MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 13 - 一年前ですが、旧茨木家中出張番屋③ / 葉とらずりんごジャムと嶽きみバター(2022年6月18日/2日め)

2022年6月18日 旧茨木家中出張番屋で。(北海道小樽市)


6月18日(土)


旧茨木家中出張番屋では、Iさんから、
ニシン漁のこと、北前船のことなど、
ていねいな説明をしていただきました。
それはもう、ワクワクするような
ひとときでした。^^



かつてニシンで沸いた小樽ならではの、
貴重な写真がたくさん展示してあったので、
ここに掲載させていただきます。


①汲み揚げ:大タモをあおって、枠船から汲み船へとニシンを汲む作業です。

②もっこ背負い:汲み船からもっこで背負い、ニシンを前浜へ揚げる作業です。

③納坪(なつぼ)へ:もっこ背負いがからだをかがめ、背中のニシンを仮置き場に落としているところです。

④ニシンつぶし:身欠きニシンを作るため、エラや内臓を除き、数の子と白子に分ける作業です。

⑤白子干し:ニシンから取り出した白子は、はじめは簾(すだれ)で干し、生乾きになったら筵(むしろ)に広げて干しました。

⑥身欠き木架(なや):ニシンつぶしが終わった後の身欠きニシンの干し場です。十数日ほど乾燥させます。

⑦粕炊(かすだき)釜場:ニシン粕を作るため、釜でニシンを煮る作業です。この後、角胴で圧搾します。

⑧粕玉(角胴で圧搾されたあとの漁粕):角胴をはずして、粕玉を取り出しているところです。

⑨粕玉:角胴から取り出した粕玉は、この後、細かく刻まれ、ムシロの上で天日干しにしました。


これまで、余市福原漁場などの遺構を訪れ、
当時の建造物をいくつも見てきましたが、
一連の作業をリアルに伝える写真の数々を、
ここで見せていただいたことで、
自分の中でのニシン漁場のイメージが、さらに、
生き生きとしたものになったような気がします。
余市福原漁場を訪れたときの日記です。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 88 - 旧余市福原漁場① 網倉(2021年11月13日/11日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


ニシンが肥料になるまでの、一連の流れです。(大林組季刊誌より)

北海道産ニシン魚肥は、日本海航路を経由して北陸・瀬戸内・畿内に運ばれました。19世紀後半には、日本で最大の販売肥料として、日本の農業を支えました。北海道から遠く離れた倉敷には、今も「ニシン蔵」が残されているそうです。(画像をお借りしました)

そして、この北海道産ニシン魚肥こそが、北前船の最大の積み荷でした。一度の航海で現在の数億円分を稼いだとも言われています。


海を駆けた男たちの、一攫千金物語。
…とでもいいましょうか。
莫大な富をもたらした、
ニシン漁と北前船。


彼らが活躍した100年あまりの年月は、
まるで、夜空に打ち上げられた
壮大な花火のようです。
そしてその花火は、
やがてあっけなく消えてしまい、
二度と戻ってくることはありませんでした。


小樽近郊で、明治20年ごろには9万トンものニシンが水揚げされましたが、昭和27年を最後に、ニシンは獲れなくなりました。


その原因は、明確にされていませんが、
私は、長年続いた乱獲だったと思っています。


かつてのアイヌ民族のように、
「自分が食べる分だけを獲る」
という生き方をしていれば、
ニシンが消えてしまうということも
なかったのかもしれません。


煮て絞って、その粕を干して全国にばらまく。
…なんてことをやっていれば、
いくら広い北海道であろうと、
ニシンは枯渇してしまいますよね…。😔


長男の桜まつり出演におっかけしたあと、イオン多摩平の森店に並べられていた、ニシンの塩焼き(398円)。人間もこういうのを食べるくらいにしておけばよかったのに…と思うと、ニシンに申し訳ない気持ちになりました。😅(2023年4月1日)

