MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 18 - 旧花田家番屋③(台所、棚部屋、親方の部屋、帳場)(2022年6月19日/3日め)

(2022/08/13 17:00記)

2022年6月19日 旧花田家番屋。親方の部屋からは、漁夫だまりが一望できました。(北海道留萌郡小平町)


6月19日(日)


旧花田家番屋に来ています。
次は、漁夫だまりの奥にある、
台所の方に行ってみました。


漁夫だまりのすぐ隣りが台所です。お鍋からよそった食事をここで受け取り、漁夫だまりで食べたのかもしれません。

漁夫だまりの向こう側は土間で、そこは広い台所スペースになっていました。いちばん右端は、臼や杵、蒸籠などの大きな道具の置き場だったようです。

そのとなりです。井戸のようですが、蛇口がついていますね。

そして4口のかまどです。200人の漁夫、職人、近隣からの手間取りを含めると、最盛期には、この家の使用人は500人を超えたと言われています。彼らの食事を一手にまかなったのが、このかまどでした。(番屋の解体修理時に復元されました。)

その奥には、様々な食器や鍋が収納されていました。ここは「棚部屋」と呼ばれました。


【棚部屋】
壁面に棚が設えられているので、棚部屋と呼ばれました。棚部屋には、沖に出ている漁夫たちにおにぎりをつめて届ける「沖おひつ」や漬物を運ぶ「岡持(漬け菜入れ)」、番屋で食事をとる漁夫が使う、正方形の「漁夫のお膳」を収納しています。さらに、床下には、12俵(720㎏)のお米を収める「米びつ」がありました。


沖おひつや岡持などが並んでいます。

漁夫用お膳。番屋にいるヤン衆が食事をするときに使用しました。

この床下が米びつになっていました。


【床下の米びつ】
床下には、約720キロの米を収納できました。しかし、番屋には、漁夫のほかに多数の手間取り(近隣から稼ぎに来る日雇いの人)が、もっこ背負いやニシンの加工などに従事していたため、720キロの米は3日で底をついたそうです。
漁場で働く漁夫は、ひとりあたり一日に約1キロの米を消費していたと言います。米の消費量の多さは、漁夫達の労働の過酷さと共に、大量の米を買い集めることができた花田家の財力を物語っています。それらはすべて、ニシン漁から得る莫大な利益に支えられていました。


玄関を入ってすぐのところにある、「にわ」です。つきあたりが台所で、その左に棚部屋があります。そして、手前には、食事用の飯台が並んでいました。

土間に並ぶ飯台。

こちらは、漁夫だまりである広間の隅に造られていた飯台です。

ネダイの羽目板に今も残る落書き。花田家漁場に出稼ぎに来ていたヤン衆が残したものでした。この落書きによって、この番屋が1905年(明治38年)にはすでに存在していたことがわかりました。


落書きには、
 明治38年、
 松前郡福山村の松田栄八は、
 花田家の漁場に雇われた。
 旧暦の5月14日には、
 漁を切り揚げて故郷に帰った。
とありました。


玄関脇にしまわれた提灯。丸二の屋号が入っています。


さて。
台所の左につづいていた棚部屋ですが、
その奥には、これまでとは違った景観が見えます。


お膳や岡持が並ぶ棚部屋の向こうをご覧ください。


ヤン衆の生活スペースであった漁夫だまりは、
一面が板の間でしたが、
棚部屋の向こうには、
畳と障子が設えてあります。


そうです。
漁夫の宿泊所だったエリアはここで終わり、
ここから先は、
網元一家の居住スペースが始まるのです。


旧花田家番屋は、真ん中に、
「にわ」という土間が設けられていて、
その右側が漁夫の宿泊所、
左側が網元の住居になっていました。


ここからは、番屋の左半分である、
網元の居住スペースを歩きます。


こちら側には、今まで見てきたのとは全く違った世界がありました…。3部屋続いていますが、一番奥が帳場、そして真ん中の部屋は「親方(網元)の部屋」、そして手前が茶の間でした。

