風俗人形(2023年5月10日/1日め)

2023年5月10日 小樽市鰊御殿で。目の前には、祝津の海が広がっていました。(北海道小樽市)


5月10日(月)


小樽市鰊御殿に来ています。


ここまでは、一階左半分(ヤン衆たちの居住エリア)を歩きました。次は右半分の、親方一家の居住エリアを見ていきます。

玄関部分から見わたした、親方エリアです。7つの和室が続く、大広間になっています。写真には6部屋しか写っていませんが、手前右側にもう一部屋あり、そこが帳場になっています。

これは、親方エリアの図面です。まずは、玄関の隣りにある、帳場から見て行きます。

帳場です。ふたつの玄関(親方用とヤン衆用)の間にあります。

ぐるっと反対側にまわって・・・、

ここに座れば、番頭さんの気分です。笑 この部屋には、窓以外の3面すべてに出入り口がありました。

帳場からは、こんなふうに屋敷の中が見渡せました。

「漁場風俗人形」と題した、ガラスケースがありました。ニシン漁が華やかなりし頃の、漁場で働く人たちの風俗(服装)を再現した人形が、びっしりと納められています。(1960年に、小樽市菅原多恵子さんから寄贈されました。)

ニシンの陸揚げをする、もっこ背負いの女性たちです。着物はもちろんですが、前掛け、手ぬぐい、襦袢、帯など、ふたりとして同じ服装の人がいません。ひとつひとつを丁寧に作っておられることがわかります。(陸揚げとは、汲み舟からポンタモですくってもっこに入れたニシンを、船間から廊下などに背負って運ぶ作業です。)

船の中で腰かけた女性のもっこに、漁夫がニシンをすくって入れています。

タモや綱を持って働くヤン衆たち。

ニシンつぶしです。(ニシンつぶしとは、身欠ニシンを製造するために、ニシンの腹を裂いて、内臓、数の子、白子、エラを除去する作業のことを言います。)
ニシンつぶしについて書いた日記です。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 92 - 旧余市福原漁場⑤ 石倉(ニシンつぶしと漁の終焉)(2021年11月13日/11日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

ニシンつぶしの作業は、ふたり一組になって行われました。ニシンをつぶす作業に徹する「つぶし方」と補助役の「つなぎ方」です。ここでは、つぶし方がつぶしたニシンを、つなぎ方が縄でつないでいるシーンが描かれています。

ニシンつぶしで取り出した白子やカズノコです。ほんと、芸が細かい。笑


今から60年も前にこの人形を作り、
寄贈された、菅原多恵子さん。
その丁寧な仕事に、頭が下がりました。


(つづく)

積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 4 - 小樽市鰊御殿④ 小さなもっこ(2023年5月10日/1日め)

2023年5月10日 鰊御殿で、たくさんのもっこたちと。(北海道小樽市)


5月10日(水)


囲炉裏がある漁夫だまりを見学しています。


ニシン漁を再現した模型がありました。

これ、とってもわかりやすくて、MIYOは大喜び。笑

ニシン漁のしくみが、たいへんわかりやすく説明されていました。下図のように、ニシン漁では、いくつもの船がまとまり、それぞれの役割をこなしています。


【魚の習性と網】
魚には、障害物があると沖に向かって泳ぐという習性があります。ニシン漁は、この習性を利用しています。まずは磯から沖に向けて、約300mの手編み(垣網)を張ります。この網に反応して、沖に向かって泳ぐニシンを、身網の中に誘い込んで捕獲しました。


①起船
漁は、身網を張る起船から始まります。この船には、大船頭、起船船頭、人夫まわしを含めて、10名以上のヤン衆が乗り込みます。ニシンの群来が起こるまで、彼らは船で寝泊まりして待ち続けます。
②磯船(口引船)
網のチェックをしたり、他の船の補助をします。磯船船頭2名が乗り込みます。
③枠船
身網に追い込まれたニシンを袋網に移します。枠船船頭と下船頭の2名が乗り込みます。

