積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、9泊10日の北海道 10 - 旧近江家番屋と旧白鳥家番屋(2023年5月10日/1日め)
2023年5月10日 小樽市鰊御殿で。窓ガラスの向こう側には、美しい祝津の海が広がっていました。(北海道小樽市)
5月10日(月)
鰊御殿からの美しい景色を堪能して、
帰路につきました。
灯台と鰊御殿があるだけの丘を、のんびりと下ります。(画像をお借りしました)
実は、この丘の反対側には、おたる水族館があります。ショータイムには、にぎやかなアナウンスが漏れ聞こえていました。(現在、小樽市鰊御殿の管理運営は、このおたる水族館が行っているそうです。)
丘の麓まで下りて見上げた、鰊御殿。これでお別れです。
…と思ったら、いきなり目の前に現れた、廃墟のような建物。
むくり破風の玄関と、屋根に設けられたケムリダシ。どう見ても番屋です。それも、ずいぶん前に空き家になったようです。
ここで思い出したのが、2022年6月に、
ここ小樽を訪れた時のことです。
このときは、茨木家中出張番屋(いばらぎけなかでばりばんや)を訪ねました。(2022年6月18日 北海道小樽市)
【茨木家中出張番屋】
北海道の日本海沿岸に見られる典型的なニシン番屋です。小樽市祝津の3大網元(白鳥、青山、茨木)のひとつである茨木家が明治期に漁夫の住宅として建てた物で、祝津ニシン漁場の歴史的まちなみを形成する重要な建物のひとつです。
近年、腐朽が進み崩壊寸前でしたが、所有者はもちろん、町民や行政・関係業界・関係機関の尽力により、2010年に修復されました。2011年には、第19回小樽市都市景観賞を受賞しています。
公務員をリタイア後、ここでボランティアをしておられる、Iさんと。とても熱心に説明してくださいました。
このとき、Iさんから、
「このあたりは『番屋通り』と言って、
通り沿いに、
たくさんの番屋が並んでるんですよ。」
と、おしえていただきました。
その話を聞いて、
「いつか、その番屋通りを歩いてみたい。」
とMIYOは言ったのですが、
多動夫はなぜか、そのときのことを
全然覚えていないそうです。(←アホ)
でも、期せずして、このときの私たちは、
どうやらその番屋通りに来ていたようでした。
茨木家中出張番屋で、Iさんから見せていただいた地図です。帰宅してから、この地図を調べてみました。
この地図によると、
いちばん右に日和山灯台があり、
そのとなりに、たった今訪れたばかりの
小樽市鰊御殿(旧田中家番屋)
があります。
さらにその麓には、
旧近江家番屋という文字が見えます。
ここでようやく、
私たちの前に突然現れた廃墟のような建物が、
旧近江家番屋であることがわかりました。
荒れるにまかせているかのように見えた、旧近江家番屋。
【旧近江家番屋】
明治初期の建築です。切妻屋根に方形形式のケムリダシを冠した外観で、祝津でもっとも古い番屋の形を伝えています。正面は南を向き、中央部のむくり破風の玄関を入ると、土間があり、その左側が親方家族のための座敷で、右側が漁夫の寝床になっています。漁夫用の室内は天井が無く、小屋組みが露出した吹抜けで、その構造は梁が対角に架かる珍しい作りになっています。
すぐ上にある鰊御殿とは雲泥の差です。
こちらも貴重な歴史的建造物なのだから、
こうして放置しておくのは、
あまりに残念な気がしました。
(おそらく、市に寄贈されることなく、
個人所有のままなのではないかと…。)
さらに車を走らせると、
すぐに、別の番屋が見えてきました。
こちらは、旧白鳥家番屋です。
【旧白鳥家番屋】
小樽市祝津は、北海道における初期漁村集落の様子を伝える貴重な地区です。海岸沿いにニシン漁家の住宅、番屋、倉庫などが建ち並び、丘には神社があります。なかでも白鳥家番屋は、小樽市祝津の3大網元(白鳥、青山、茨木)のひとつである白鳥家が明治10年代に建てたもので、主人と漁夫の住居部分が大屋根で一体になっているという、特徴的な造りになっています。主人の住まいには、床の間や欄間を設け、和風住宅の様相を呈しています。漁夫の寝床は、吹き抜けに巡らされていました。1995年(平成7年)から、料理店に再利用された時期もありましたが、現在は、「通常は公開していない歴史的建造物」として管理されており、特別なイベントのある時に合わせて一般公開されているようです。(小樽市指定歴史的建造物)
…ということで、このときは、
残念ながら非公開となっていました。
が、車を降りて、周囲を歩いてみました。
屋根のケムリダシは、ニシン番屋でよく見られるものです。
向かって右側の玄関。
左側の玄関。
どちらの玄関も良く似ているので、
どちらが親方用だったのか、
よくわかりませんでした。
強いて言うなら、
右側の玄関には石段があるので、
こちらが親方用でしょうか…?😅
軒下には、きれいな細工(持送り)が施されていました。
出窓の下にも、持送りが施されています。かつては装飾が美しい建物だったと思われます。
玄関まわりをじっくりと見るMIYO。一方多動夫は、番屋の周囲をぐるぐると歩いておりました。これは側面から見たところです。あらら、よく見ると、ニシン釜が植木鉢になっています。いいのかな…。😅
中にも入ってみたかったけど、非公開なので仕方ありません。
【白鳥喜四郎・白鳥永作】
白鳥喜四郎は、1819年(文政2年)に箱館で生まれました。1848年(嘉永)頃、祝津で場所請負人から漁場を拝借し、ニシン建網を試み、1858年(安政5年)に、箱館奉行所より、建て網使用の許可を得ました。1874年(明治7年)、本間永作を養子に迎えました。
白鳥永作は、1882年(明治15年)に、高島・祝津両村の総代に就任。1889年(明治22年)頃には、全道で建網28ヵ統を数えました。その妻・千代子は、1920年(大正9年)、祝津村へ水道施設を寄付。翌年、地域住民によって、記念碑が建てられました。
白鳥家の別邸(明治42年築)は小樽市中心部にあり、近年まで「キャバレー現代」として利用されていました。平成24年に解体されましたが、その石蔵は、蕎麦屋「籔半(やぶはん)」の店舗の一部として、現在も使用されています。
外観を見られただけでもよし、と思い、
車に戻りました。
次に小樽に行ったときは、ぜひ、
「藪半」でお蕎麦を食べたいと思います。😄
行政によって美しく整備された、
小樽市鰊御殿(旧田中家番屋)
旧白鳥家番屋
を見ていると、つい先ほど見た、
旧近江家番屋
の荒れ様が気になりました。
歴史的建造物というのは、
どれほど貴重なものであっても、
なにもしなければ消えていくのだと、
このときに思いました。
行政や住民が一体となって、
多額の費用と手間をかけ、
修繕・管理を続けていかないと、
保存し続けることはできないのだと、
あらためて教えられた思いでした。
(つづく)