障子の向こう側には、「にわ」そして大勢の男衆が暮らした「漁夫だまり」があります。

中央の親方の部屋で、このいろりの横に座ってみました。

ここから、漁夫だまりを見渡すことができます。


漁場経営者である「親方」は、
この部屋で、囲炉裏の縁に南向きに座り、
常に、漁夫の動きを監視したそうです。


いちばん奥の部屋は帳場です。玄関のすぐ隣りにあります。

そして、この3部屋のさらに奥には、網元一家の、瀟洒なプライベートエリアが続いていました。


次回は、帳場の中を、
もう少し歩いてみます。


(つづく)

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 17 - 旧花田家番屋②(漁夫だまり、寝台、囲炉裏、あいのこ船)(2022年6月19日/3日め)

(2022/08/12 17:00記)

2022年6月19日 旧花田家番屋で。大正年間に活躍した、「あいのこ船」です。(北海道留萌郡小平町)


6月19日(日)


ニシン漁の展示を見終わり、
回廊を抜けると、そこは、
ヤン衆の宿泊所だった大広間でした。
この広い板の間を、
「漁夫だまり」と言いました。


かつてこの番屋では、漁夫のほかにも、
 5ヶ統の漁夫の外船大工
 鍛冶職
 屋根職
などを含めて、
総勢200人を収容していましたが、
最盛期には、その数は、
500人にもなったそうです。


200人もの男衆が集っていた漁夫だまりです。

天井は、巨材を豊富に用いた豪壮な梁組です。そして、3つの囲炉裏が設えてあります。


ニシン漁の全盛期。
網元たちは多くのヤン衆を雇い、
莫大な富を得ました。
このニシン番屋を作った花田伝助も、
最盛期には18ヶ統もの鰊定置網を経営し、
道内屈指のニシン漁家でした。


中央に漁夫だまりを置き、その二辺に沿って、一段と高いスペースが築かれています。ここが、ヤン衆たちの布団を敷くスペースで、「ネダイ(寝台)」と呼びました。(ちなみに、写真のMIYOはビデオを見ているところです。)

「浜は大漁」という資料映像で、1954年(昭和29年)に撮影されました。翌1955年には、ニシンは全道的に獲れなくなったので、ニシン漁最末期の貴重な映像になります。すっごくおもしろかったです。^^

テレビの横には、かつて漁夫達が使った飯台が再現されていました。

「ネダイ」は2列になっています。ここにびっしりと布団を敷きつめました。ひとり分の居住スペースは、ふとん一枚分だけということになりますが、ここに200人ものヤン衆たちが暮らしていたことを考えると、ひとり分のスペースはもっと狭かったかもしれません。

布団と掻巻が、少しだけ置いてありました。^^

ひとり分として支給されたのは、薄縁一枚にふとん一組だったようです。

ネダイを、ぐるりと歩いてみました。つきあたりになにか見えます。

近寄ってみると、たくさんのカンテラでした。その手前には、ニシン船の模型が、いくつも飾ってありました。

この真ん中の部分に、ニシンを満載したんですね。^^

こんな感じです。

かつては船尾に取り付けられていた本物の櫓が、たくさん展示されていました。

ネダイは直角に曲がって、さらに続きます。(今度は夫がビデオを見ています。笑)

ネダイの角の部分から全体を見渡しました。右奥に見えるのは、台所です。そして左奥にある障子の向こう側が、網元の居住スペースでした。中央の漁夫だまりには囲炉裏が3つもありますが、大勢が暮らしていたので、それくらい必要だったのでしょう。

いろりのひとつには、仏像が飾られています。この仏像は、1971年、小平町が復元のために番屋を解体したときに、この囲炉裏の下の土から発見されました。製作年代も作者も、そしてどうして埋められていたのかもわかっていないそうです。

もうひとつの囲炉裏。これは、台所のすぐ近くにあります。天井から吊り下げられている木の枠は、「縄かけ式の自在鉤」で、北海道ではよく見られるものです。中心には、通常の自在鉤があり、鍋を吊るして煮炊きをしましたが、「縄かけ式の自在鉤」では、濡れた装具やわらじを吊るして乾かしました。