「桜まつり」の日記はこちらです。
全盲難聴・のんたん 4年ぶりの「桜まつり」で演奏しました。①(2023年4月1日) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


ボランティアのIさんといっしょに。


Iさん手作りの資料だらけだった、
旧茨木家中出張番屋。
Iさんの、番屋や北前船に寄せる思いが、
伝わってきました。
リタイア後をどう生きるかと考えた時、
必ず思い出すのが、Iさんとの出会いです。


(つづく)


(おまけのお話)


最近食べてみておいしかったものの
お話です。


2022年11月の青森旅行で訪れた、
津軽藩ねぷた村


見事な山車と津軽三味線の演奏を堪能しました。(2022年11月8日 青森県弘前市)


この旅行で買ってきたものを、
大事にしまってあったのですが、
最近になって、
ようやくいただいています。笑
それがとてもおいしかったので、
ご紹介します。


さすが青森県。ねぷた村のお土産コーナーには、りんごジャムだけで、いったい何種類あるのかわからないくらい、いろんなのが置いてありました。

MIYOが買ったのは、写真右の「葉とらずりんごジャム」。いや、理由はありません。なんとなく、「葉とらず」って言葉にひかれただけです。笑


【葉とらずりんご】
秋を迎え、りんごの実が赤くなる頃に行われるのが、「葉摘み」と呼ばれる作業です。果実の周囲に繁る葉を摘むことで、果実全体に日光が当たるようになり、果実の表面がむらなく赤く色付きます。
この葉摘みを行わずに、いわば自然の状態で果実を熟させたのが、「葉とらずりんご」です。「葉とらず」りんごは、太陽の光をたっぷり浴びた葉が作りだす養分を十分に蓄えるため、「葉摘み」したりんごよりさらに美味しくなります。りんごの表面に葉の影が残るため、一般的なりんごよりも外観は劣ることがありますが、それこそが、本来の美味しさのシンボルです。「葉とらずりんご」ならではの、豊かで芳醇な甘さを味わうことができます。


これ、ずっとしまってあったのですが、
最近、朝食のパンに塗ってみたら、
もう、それはそれはおいしいのです。
お砂糖控えめなのに、しっかりした甘み。^^
次に青森に行ったら、
絶対にまた買いたいと思います。


あっという間に葉とらずりんごジャムを食べきってしまって、次に開けたのが、嶽きみバター。


【嶽きみ(だけきみ)】
青森県産のとっても甘いブランドとうもろこしの名前です。津軽弁では、とうもろこしを「きみ」と呼びます。 「とうもろこし」から「とうきび」、「きび」と変化し、「きみ」となったと言われています。青森県弘前市の西部にある、津軽富士ともいわれる「岩木山(いわきさん)」。その麓、標高400~500メートルにある「嶽(だけ)高原」で栽培、収穫されたとうもろこしだけを「嶽きみ(だけきみ)」と呼びます。
とうもろこしは、気温が暖かくなると糖度が減少していきます。そこで、「嶽きみ」は収穫時間にもこだわり、最も糖度が高い早朝に収穫しています。採れたての「嶽きみ」の糖度は、18度以上。メロンなどの果実並み、もしくはそれ以上の甘さです。生でも食べられるこの甘さ、プチプチした弾ける食感とジューシーさは、やみつきになること間違いなしです。


青森に行って初めて知った、
「嶽きみ」
居酒屋で食べたらおいしかったので、
そのバターを買ってみました。


バターの中にとうもろこしの粒が入っているのかと思ったら、すっかりペースト状にされ、ふんわりとした食感のスプレッドになっていました。笑


嶽きみバター、おいしかったです!
「葉とらずりんご」も「嶽きみバター」も、
青森に行かなかったら、
出会えなかったおいしさでした。


普段、旅先では、あまり物を買わないのですが、
このときは、「青森県おでかけクーポン」
たくさんありました。
(おかげで、タダでゲットできました。笑)