④袋伝馬
ニシンを移し替えた袋網を、袋澗(ふくろま)まで運びます。袋澗とは、ニシンを一時的に保管する施設のことを言います。替枠船頭ら3名が乗り込みます。

⑤伝馬船
1名が乗り、沖合の船に不足資材や食料を運びました。残った食料は、連続作業時の間食用となりました。


そして漁夫だまりの隣りには、
「漁夫寝部屋」がありました。


「漁夫寝部屋」はロフトのようになっていて、「寝台(ねだい)」とも呼ばれていました。

漁夫寝部屋の、ロフトの下にあたる部分です。かつてヤン衆たちがふとんを並べて寝ていた場所には、ニシン漁に関するものがところせましと並べられていました。

ひとつひとつを、ゆっくりと見て歩きました。


ここまでは、
これまでにもよく見た光景です。
でもここには、
今までに見たことがない物がありました。


ニシンを背負って運んだ、もっこです。いや、もっこが珍しいのではなく、驚いたのは、その手前に置かれた、小さなもっこです。

左は、女性用のもっこ。そして右が、男性用のもっこです。その手前にある小さなもっこは、子ども用のもっこでした。大人用と比べると、その小ささに驚きます。何歳くらいで背負ったのでしょうか。

「子どももっこ。容積0.6~2kg」と書いてあります。


子ども用のもっこ…。
なんとかわいらしい。😄
少しばかりのニシンを入れて、
2キロほどのもっこを背負った子どもが、
母ちゃんのあとをついて歩いたんですね…。


これは、幼児労働とか、虐待とか、
そう言ったものとは意味合いが違うと思います。
ニシンの群来が起こると、
大量のニシンが陸揚げされます。
そのニシンを、限られた時間にできるだけ多く、
運ばなければなりませんでした。
そのため、集落の者は全員が駆り出されました。
学校は休みになり、教師や生徒はもちろん、
さらには寺の僧侶までが、
もっこを背負ってニシンを運んだそうです。


集落全体がニシンで沸き返る中、
小さな子どもたちも、
大人と同じことをやりたかったのでしょう。
そんな子どもたちのために、大人たちは、
わざわざ子どももっこを
作ったのではないでしょうか…。


わずかなニシンを入れた小さなもっこを背負い、
大人たちといっしょに、ニシンを運ぶ子どもたち。
子どもたちはきっと、うれしかったと思います。
「自分は、大人と同じことができるんだ。」
と感じた子どもたちの、うれしそうな顔。
誇らしげな表情が、目に浮かぶようでした。


これまでに、いくつもの番屋を訪れましたが、
子ども用のもっこが置いてあったのは、
この小樽市鰊御殿だけでした。
小さなもっこからは、
泊村の人々が子どもたちに向けた
暖かいまなざしが感じられました。


使い込まれた、大人用のもっこ。内側には、ニシンのうろこが今も残っています。

かわいらしいもっこたちと。

もっこの隣りには、丸胴と角胴が置かれていました。鍋で煮たニシンを搾るための圧搾機です。圧搾機は、当初は角胴(右)でしたが、後に丸胴(左)が使われるようになりました。後に、丸胴はさらに改良されて、金属製になります。
ニシンの加工工程については、こちらでご紹介しています。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 104 - よいち水産博物館③ もっこ背負いからニシン粕の出荷まで(2021年11月13日/11日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

「粕くだき」です。ニシンを圧搾したあとの〆粕の粉砕器です。ある程度細かくした粕玉を入れ、ハンドルを回して砕きました。

手前の台にも、たくさん並んでいます。

万棒(まんぼ)です。もっこでニシンを運んだ回数や出荷した加工製品の数を把握するために使用した木札です。

「漁夫寝部屋」を利用した展示エリアは、ここで終わります。

ここから、2階に通じる階段を上がりました。

2階部分です。この部屋は、建築当時は屋根裏でした。大正5年に梁4本を取り除き、使用人部屋として使うようになりました。現在はガラスで保護されていて、中に入ることはできません。

この屋根裏には、巨大な梁がふんだんに使われています。

部屋の中には、当時の生活用具や衣類が展示されていました。中央には、クマの毛皮が見えます。クマの毛皮は、ニシン場の親方や船頭が好んで着用したものでした。展示されている毛皮は、安政の頃(1850年頃)から田中家の代々の当主(親方)が着用したものです。


これで、小樽市鰊御殿の左半分、
ヤン衆エリアの見学が終わりました。
次回からは、
右半分(親方の居住エリア)を見ていきます。


(つづく)