これは、札幌開拓の村で見た、旧納内屯田兵屋の囲炉裏です。囲炉裏の上には、やはり、「縄かけ式の自在鉤」があります。草鞋は、爪子(つまご)というものがついています。(2021年11月6日 札幌市)

このときの日記です。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 28 - 北海道開拓の村①(鉄道馬車、旧ソーケシュオマベツ駅逓所、旧納内屯田兵屋)(2021年11月6日/4日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

花田家番屋の自在鉤に吊るされていた草鞋にも、爪子(つまご)がついていました。

爪子です。草鞋のつま先に覆いがつけられています。これは、冬季の防寒用の履物でした。明治初頭の北海道では米がとれなかったため、稲わらは貴重品でした。同様に、稲わらでできた草鞋も、高価な履物だったと思われます。

囲炉裏の隣りに置いてあった、「あいのこ船」の模型です。かつて番屋の船大工であった平山敬吉さんが、船大工修行中に手がけた船を忠実に再現し、5分の1の大きさに造ったものだそうです。


【あいのこ船】
1890~1930年頃にかけて、日本の沿岸航路の貨物輸送に用いられた和洋折衷の帆船です。もともと、海上輸送を担っていたのは北前船(弁財船)でした。しかし、洋船に比しての和船の欠陥を痛感した明治政府は、1885年に、「五百石以上の日本型船新造禁止令」を発し、和船を廃し洋船を積極的に導入することを策しました。が、船主や船頭の多くは、建造が簡易で船価も安く、荷役の便利な和船を捨てるにはしのびないとし、様々な抜道を講じてその延命を図りました。ただし、帆装に関しては洋式が優れていることは衆目の認めるところであったので、船体は和船、帆は洋帆という和洋折衷の船が誕生しました。和船の船大工が、従来の和船の船型や構造を土台として、西洋帆船の長所を取り入れて造ったことから、「あいのこ船」と呼ばれました。政府の抑制策にもかかわらず、「あいのこ船」は、低い船価と実用性の高さが買われ、1912~26年(大正年間) には全国的に普及し、西洋型帆船を圧倒しました。しかし、やがて機帆船にその地位を譲ることとなりました。


あいのこ船を反対側から見たところです。帆が4枚もあるので、たしかに、洋風の帆船のようなテイストがあります。

こちらは、かつて日本各地の海で活躍した、オリジナルの北前船。たった一枚の帆で、荒波へ漕ぎだしました。(山形県酒田市)(画像をお借りしました。)


庄内藩を支え、北前船で栄えた湊町、酒田
市内の日和山公園は、
「日本の歴史公園100選」に選定されています。
ここでは、実物の二分の一の大きさに再現した
「北前船」を見ることができるそうです。


山形県酒田市は、
最上川の水運と、酒田港を拠点とする海運
両方で栄えた所です。
庄内米や紅花を回漕する、
北前船が活躍した街として、
当時の繁栄の面影を残す、
貴重な歴史スポットがたくさんあります。


「酒田に行きたいねえ!」
と、夫とよく話すのですが、
なかなか実現していません。


あこがれの街、酒田。
来年こそは、訪ねたいと思っています。^^


(つづく)

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 16 - 旧花田家番屋①(ニシン回廊)(2022年6月19日/3日め)

(2022/08/11 17:10記)

2022年6月19日 旧花田家番屋。北海道最北にして、最大のニシン番屋です。(北海道留萌郡小平町)


6月19日(日)


増毛町を出発して、
留萌へと、車を走らせました。


留萌市から、
オロロンライン(国道232号線)を
北に約20km。
車で30分ほどの小平(おびら)町に、
めざす「道の駅おびら鰊番屋」が
あります。


増毛町に、
かなり長く滞在してしまったので、
すでに夕方に近くなっています。
もともとこの日は、
増毛町だけを訪ねるつもりでした。


でも、秋田藩増毛元陣屋跡で、
花田家番屋の存在を知ってしまい、
急遽、留萌にも行ってしまおうと、
予定を変更したわけです。


元陣屋に展示してあった、花田家番屋のジオラマ。ただこれだけを見て、留萌まで来てしまいました。😄

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 3 - 秋田藩増毛元陣屋跡③ / 唐箕でつながる旅(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