旅行支援でいただいた、青森県おでかけクーポン。


クーポンのおかげで、
このときはタダでいただきましたが、
次に青森に行ったら、
お金を払って買って帰ると思います。


良いお品に出会えました。
ありがとうございました。(→旅行支援)

積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 12 - 一年前ですが、旧茨木家中出張番屋②(2022年6月18日/2日め)

2022年6月18日 旧茨木家中出張番屋で。(北海道小樽市)


6月18日(月)


旧茨木家中出張番屋のつづきです。


住民と行政が協力して、美しく蘇った、旧茨木家中出張番屋です。

ここまでは、玄関を入って左側の、漁夫だまりを見てきました。

次は、右側のエリアに行ってみます。

こちらには、畳が敷かれています。

玄関から入ってすぐの部屋は板の間で、囲炉裏が切ってあります。

鴨居に設けられた神棚。

このエリアでは、囲炉裏の部屋を囲むように、さらに5つの部屋が並んでいました。

3つの板の間と3つの和室が並んで作られています。

隣りの部屋(板の間)に設けられた囲炉裏です。

3つ並んだ和室です。座敷部分には棹縁(さおぶち)天井を張り、鴨居を設けています。この左側に、板の間が3つ並んでいます。


本来は、この右側部分が、
親方一家の居住エリアになるのですが、
この番屋では、なにか雰囲気が違います。


簡素な和室が3つ並んでいるだけで、
いかにも親方が住んでいたらしい部分が
見当たりません。
囲炉裏がふたつもあるうえ、
玄関を入ってすぐのところに
台所が設えてあるのも、奇異な感じです。
(通常の番屋では、台所は、
 漁夫だまりのさらに奥にあります。)


これが、この旧茨木家中出張番屋が、
他の番屋と基本的に違う点なのです。


中出張番屋の「中出張」という呼称は、
他の番屋にはありません。
「中」は、番屋の番号のようなものです。
そして「出張」は、
支店とか出張所のような意味があります。


多くの番屋では、内部を右と左に分け、
親方(網元)が漁夫たちと
同じ屋根の下で住み分けています。
が、茨木家の親方は、ここに住みませんでした。
この近くに本邸を構え、
家族と一緒にそちらに住んだのだそうです。


そのため、このエリアは、
親方の居住エリアとして使われず、
他の漁場の支配人などが出張して来るときに、
使用する場所となっていました。


板の間と和室がペアになったものが
3セットあり、
3人の出張者が同時に使い分けていた、
と考えれば、わかりやすいですね。^^


【茨木與八郎】
1841年(天保12年)、現在の山形県遊佐町で生まれました。1860年(万延元年)から、祝津の鱈釣や石狩川の鮭漁の漁夫となり、やがて独立しました。1877年(明治10年)には、ニシン漁場を入手して建網漁を始めます。その後も堅実な経営で事業を拡張。札幌や比布などに土地を購入して農業も営み、二代目与八郎のころには、造船業や倉庫業にも進出しました。
現在も、旧日本郵船小樽支店の前には、かつての茨木家の倉庫があります。また、札幌と定山渓を結んだ定山渓鉄道には、「北茨木駅」がありました(昭和8年から昭和32年)。これは、茨木家の農地の一部を寄付したことによるものでした。


小樽市に今も残る、旧茨木倉庫です。札幌軟石を使っています。1898年(明治31年)年に、茨木与八郎によって建てられました。(画像をお借りしました)

これは反対側から見たところです。2023年5月の旅で撮りました。(2023年5月12日)

こちらは、旧茨木家中出張番屋の天井部分にめぐらされた、太い梁です。板の間部分には天井を張らず、小屋組がそのまま見えます。

上棟の記録が、今も残されていました。明治43年6月5日とあります。

これは網倉の屋根瓦でした。祝津御三家と言われた青山家、白鳥家、茨木家のひとり、青山留吉が所有していた網倉の屋根に使用されていたものです。「明治21年大比田浦(現在の福井県敦賀市)」と刻印されており、北前船で運ばれてきたものと思われます。

