MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
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積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 11 - 一年前ですが、旧茨木家中出張番屋①(2022年6月18日/2日め)

2022年6月18日 積丹半島・神威岬で。(北海道積丹町神岬町)


5月10日(水)


期せずして、
小樽市・番屋通りに来てしまいました。


かつての名だたる番屋が建ち並ぶ、番屋通りです。


右端から、
 日和山灯台
 小樽市鰊御殿(旧田中家番屋)
 旧近江家番屋
 旧白鳥家番屋
…と見てきました。


地図の順番からいくと、次は、
恵美須神社の隣りにある、
 旧茨木家中出張番屋
ということになります。


が、このときは、
茨木家の前を通っただけで、
中には入りませんでした。
その理由は、2022年6月の旅で、
旧茨木家中出張番屋を訪れているからです。
(すでに閉館時間になっていたので、
 今回は入りたくても入れなかったのですが。笑)


一年前に小樽を訪れたときは、
「番屋通り」のことなど知らなかったので、
この茨木家だけに行って、
それで満足して帰ってしまいました。
付近には、番屋がゴロゴロしていたというのに。
今思うと、もったいないことをしました。笑


そのときの日記は、
まだブログに書けていません。😅
でも、番屋通りの順に、
3つの番屋のことを書いてしまうと、
次はやっぱり、
 旧茨木家中出張番屋
…ですよね。


そして、ここで書かなければ、
この番屋の日記を、
いったいいつ書けるだろうか、
という気持ちもあります。
(たぶん永久にムリのような…。😅)


なので、2023年5月の旅からは、
ちょっとずれてしまうのですが、
ここで、以前訪れた、
 旧茨木家中出張番屋
の日記を、書いておこうと思います。



話は、今からちょうど一年前になります。
北海道5回目の旅は、
2022年6月17日から21日(4泊5日)で、
旧茨木家中出張番屋を訪ねたのは、
旅の2日め、6月18日でした。


6月18日(土)


この日の目的地は
旧茨木家中出張番屋
だったのですが、
前日、急に思いたって、朝から、
積丹半島に行ってしまいました。


午前中は積丹半島で遊び、

神威岬のいちばん端にある灯台まで歩きました。

「奇跡の生ウニ丼 赤」を死ぬほど食べて…。(2022年6月18日 三代目岩太郎丸直営うに処 田村岩太郎商店)
*積丹半島のウニ漁は6月から8月のみです。行くなら今です!😄


さんざん遊びまくっていたので、
旧茨木家中出張番屋に着いたときには、
午後3時を大きく過ぎていました。


旧茨木家中出張番屋です。


【茨木家中出張番屋】
北海道の日本海沿岸に見られる典型的なニシン番屋です。小樽市祝津の3大網元(白鳥、青山、茨木)のひとつである茨木家の初代当主・茨木與八郎(山形県遊佐町出身)が、明治期に漁夫の住宅として建てた物でした。祝津ニシン漁場の歴史的まちなみを形成する重要な建物のひとつです。
近年、腐朽が進み崩壊寸前でしたが、所有者はもちろん、町民や行政・関係業界・関係機関の尽力により、2010年に修復されました。2011年には、第19回小樽市都市景観賞を受賞しています。


「ゴールデンカムイの番屋」とあります。そう、この番屋も、ゴールデンカムイに登場するのです。^^

玄関を入ります。玄関の両脇に見えるフチ飾りは、「持送り(もちおくり)」と言うものだそうです。

玄関を入ると、正面にかまどがあります。その左側の板の間が漁夫だまり。

そして右側は、畳が敷かれたエリアです。玄関部分を境に、左右にエリアを分けているのは、これまでに見てきた番屋と同じです。

まずは、漁夫だまりを見て行きました。奥に、漁夫達が布団を敷いて寝た、寝台(ネダイ)が見えます。


漁夫だまりは、どこの番屋も同じように、
広い板の間になっています。


が、ここで驚いたのは、漁夫だまりの壁を埋め尽くすように置かれた、たくさんの資料と大漁旗でした。

そして、左手にびっしりと並べられた、たくさんのパネル…。ボランティアのIさんが、かつて、北前船にゆかりのある地を訪ねて全国を歩き、撮り続けた写真の数々です。すばらしいコレクションでした。

Iさんの思いがつまった資料のひとつひとつを見て行きました。

その資料のひとつです。「北前船がつないだ小樽と倉敷(ニシンと綿花)」。右は、倉敷に今も残るニシン蔵です。(画像をお借りしました)


【北前船がつないだ小樽と倉敷(ニシンと綿花)】
北前船の週着地であった北海道。明治なかば、北海道全体でニシンの漁獲高は90万トン以上ありましたが、そのうち9万トンが、小樽市内での漁獲でした。その9割は、食用ではなく、肥料に加工されました。ニシンを大釜でゆでたあと、プレスして油や水分を除いた「〆粕」は、栄養価が高く、日持ちもしたため、西日本を中心に高値で取引されました。
そのなかでも、倉敷を中心とした瀬戸内の綿花栽培には、大量のニシンが用いられました。その綿花から作られた帆は、北前船の安全性を高めました。現在も、倉敷市下津井地区には、「ニシン蔵」が残されています。


ニシンを煮た釜です。やはり、植木鉢にしてはいけないと思います…。(→旧白鳥家番屋)

「北前船がつなぐ小樽と加賀」という資料もありました。^^ その後ろに置いてあるのは、「こまざらい(こまざらえ)」という道具です。

ニシンの粕玉をムシロの上で裂いたあとは、早く乾燥させるために、1日に数回、粕をかき混ぜました。こまざらいは、そのかき混ぜ作業の時に使われたものです。びっしりとついた、ニシンのウロコをご覧ください。^^

按配棒:枠網に入っているニシンを汲み船にすくい揚げるときに使う大タモを、枠船側から押し上げる棒です。木製の2~3mほどの棒で、先端が二股になっています。
ヤサ鉤(かぎ):汲み船にニシンの入った大だもを引き上げるときに使用します。木製の1mほどの棒で、先端がかぎになっています。

もっこも、ウロコだらけです。


「これ、ニシンのウロコですよね?
 当時のウロコが、今も残ってるんですか?」
と感動しているMIYOに、
「ニシンのウロコっていうのはね。
 なかなか落ちないんですよ。」
と、笑っておられたIさんのことを、
今もなつかしく思い出します。


北前船が大好きだというIさん。ヤン衆たちが使っていたネダイには、今は、北前船が飾られていました。


【北前船(弁財船)】
江戸時代中期から明治30年代にかけて、主に大阪~北海道間を日本経由で航行した帆船。北海道からの最大の積み荷は、ニシン魚肥などの海産物でした。


Iさんの思いがたくさんつまっていた、
旧茨木家中出張番屋。
まさに、「手作りの資料館」のようでした。


(つづく)

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