留萌にまで足をのばすのは、
突発的に決めたことでしたから、
計画自体に無理があったのは、
まあ、仕方のないところです。


花田家番屋の閉館時間までは、
あと1時間半くらい。
なんとか、見学する時間はとれそうです。


急げ。とにかく急げ。


にしん街道の北の果て、小平町に着きました。奥にふたつの建物が見えますが、左が「道の駅 おびら鰊番屋」、そして右が「旧花田家番屋」(鰊番屋)です。

「鰊番屋」と書いてあります。ほんとうに、ここまで来てしまいました。😂

海沿いに網がかけられていて、その網をたくさんのニシンが泳いでいます。なんてすてきな演出。^^


国指定の重要文化財である、
「旧花田家番屋」(鰊番屋)は、
道の駅の敷地内にあります。
花田家番屋に合わせて、
後から道の駅を建てたわけですが、
この施設自体も、
古い木造の建築物風に建てられています。


「道の駅 おびら鰊番屋」です。近代建築ですが、景観を損なわないよう、古風な佇まいにしてあります。


道の駅の中にも入ってみたかったのですが、
時間がありません。
「まずは、閉館時間になるまで、
 時間が許すかぎり、
 旧花田家番屋の方を見学しよう。」
と話し合い、ふたりそろって、
番屋に向かって走りました。


急げ。とにかく急げ。


「重要文化財 旧花田家番屋」とあります。このパネルの向こうにあるのが、旧花田家番屋です。さらに走ります。

着きました。旧花田家番屋です。なんとでかい…。さすが、北海道最北にして、最大のニシン番屋です。

入口の前に、像がありました。

もっこを背負って、ニシンを運ぶ女性の像です。「群来る」と書いてありました。


【群来る(くきる)】
「春告魚(はるつげうお)」とも呼ばれるニシンが、産卵のために大群で押し寄せる現象「群来(くき)」と言いました。大群のニシンによる産卵・放精で、海の色は乳白色になったそうです。そのニシンを追って、多くのカモメが群れるさまは、アイヌ語で「マシュキニ(カモメの多いところ)」と言われました。「増毛」という地名は、その言葉が元となっています。

ニシンの「群来(くき)」が始まると、人々はそれを「群来る(くきる)」と呼び、こぞってニシン漁に繰り出しました。「群来る」は、ニシン街道の誰もが、大漁を願って心躍らせる言葉でした。
「群来る」ところに、カモメあり。「マシュキニ(カモメの多いところ)」は、ニシン漁で栄華を極めた増毛に、もっともふさわしい地名でした。


中に入ります。


【旧花田家番屋】
留萌郡小平町にあります。北海道にある多数のニシン番屋の中で、唯一、国の重要文化財に指定されており、日本最北端にある建造物の重要文化財としても知られています。また、2001年(平成13年)には、北海道遺産にも認定された、歴史的建造物です。
かつて、北海道の日本海側で、明治、大正、昭和の前半に盛んだったニシン漁。その網元たちが造った住居兼漁業施設のことを、「ニシン番屋」と呼びました。当時、網元たちは競って、大規模で豪華な番屋を建設したのですが、旧花田家番屋も、そのひとつでした。最盛期には、200人ものヤン衆がここで生活していたそうです。

この番屋が重要文化財に指定されたのは、1971年(昭和46年)のことです。それを機に小平町は、この番屋を買収し、3年の年月をかけて解体修復。往時の姿をよみがえらせました。
それまで、1896年(明治29年)に創立したと言われていましたが、修復の際に、羽目板の落書きや、壁紙の下張りに使った新聞紙などが見つかり、その日付から、1905年(明治38年)頃に建てられたことが判明したそうです。