旧茨木家中出張番屋にかけられていた、船絵馬です。北前船が描かれています。


【船絵馬】
船の安全を祈願して、船主や船頭は、自分の船を描いた船絵馬を神社などに奉納しました。ここに展示してある船絵馬は、かつて恵美須神社に奉納されたもので、日本遺産「北前船」の構成文化財となっています。


そしてこの出張者用エリアにも、Iさん心づくしの資料が置かれていました。これは、この番屋が登場する、「ゴールデンカムイ」の第5巻と第6巻です。わざわざ、付箋をつけてあります。^^

第5巻で登場した「小樽市鰊御殿」から数十キロ離れた別の番屋、という設定ですが、実はすぐ近くです。笑 外観はどう見ても旧茨木家中出張番屋。囲炉裏のある板の間と和室が描かれています。

Iさんから、ひとつひとつの資料について、丁寧に説明していただきました。話は尽きません。^^


北前船が大好きなIさん。
この番屋によせる思いに、頭が下がりました。


(つづく)

積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 11 - 一年前ですが、旧茨木家中出張番屋①(2022年6月18日/2日め)

2022年6月18日 積丹半島・神威岬で。(北海道積丹町神岬町)


5月10日(水)


期せずして、
小樽市・番屋通りに来てしまいました。


かつての名だたる番屋が建ち並ぶ、番屋通りです。


右端から、
 日和山灯台
 小樽市鰊御殿(旧田中家番屋)
 旧近江家番屋
 旧白鳥家番屋
…と見てきました。


地図の順番からいくと、次は、
恵美須神社の隣りにある、
 旧茨木家中出張番屋
ということになります。


が、このときは、
茨木家の前を通っただけで、
中には入りませんでした。
その理由は、2022年6月の旅で、
旧茨木家中出張番屋を訪れているからです。
(すでに閉館時間になっていたので、
 今回は入りたくても入れなかったのですが。笑)


一年前に小樽を訪れたときは、
「番屋通り」のことなど知らなかったので、
この茨木家だけに行って、
それで満足して帰ってしまいました。
付近には、番屋がゴロゴロしていたというのに。
今思うと、もったいないことをしました。笑


そのときの日記は、
まだブログに書けていません。😅
でも、番屋通りの順に、
3つの番屋のことを書いてしまうと、
次はやっぱり、
 旧茨木家中出張番屋
…ですよね。


そして、ここで書かなければ、
この番屋の日記を、
いったいいつ書けるだろうか、
という気持ちもあります。
(たぶん永久にムリのような…。😅)


なので、2023年5月の旅からは、
ちょっとずれてしまうのですが、
ここで、以前訪れた、
 旧茨木家中出張番屋
の日記を、書いておこうと思います。



話は、今からちょうど一年前になります。
北海道5回目の旅は、
2022年6月17日から21日(4泊5日)で、
旧茨木家中出張番屋を訪ねたのは、
旅の2日め、6月18日でした。


6月18日(土)


この日の目的地は
旧茨木家中出張番屋
だったのですが、
前日、急に思いたって、朝から、
積丹半島に行ってしまいました。


午前中は積丹半島で遊び、

神威岬のいちばん端にある灯台まで歩きました。

「奇跡の生ウニ丼 赤」を死ぬほど食べて…。(2022年6月18日 三代目岩太郎丸直営うに処 田村岩太郎商店)
*積丹半島のウニ漁は6月から8月のみです。行くなら今です!😄


