MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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ベトナム家族旅行:
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積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 6 - 小樽市鰊御殿⑥ 3つの茶の間、酒部屋、仏間、そして親方夫婦の部屋(2023年5月10日/1日め)

2023年5月10日 小樽市鰊御殿で。MIYOが立っているところは、親方夫婦の居間(10畳)でした。(北海道小樽市)


5月10日(水)


帳場の隣りにある、茶の間に行きました。


写真のいちばん手前の部屋です。かつてはここに囲炉裏があったのですが、現在は取り払われ、代わりに火鉢が置いてありました。鴨居の上に黒く見えているのは、神棚です。

茶の間の上部に造られた、りっぱな神棚です。


【鰊御殿の神棚】
積丹郡鰊漁場親方である斎藤彦三郎氏が、越後の宮大工に製作させた、総檜造りのお堂です。北海道の開拓期には、鰊豊漁祈願のための神仏祈願が非常に熱心に行われました。各鰊場の親方も、競ってこのような神棚を安置し、盛大なお祭りを行いました。神棚のなかには、当時数千金を投じた豪華なものもありました。


神棚の左隣りに置かれていた、弓張りちょうちん入箱。網元の結婚式や初詣、お墓参りなどの式日や客人の迎え入れに使用するちょうちんを入れて保管しました。(この箱は青山家のものでした。)

弓張りちょうちんとは、竹を弓のように曲げ、提灯をその上下にひっかけて張り開くようにしたちょうちんのことです。

続いて、酒部屋と主人夫婦の部屋です。

奥が酒部屋だったのですが、今はリフォームされて、ふつうの和室になっています。そして手前が主人夫婦の部屋です。意外と狭い、6畳間でした。

主人夫婦の部屋には、この押し入れがあるだけです。

その隣りにある仏間は、主人夫婦の部屋よりもずっと広くて立派でした。

奥にある部屋が仏間です。書院造で、10畳もの広さです。(手前の着物がかかっている部6畳間は、主人夫婦の部屋です。)

案内パネルの向こう側をご覧ください。左が主人夫婦の部屋で、右が仏間です。主人夫婦の部屋は、着物がかかっているだけの幅しかありません。対して仏間には、押し入れと床の間が並んでいます。あまりの違いに笑ってしまいました。

仏間です。床の間には、書院が付いています。

書院には、美しい組子障子が設えてありました。

最後は、主人夫婦の居間と家族の茶の間です。

手前が家族の茶の間で、奥が主人夫婦の居間でした。

MIYOが立っている部分が親方夫婦の居間です。その右側(着物がかけてあるところ)が、親方夫婦の部屋。そしてこの居間の左側には…、

親方家族用の玄関がありました。(三和土には、なぜか、ニシンを炊く大釜が展示してあります。笑)


ここまで、親方家族の居住エリアで、
7つの部屋が並ぶ大広間と玄関を
ご紹介しました。


廊下は玄関前と縁側にあるのみで、
各部屋をつなぐ廊下などはないため、
部屋の移動をするときは、
他の部屋を横切ることもあったと思います。
自分のいる部屋に、
誰がいつ入ってくるかわからないという、
プライバシーのないレイアウトですが、笑
ただひとつだけ、
誰も入ってくることがない部屋があります。
それは、「主人夫婦の部屋」です。
そういう意味では、
狭くてもいちばんいい部屋が、
「主人夫婦の部屋」だったのかもしれません。


【鰊御殿とその主・田中福松】
明治~大正年間、積丹半島を中心に後志沿岸一帯はニシン漁の全盛期を迎え、数多くの豪勢なニシン漁舎が建てられました。小樽市鰊御殿もそのうちのひとつで、1897年(明治30年)に、田中家が莫大な費用と心意気をかけて建てたものでした。
その主・田中福松は、1854年(安政元年)、17歳のときに、青森県東津軽郡から叔父を頼って北海道に渡りました。当初は雇漁夫(ヤン衆)として働きましたが、その後、場所(漁場)を買い請け、明治中期には、積丹地方の代表的な漁業主になりました。


一階部分のいちばん奥には、階段がありました。親方家族用の玄関の隣りにあたります。

この階段は、二階の客間に続いています。ちなみに、階段の左側に少し見えているのは、親方家族用の便所です。残念ながら立ち入り禁止になっていて、中を見ることはできませんでした。


次回は、鰊御殿の2階部分を歩きます。


(つづく)

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