入口を入ると、細長い土間が延びています。そしてそのつきあたりに、台所があります。これは、当時の番屋でよく見られた造りで、この土間を「にわ」と呼びました。

これは江差の旧中村家住宅です。ニシン漁で栄えていた、往時の江差の繁栄を今に伝える商家です。玄関を入ると、細長い土間が続いており、そのつきあたり(引き戸の向こう側)に台所があります。代表的な「にわ」の造りです。(2022年4月16日 北海道檜山郡江差町)

増毛の旧商家丸一本間家。ここにも、玄関から細長く続く土間があり、つきあたりが台所でした。このにわはあまりにも長かったため、「通り庭」と呼ばれました。コンセプトは「にわ」と同じです。屋敷があまりに広かったため、「一度通り庭に出た客人は、元の部屋に戻ってこれない。」と笑い話になったそうです。

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 9 - 旧商家丸一本間家④(客間、次の間、上勝手、台所、下勝手)(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


番屋の入口には、
地元の方らしきおじいさんが
ひっそりと座っていました。
ここで入場料を支払い、
見学スタートです。


旧花田家番屋は、中心に「にわ」があり、
それを境に、右側がヤン衆の宿泊所で、
左側が網元の居住スペースになっています。
典型的な、番屋の造りです。


ヤン衆とは、北海道のことばで、
「ニシン漁に雇われた季節労働者たち」
のことを言いました。
旧花田家番屋にある、ヤン衆の宿泊所は、
現存する「漁夫の宿泊施設」としては
道内最大の規模だそうです。


靴を脱ぎ、まずは、
その宿泊施設に入ろうとしたのですが、
おじいさんから、
「先に、展示を見ていってください。」
と言われ、
玄関横の細長い通路に案内されました。


番屋の内側では、外壁に沿って、細長い通路が延びています。このスペースに、ニシン漁に関する道具や資料が展示されていました。まずは、大量の漁網の数々。ニシン漁に使われた網が、これでもか、と言わんばかりに並んでいました。笑

回廊を左に曲がると、さらに膨大な資料が続きました。ここには、「身欠」や「シメ粕づくり」に使われた道具が展示されていました。

もっこです。陸揚げされた鰊は、「もっこ背負い(もっこしょい)」によって、処理作業場(納坪・廊下)に集積されます。

船にぎっしりと詰まったニシンをすくって、もっこの中にどんどん入れているところです。

からのもっこを背負った女性たちは、船の前に列をなしました。その横を、20キロのもっこを背負った女性たちが、しっかりとした足取りで進んでいます。すごい!^^


【鰊つぶし】
船からもっこに入れて運ばれたニシンは、2、3日放置しました。そしてカズノコが固まると、「鰊つぶし」が始まります。白子(精嚢)やカズノコ(卵巣)は各々の容器に入れ、エラから口にかけての部分は、藁で結んで天日で干しました。

鰊の選別をしているところです。(増毛・千石蔵にて)

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 13 - 千石蔵①(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


数日干したあと、生乾きの状態になると、「さばさきり」という小刀で切り分け、さらに納屋で2週間ほど乾燥させました。これが「身欠ニシン」です。乾物で保存性がよいので、特に山間地のタンパク源として重用され、全国にニシン食文化が広がりました。京都の「にしんそば」、福島県会津地方の「にしん山椒(さんしょう)漬け」など、各地の郷土食にもなりました。

もっこ背負い(もっこしょい)の女性たちが腰に下げた鑑札。仕事の前に受け取り、仕事の後、この鑑札と引き換えに労賃をもらいました。一日の労賃は、もっこ2杯分のニシンだったそうです。

「鰊つぶし」の後、残りのニシンを煮た大釜です。煮上がったニシンは、タモ網ですくい取り、隣りにあるシメ胴に移しました。シメ胴は、ニシンの油を搾るための装置です。この中にニシンを入れて、シメ具にかけて搾りました。