さんざん遊びまくっていたので、
旧茨木家中出張番屋に着いたときには、
午後3時を大きく過ぎていました。


旧茨木家中出張番屋です。


【茨木家中出張番屋】
北海道の日本海沿岸に見られる典型的なニシン番屋です。小樽市祝津の3大網元(白鳥、青山、茨木)のひとつである茨木家の初代当主・茨木與八郎(山形県遊佐町出身)が、明治期に漁夫の住宅として建てた物でした。祝津ニシン漁場の歴史的まちなみを形成する重要な建物のひとつです。
近年、腐朽が進み崩壊寸前でしたが、所有者はもちろん、町民や行政・関係業界・関係機関の尽力により、2010年に修復されました。2011年には、第19回小樽市都市景観賞を受賞しています。


「ゴールデンカムイの番屋」とあります。そう、この番屋も、ゴールデンカムイに登場するのです。^^

玄関を入ります。玄関の両脇に見えるフチ飾りは、「持送り(もちおくり)」と言うものだそうです。

玄関を入ると、正面にかまどがあります。その左側の板の間が漁夫だまり。

そして右側は、畳が敷かれたエリアです。玄関部分を境に、左右にエリアを分けているのは、これまでに見てきた番屋と同じです。

まずは、漁夫だまりを見て行きました。奥に、漁夫達が布団を敷いて寝た、寝台(ネダイ)が見えます。


漁夫だまりは、どこの番屋も同じように、
広い板の間になっています。


が、ここで驚いたのは、漁夫だまりの壁を埋め尽くすように置かれた、たくさんの資料と大漁旗でした。

そして、左手にびっしりと並べられた、たくさんのパネル…。ボランティアのIさんが、かつて、北前船にゆかりのある地を訪ねて全国を歩き、撮り続けた写真の数々です。すばらしいコレクションでした。

Iさんの思いがつまった資料のひとつひとつを見て行きました。

その資料のひとつです。「北前船がつないだ小樽と倉敷(ニシンと綿花)」。右は、倉敷に今も残るニシン蔵です。(画像をお借りしました)


【北前船がつないだ小樽と倉敷(ニシンと綿花)】
北前船の週着地であった北海道。明治なかば、北海道全体でニシンの漁獲高は90万トン以上ありましたが、そのうち9万トンが、小樽市内での漁獲でした。その9割は、食用ではなく、肥料に加工されました。ニシンを大釜でゆでたあと、プレスして油や水分を除いた「〆粕」は、栄養価が高く、日持ちもしたため、西日本を中心に高値で取引されました。
そのなかでも、倉敷を中心とした瀬戸内の綿花栽培には、大量のニシンが用いられました。その綿花から作られた帆は、北前船の安全性を高めました。現在も、倉敷市下津井地区には、「ニシン蔵」が残されています。


ニシンを煮た釜です。やはり、植木鉢にしてはいけないと思います…。(→旧白鳥家番屋)

「北前船がつなぐ小樽と加賀」という資料もありました。^^ その後ろに置いてあるのは、「こまざらい(こまざらえ)」という道具です。

ニシンの粕玉をムシロの上で裂いたあとは、早く乾燥させるために、1日に数回、粕をかき混ぜました。こまざらいは、そのかき混ぜ作業の時に使われたものです。びっしりとついた、ニシンのウロコをご覧ください。^^

按配棒:枠網に入っているニシンを汲み船にすくい揚げるときに使う大タモを、枠船側から押し上げる棒です。木製の2~3mほどの棒で、先端が二股になっています。
ヤサ鉤(かぎ):汲み船にニシンの入った大だもを引き上げるときに使用します。木製の1mほどの棒で、先端がかぎになっています。

もっこも、ウロコだらけです。


「これ、ニシンのウロコですよね?
 当時のウロコが、今も残ってるんですか?」
と感動しているMIYOに、
「ニシンのウロコっていうのはね。
 なかなか落ちないんですよ。」
と、笑っておられたIさんのことを、
今もなつかしく思い出します。


北前船が大好きだというIさん。ヤン衆たちが使っていたネダイには、今は、北前船が飾られていました。


【北前船(弁財船)】
江戸時代中期から明治30年代にかけて、主に大阪~北海道間を日本経由で航行した帆船。北海道からの最大の積み荷は、ニシン魚肥などの海産物でした。


