積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 4 - 小樽市鰊御殿④ 小さなもっこ(2023年5月10日/1日め)
(2023/06/01 18:00記)
2023年5月10日 鰊御殿で、たくさんのもっこたちと。(北海道小樽市)
5月10日(水)
囲炉裏がある漁夫だまりを見学しています。
ニシン漁を再現した模型がありました。
これ、とってもわかりやすくて、MIYOは大喜び。笑
ニシン漁のしくみが、たいへんわかりやすく説明されていました。下図のように、ニシン漁では、いくつもの船がまとまり、それぞれの役割をこなしています。
【魚の習性と網】
魚には、障害物があると沖に向かって泳ぐという習性があります。ニシン漁は、この習性を利用しています。まずは磯から沖に向けて、約300mの手編み(垣網)を張ります。この網に反応して、沖に向かって泳ぐニシンを、身網の中に誘い込んで捕獲しました。
①起船
漁は、身網を張る起船から始まります。この船には、大船頭、起船船頭、人夫まわしを含めて、10名以上のヤン衆が乗り込みます。ニシンの群来が起こるまで、彼らは船で寝泊まりして待ち続けます。
②磯船(口引船)
網のチェックをしたり、他の船の補助をします。磯船船頭2名が乗り込みます。
③枠船
身網に追い込まれたニシンを袋網に移します。枠船船頭と下船頭の2名が乗り込みます。
④袋伝馬
ニシンを移し替えた袋網を、袋澗(ふくろま)まで運びます。袋澗とは、ニシンを一時的に保管する施設のことを言います。替枠船頭ら3名が乗り込みます。
⑤伝馬船
1名が乗り、沖合の船に不足資材や食料を運びました。残った食料は、連続作業時の間食用となりました。
そして漁夫だまりの隣りには、
「漁夫寝部屋」がありました。
「漁夫寝部屋」はロフトのようになっていて、「寝台(ねだい)」とも呼ばれていました。
漁夫寝部屋の、ロフトの下にあたる部分です。かつてヤン衆たちがふとんを並べて寝ていた場所には、ニシン漁に関するものがところせましと並べられていました。
ひとつひとつを、ゆっくりと見て歩きました。
ここまでは、
これまでにもよく見た光景です。
でもここには、
今までに見たことがない物がありました。
ニシンを背負って運んだ、もっこです。いや、もっこが珍しいのではなく、驚いたのは、その手前に置かれた、小さなもっこです。
左は、女性用のもっこ。そして右が、男性用のもっこです。その手前にある小さなもっこは、子ども用のもっこでした。大人用と比べると、その小ささに驚きます。何歳くらいで背負ったのでしょうか。
「子どももっこ。容積0.6~2kg」と書いてあります。
子ども用のもっこ…。
なんとかわいらしい。😄
少しばかりのニシンを入れて、
2キロほどのもっこを背負った子どもが、
母ちゃんのあとをついて歩いたんですね…。
これは、幼児労働とか、虐待とか、
そう言ったものとは意味合いが違うと思います。
ニシンの群来が起こると、
大量のニシンが陸揚げされます。
そのニシンを、限られた時間にできるだけ多く、
運ばなければなりませんでした。
そのため、集落の者は全員が駆り出されました。
学校は休みになり、教師や生徒はもちろん、
さらには寺の僧侶までが、
もっこを背負ってニシンを運んだそうです。
集落全体がニシンで沸き返る中、
小さな子どもたちも、
大人と同じことをやりたかったのでしょう。
そんな子どもたちのために、大人たちは、
わざわざ子どももっこを
作ったのではないでしょうか…。
わずかなニシンを入れた小さなもっこを背負い、
大人たちといっしょに、ニシンを運ぶ子どもたち。
子どもたちはきっと、うれしかったと思います。
「自分は、大人と同じことができるんだ。」
と感じた子どもたちの、うれしそうな顔。
誇らしげな表情が、目に浮かぶようでした。
これまでに、いくつもの番屋を訪れましたが、
子ども用のもっこが置いてあったのは、
この小樽市鰊御殿だけでした。
小さなもっこからは、
泊村の人々が子どもたちに向けた
暖かいまなざしが感じられました。
使い込まれた、大人用のもっこ。内側には、ニシンのうろこが今も残っています。
かわいらしいもっこたちと。
もっこの隣りには、丸胴と角胴が置かれていました。鍋で煮たニシンを搾るための圧搾機です。圧搾機は、当初は角胴(右)でしたが、後に丸胴(左)が使われるようになりました。後に、丸胴はさらに改良されて、金属製になります。
ニシンの加工工程については、こちらでご紹介しています。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 104 - よいち水産博物館③ もっこ背負いからニシン粕の出荷まで(2021年11月13日/11日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。
「粕くだき」です。ニシンを圧搾したあとの〆粕の粉砕器です。ある程度細かくした粕玉を入れ、ハンドルを回して砕きました。
手前の台にも、たくさん並んでいます。
万棒(まんぼ)です。もっこでニシンを運んだ回数や出荷した加工製品の数を把握するために使用した木札です。
「漁夫寝部屋」を利用した展示エリアは、ここで終わります。
ここから、2階に通じる階段を上がりました。
2階部分です。この部屋は、建築当時は屋根裏でした。大正5年に梁4本を取り除き、使用人部屋として使うようになりました。現在はガラスで保護されていて、中に入ることはできません。
この屋根裏には、巨大な梁がふんだんに使われています。
部屋の中には、当時の生活用具や衣類が展示されていました。中央には、クマの毛皮が見えます。クマの毛皮は、ニシン場の親方や船頭が好んで着用したものでした。展示されている毛皮は、安政の頃(1850年頃)から田中家の代々の当主(親方)が着用したものです。
これで、小樽市鰊御殿の左半分、
ヤン衆エリアの見学が終わりました。
次回からは、
右半分(親方の居住エリア)を見ていきます。
(つづく)