シメ胴は木製で、古くは角型の枠組みでしたが、その後改良されて、鉄製・円筒形のものになりました。

ニシンをすくったタモ網や粕切包丁です。ミンサーのような木箱は、「粕くだき」であると思われます。


【無駄のないニシン加工】
「ニシン釜」で煮詰めた鰊は、「角胴」「丸胴」に詰められ、圧力をかけて搾ります。流れ出す液体部分の上澄みからは、「ニシン油」がとられ、一斗缶につめて出荷されました。
「角胴」「丸胴」の中に残ったニシンの「粕」は、「粕切包丁」で切られ、「粕くだき」で砕かれます。くだかれた「粕」は、むしろの上で天日干しにしました。乾いた「粕」は、俵につめて「〆粕(締粕)」として、全国へ出荷されました。
「〆粕」は、効果の高い肥料として、江戸時代後期から全国に流通しました。はじめは、綿花やみかん、菜種、藍、紅花などの商品作物に使われましたが、次第に、稲作や畑作にも広く使われるようになりました。その後、過リン酸石灰などの化成肥料が使われるようになるまで、「〆粕」は、日本の代表的な肥料として使われ続けました。


積み上げられた〆粕(鰊粕)の俵です。一俵の重さは26貫(97.5㎏)。(増毛・千石蔵にて)


MIYOが小さいころ、
植木鉢に入れる肥料のことを、母は、
「あぶらかす」と呼んでいました。
それが不思議だったのですが、
「ニシンの油を搾ったあとのカスだから
 『あぶらかす』だったんだなあ…。」
と、このとき初めて、納得しました。笑
(そのとき使っていた肥料は、もちろん、
 鰊粕ではなく、化学肥料だったのですが。笑
 昭和8年に農家で生まれた母にとっては、
 いくら時代が変わろうと、生涯、
 「肥料=にしんかす=あぶらかす」
 ということだったのでしょう。^^)


旧花田家番屋。
さすが、「北海道で最大の番屋」
というだけのことはあります。
展示物の量があまりにも膨大かつ詳細で、
驚きました。


そして、これまでに各地で、
断片的に見て来たことが、
ここに来て初めて、ひとつにつながり、
ニシン漁や加工作業の全容を
理解できたように思います。
(遅すぎですね。笑)


石川県の加賀橋立に行き、
「北前船」の存在を初めて知ったのは、
2020年7月のことでした。


北海道にたどり着いた北前船が、
戻りに満載した、最大の積み荷が、
ニシンの〆粕(鰊粕)でした。



あれから2年。
日本各地の北前船主屋敷や集落、ニシン商家、
さらにニシン番屋を訪ねつづけ、
そしてとうとう、ここにたどり着きました。


(つづく)

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 15 - 港町市場でえびまつり(2022年6月19日/3日め)

(2022/08/10 16:05記)

2022年6月19日 美味しいお寿司を2連発。夫とはんぶんこしながらいただきました。^^(北海道増毛郡増毛町)


6月19日(日)


たまたま行ってみた港町市場で、
増毛町えびまつりに遭遇してしまった、
私たち。
早速、市場の中を探索してみました。


ムラサキウニ1パック3000円。

ボタン海老と朝獲れ甘海老(1080円)。

ホタテと、この黒いお魚はなんでしょう? ご存じの方がいらしたら、お教えください。

まぐろ(100㎏超)の解体ショーもやってました。

本マグロ1サク2000円。


ええっと…。
我が家がふだん買わないような
高級品ばかりなので、
東京での通常価格がわからず、
安いんだか高いんだか、
よくわかりません。🤣🤣


でも、地元の方々が発砲スチロールの箱で
どんどん買っていかれるので、
たぶん、お安いのだと思います。😅


MIYOが気になったのは、こちらです。


「数量限定
 甘えびボタンえび寿司 1000円」


これですよ…。
漁獲高日本一を誇る、増毛のボタン海老
やっぱりこれを食べたい。😋
…ということで、お買い上げ。
これが、本日のお昼ごはんです。^^


さっき國稀酒造の前で買った、すが宗の「ニシンのつのかくし鮨」といっしょにいただきます。

じゃん!