Iさんの思いがたくさんつまっていた、
旧茨木家中出張番屋。
まさに、「手作りの資料館」のようでした。


(つづく)

積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 10 - 旧近江家番屋と旧白鳥家番屋(2023年5月10日/1日め)

2023年5月10日 小樽市鰊御殿で。窓ガラスの向こう側には、美しい祝津の海が広がっていました。(北海道小樽市)


5月10日(月)


鰊御殿からの美しい景色を堪能して、
帰路につきました。


灯台と鰊御殿があるだけの丘を、のんびりと下ります。(画像をお借りしました)

実は、この丘の反対側には、おたる水族館があります。ショータイムには、にぎやかなアナウンスが漏れ聞こえていました。(現在、小樽市鰊御殿の管理運営は、このおたる水族館が行っているそうです。)

丘の麓まで下りて見上げた、鰊御殿。これでお別れです。

…と思ったら、いきなり目の前に現れた、廃墟のような建物。

むくり破風の玄関と、屋根に設けられたケムリダシ。どう見ても番屋です。それも、ずいぶん前に空き家になったようです。


ここで思い出したのが、2022年6月に、
ここ小樽を訪れた時のことです。


このときは、茨木家中出張番屋(いばらぎけなかでばりばんや)を訪ねました。(2022年6月18日 北海道小樽市)


【茨木家中出張番屋】
北海道の日本海沿岸に見られる典型的なニシン番屋です。小樽市祝津の3大網元(白鳥、青山、茨木)のひとつである茨木家が明治期に漁夫の住宅として建てた物で、祝津ニシン漁場の歴史的まちなみを形成する重要な建物のひとつです。
近年、腐朽が進み崩壊寸前でしたが、所有者はもちろん、町民や行政・関係業界・関係機関の尽力により、2010年に修復されました。2011年には、第19回小樽市都市景観賞を受賞しています。


公務員をリタイア後、ここでボランティアをしておられる、Iさんと。とても熱心に説明してくださいました。


このとき、Iさんから、
「このあたりは『番屋通り』と言って、
 通り沿いに、
 たくさんの番屋が並んでるんですよ。」
と、おしえていただきました。


その話を聞いて、
「いつか、その番屋通りを歩いてみたい。」
とMIYOは言ったのですが、
多動夫はなぜか、そのときのことを
全然覚えていないそうです。(←アホ)


でも、期せずして、このときの私たちは、
どうやらその番屋通りに来ていたようでした。


茨木家中出張番屋で、Iさんから見せていただいた地図です。帰宅してから、この地図を調べてみました。


この地図によると、
いちばん右に日和山灯台があり、
そのとなりに、たった今訪れたばかりの
小樽市鰊御殿(旧田中家番屋)
があります。
さらにその麓には、
旧近江家番屋という文字が見えます。


ここでようやく、
私たちの前に突然現れた廃墟のような建物が、
旧近江家番屋であることがわかりました。


荒れるにまかせているかのように見えた、旧近江家番屋。


【旧近江家番屋】
明治初期の建築です。切妻屋根に方形形式のケムリダシを冠した外観で、祝津でもっとも古い番屋の形を伝えています。正面は南を向き、中央部のむくり破風の玄関を入ると、土間があり、その左側が親方家族のための座敷で、右側が漁夫の寝床になっています。漁夫用の室内は天井が無く、小屋組みが露出した吹抜けで、その構造は梁が対角に架かる珍しい作りになっています。


すぐ上にある鰊御殿とは雲泥の差です。
こちらも貴重な歴史的建造物なのだから、
こうして放置しておくのは、
あまりに残念な気がしました。
(おそらく、市に寄贈されることなく、
 個人所有のままなのではないかと…。)