朝獲れの、つやつやふっくらのエビたちです(1000円)。

そしてすが宗の、ニシンのつのかくし鮨(900円)。しょうが、夫が少し食べちゃいました。笑

増毛に来てよかった~~~。😄😄


朝獲れのボタン海老なんて、
生まれて初めて食べました。
めちゃくちゃおいしいです!!


そして、ニシンのつのかくし鮨は、
ニシンの握り鮨の上に
酢で締めた大根の薄切りをのせています。
花嫁衣装の「角かくし」に
似ているところから、
つのかくし鮨と名付けられました。


このニシンは、春ニシンではなく、
秋に増毛の底引きで水揚げされる、
脂がのったニシンを
酢で締めているそうです。
魚のくさみは全くありません。
大根の食感もよく、にしんの旨みと合い、
あっさりといただけました。


ニシンのつのかくし鮨は、
廃線駅の駅弁として、町内で販売しています。
のぼりが立った台車にめぐりあったら、
ラッキーです。😋
旅の思い出に、ぜひ、お試しください。^^


充実のお昼ごはんも終わり、
次はいよいよ、留萌へ向かいます。


港町市場のお向かいにある、増毛漁業協同組合。この日はお祭りだったので、ここの駐車場に誘導されました。


車に乗ろうとしたら、ここで夫が、
「ちょっと海を見たい。」と言い出しました。
時間がないのに、だいじょうぶかな、
と心配だったけど、
まあ少しならと思い、ついていきました。


増毛漁協の裏にまわると、そこはいきなり、海でした。

かつては、100隻以上のニシン船が碇泊していた、増毛港。

昭和12年に、この写真を撮ったときと同じ海を、今、私は眺めていました…。

MIYOが生まれ育った町(愛媛県八幡浜市)は、全国でも有数の、トロール漁業の本拠地です。


小さいころから見慣れていた、
なつかしい風景が、
今、目の前に広がっていました。^^


(つづく)

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 14 - 千石蔵②、津軽藩増毛勤番越年陣屋跡、志満川食堂、港町市場(増毛町えびまつり)(2022年6月19日/3日め)

(2022/08/09 15:00記)

2022年6月19日 増毛名物、甘えびボタンえび寿司。今朝獲れたばかりのエビを、握り寿司でいただきました。^^(北海道増毛郡増毛町)


6月19日(日)


千石蔵の見学を続けます。


ニシンを運ぶために使われたもっこや、ニシンを煮た大釜など展示されていました。こんなにたくさんのもっこを一度に見たのは初めてでした。

番付板です。建網一ケ統(1漁場)は30人前後で構成されていました。番付板には、大船頭以下、炊事婦まで名を連ねています。このような番付板を、通常は、土間の壁に掲示しました。人員が入れ替わるため、毎年作り変え、1枚の板を裏表で2年使用しました。3年めには、1年めの側をかんな掛けして使用したため、番付板に古い物は存在しないそうです。

幻の番屋と言われる、松江番屋です。明治31年、増毛町元阿分に建てられました。総建坪は300坪。写真は、昭和10年ごろに撮られたものです。

平野番屋。増毛町舎熊にありました。間口が20間で奥行11間。中央の土間を境に、右側が主人一家や来客のための部分で、左側では漁夫達が寝起きしました。

すばらしい展示の数々でした。

こんな貴重な資料館を無料で開放してくださっている國稀酒造に、感謝です。^^

タモでニシンをすくう漁師と、もっこを担ぐ女性。


千石蔵を出て少し歩くと、
もうひとつの陣屋跡がありました。


「津軽藩増毛勤番越年陣屋跡」です。


【津軽藩増毛勤番越年陣屋跡】
江戸時代中期、蝦夷地警備のために津軽藩が築いた陣屋があった場所です。1807年(文化4年)、幕府は、ロシアの南下政策に対抗するため、仙台、会津、南部、秋田、庄内の各藩に蝦夷地警備を命じました。この命を受けて、津軽藩は、1809年(文化6年)、増毛に勤番陣屋を築きました。現在、その遺構は何も残っておらず、志満川食堂の横に標柱と説明板が立つのみです。が、当時の宗谷樺太詰め人数は200~300人と推測されるので、往時はかなりの規模の陣屋がここに建っていたことになります。


【津軽藩殉難事件】
当初津軽藩は、エトロフ、ソウヤ、シャリの守備を命じられました。1807年、幕府の命を受けて、津軽藩兵100名が、宗谷岬を経由して知床に入りました。が、寒さと栄養不足による浮腫病(壊血病)で次々に命を落とし、津軽に生還できたのはわずか17名でした。この悲惨な出来事は、津軽藩士殉難事件として、今に伝えられています。

津軽藩は幕府に窮状を訴え、その願いが聞き入れられたため、1809年(文化6年)以降の宗谷の越年を増毛に変更することができました。それによって増毛に築かれたのが津軽藩増毛勤番陣屋でした。


増毛町に来て、
いちばんはじめに訪ねたのが、
秋田藩増毛元陣屋跡でした。
コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 1 - あいろーど厚田と秋田藩増毛元陣屋跡①(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


そこでの資料によると、幕府が、
仙台、秋田、南部、津軽、松前の各藩に
蝦夷地警備の命を発したのは、
1855年(安政2年)のことでした。
その命を受けて、増毛には秋田藩が、
拠点となる元陣屋を築いたのです。
けれど、それより50年以上も前に、
すでに北方警備の拠点が、津軽藩によって、
ここ増毛に築かれていたわけです。


増毛で、この
「津軽藩増毛勤番越年陣屋跡」
の説明板を見た時は、
あまり気に留めていませんでした。
しかし帰宅後、
「津軽藩殉難事件」を調べているうちに、
その悲惨さに胸が苦しくなりました。


極寒の地で、
72名もの津軽藩士が次々と亡くなった事件は、
「藩の恥」として、
長く秘されてきたそうです。

それはないですよね…。


1954年、
生存者であった藩士の残した日記が
発見されました。
それにより、惨事から150年もたって初めて、
藩士たちの悲劇が明らかになりました。
1973年には、斜里町に、
津軽藩士殉難慰霊の碑が建立され、
以来、慰霊祭が毎年行われています。
そして1983年、斜里町と弘前市は、
友好都市の提携を結びました。
それ以降、斜里の夏祭りでは、
毎年、弘前ねぷた
繁華街を練り歩いているそうです。


しれとこ斜里ねぷた(画像をお借りしました)


日本には、そして北海道には、
まだまだ、私の知らない歴史があるなあ、
と思いました。


志満川食堂です。明治25年築の旧小林廻船問屋だった建物を使っているそうです。


志満川食堂(旧小林廻船問屋)。
外装は新しそうですが、内部は、
昔ながらの造りを残してあるそうです。
人気メニューは、ニシンの親子そばだとか…。


お昼もとっくに過ぎていたので、
お腹が空いていました。
國稀酒造の駐車場に停めてあった車に乗り、
お昼ごはんの場所と
決めてあった所へ向かいます。


港町市場です。

「ここでなにか地のお魚でも食べられるといいね」と話し合って来たのですが、なんだか様子が違います。

なんと、年に一度の「増毛町えびまつり」が開催されていました。それも、コロナ禍で2年ぶりの開催だったそうです。こんな日に来てしまうなんて…。🤣🤣 

金魚すくいでなくて、「活えびすくい」ですよ。すごっ。

甘えび、シマえび、ボタン、イバラ…って、おまつりの屋台にしては豪勢すぎるんですけど。🤣🤣

水槽の中は、海老だらけ。これ、ほんとにすくって遊ぶんですか…?😮

はい、すくってます。活けエビすくいは、一回500円。

タモからあふれんばかりのボタン海老、すくってお持ち帰りです~。🤣🤣

うわ~~~。😮


増毛町は、
ニシン漁で栄えた、歴史ある町ですが、
ボタンエビの漁獲高が日本一で、
アマエビやタコなどの水揚げも
多いのだそうです。


ボタン海老が、束になって泳いでいました。


(つづく)