さらに車を走らせると、
すぐに、別の番屋が見えてきました。


こちらは、旧白鳥家番屋です。


【旧白鳥家番屋】
小樽市祝津は、北海道における初期漁村集落の様子を伝える貴重な地区です。海岸沿いにニシン漁家の住宅、番屋、倉庫などが建ち並び、丘には神社があります。なかでも白鳥家番屋は、小樽市祝津の3大網元(白鳥、青山、茨木)のひとつである白鳥家が明治10年代に建てたもので、主人と漁夫の住居部分が大屋根で一体になっているという、特徴的な造りになっています。主人の住まいには、床の間や欄間を設け、和風住宅の様相を呈しています。漁夫の寝床は、吹き抜けに巡らされていました。1995年(平成7年)から、料理店に再利用された時期もありましたが、現在は、「通常は公開していない歴史的建造物」として管理されており、特別なイベントのある時に合わせて一般公開されているようです。(小樽市指定歴史的建造物)


…ということで、このときは、
残念ながら非公開となっていました。
が、車を降りて、周囲を歩いてみました。


屋根のケムリダシは、ニシン番屋でよく見られるものです。

向かって右側の玄関。

左側の玄関。


どちらの玄関も良く似ているので、
どちらが親方用だったのか、
よくわかりませんでした。


強いて言うなら、
右側の玄関には石段があるので、
こちらが親方用でしょうか…?😅


軒下には、きれいな細工(持送り)が施されていました。

出窓の下にも、持送りが施されています。かつては装飾が美しい建物だったと思われます。

玄関まわりをじっくりと見るMIYO。一方多動夫は、番屋の周囲をぐるぐると歩いておりました。これは側面から見たところです。あらら、よく見ると、ニシン釜が植木鉢になっています。いいのかな…。😅

中にも入ってみたかったけど、非公開なので仕方ありません。


【白鳥喜四郎・白鳥永作】
白鳥喜四郎は、1819年(文政2年)に箱館で生まれました。1848年(嘉永)頃、祝津で場所請負人から漁場を拝借し、ニシン建網を試み、1858年(安政5年)に、箱館奉行所より、建て網使用の許可を得ました。1874年(明治7年)、本間永作を養子に迎えました。
白鳥永作は、1882年(明治15年)に、高島・祝津両村の総代に就任。1889年(明治22年)頃には、全道で建網28ヵ統を数えました。その妻・千代子は、1920年(大正9年)、祝津村へ水道施設を寄付。翌年、地域住民によって、記念碑が建てられました。
白鳥家の別邸(明治42年築)は小樽市中心部にあり、近年まで「キャバレー現代」として利用されていました。平成24年に解体されましたが、その石蔵は、蕎麦屋「籔半(やぶはん)」の店舗の一部として、現在も使用されています。


外観を見られただけでもよし、と思い、
車に戻りました。
次に小樽に行ったときは、ぜひ、
「藪半」でお蕎麦を食べたいと思います。😄


行政によって美しく整備された、
 小樽市鰊御殿(旧田中家番屋)
 旧白鳥家番屋
を見ていると、つい先ほど見た、
 旧近江家番屋
の荒れ様が気になりました。


歴史的建造物というのは、
どれほど貴重なものであっても、
なにもしなければ消えていくのだと、
このときに思いました。


行政や住民が一体となって、
多額の費用と手間をかけ、
修繕・管理を続けていかないと、
保存し続けることはできないのだと、
あらためて教えられた思いでした。


(つづく)

積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 9 - 小樽市鰊御殿⑨ 日和山灯台とカモメ(2023年5月10日/1日め)

2023年5月10日 小樽市鰊御殿で。岬のいちばん先のところで、MIYOが手をふっています。笑(北海道小樽市)


5月10日(月)


小樽市鰊御殿に来ています。
屋敷内の見学を終え、外に出ました。
ここからは、屋敷の周囲を歩いてみます。


岬の崖っぷちに建つ鰊御殿。右側に小さな鳥居があり、その先の崖近くまで歩いていくことができます。(画像をお借りしました)

右側面から見た鰊御殿です。左手前にある、白くて小さな家のようなものは、親方一家用の便所でした。(現在、中には入ることはできません。)

ここは岬の先端になっていて、鳥居も建っています。豊漁や海上安全を願うニシン漁家では、りっぱな神社や神棚を設えているところが多いです。

鳥居と祠があるところから見た、鰊御殿です。屋敷の裏側は崖になっています。

ここからさらに少し高くなった丘の上に、灯台が見えました。

雁が、並んで飛んでいます。^^


この灯台を見るやいなや、多動夫、
「オレ、あの灯台まで行ってくるから。」
ですと。🤣🤣


まあ、期待を裏切らない人です。
きっとそう言うだろうと思ってました。😁
ご苦労なこった、と思いながら、
「どうぞ。私は行かないからね。」
と…。


MIYOは、岬の端にひとり残って、祝津の美しい海を堪能しました。穏やかな海と、雪が残る山々。最高です。^^

岬の先端で、柵のすぐ手前のところに立ち、カモメが来るのを待ちました。遠くの方には、雁がたくさん飛んでいるのですが、カモメは警戒しているのか、MIYOの近くには、なかなか来てくれません。

一方、わっしわっしと、灯台へ向かって上がり続ける多動夫。(注:この崖をよじ登ったわけではありません。😅)

鰊御殿を見下ろす位置まで来たようです。

灯台まで、あともう少し。

到着しました。日和山灯台です。


【日和山灯台】
小樽港の玄関口にある灯台で、1883年(明治16年)に木造六角形で設置されました。その後1953年(昭和28年)に、コンクリート製になりました。1957年(昭和32年)には、灯台職員を主人公にした映画「喜びも悲しみも幾年月」のロケに使われています。2018年(平成30年)、文部科学省が認定する「北前船」日本遺産構成文化財のひとつに認定されました。


同じ「日和山」「木造六角形」で思い出したのが、山形県酒田市の日和山公園です。ここには日本最古の灯台があります。木造六角形なので、小樽の初代日和山灯台も、こんな形をしていたのかもしれません。(2022年11月30日 山形県酒田市)


【酒田の木造六角灯台】
1895年(明治28年)、最上川河口の宮野浦に、洋式木造六角灯台が建てられました。高さ12.8メートル、一辺の長さ約3メートル、光源は最初が石油ランプ、1919年(大正8年)からはアセチレンガス灯、そして、1923年(大正12年)、大浜に移転して2年後に、電化点灯式となりました。が、1958年(昭和33年)に近代式灯台が完成して、木造六角灯台は使われなくなりました。現在は、対岸の日和山公園内に移転し、保存されています。
日本最初の洋式灯台は、1869年(明治2年)の神奈川県観音崎灯台ですが、木造灯台として残っているものとしては、この灯台が最古のものと言われています。「六角の平面を持つ木造の燈台」として、たいへん貴重なものです。


このときは、日和山公園にある、千石船(北前船)を見に行ったのですが…、(画像をお借りしました)
*この北前船は、実物の2分の1の大きさで再現されたものです。

私たちが行ったとき、酒田はすでに冬支度に入っていて、せっかくの北前船はカバーで覆われていました。泣

大雨の中を歩いた、日和山公園(アホ)。でも、こんなのもまた、楽しい思い出です。^^

さて、話は小樽・祝津に戻ります。多動夫が、日和山灯台から見下ろした景色です。

「おおおおーい。」という声にふりむくと、灯台の前で、多動夫が手を振っていました。🤣

MIYOも、岬の先端で手をふりました。(のんきな夫婦です。笑)

待ち続けた、カモメが来ました。

会心の、一枚。


MIYOのすぐ近くまで
飛んできてくれた、カモメ。
大きく翼を広げて、
そして、どんどん遠ざかっていきました。


(つづく)