MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 14 - 千石蔵②、津軽藩増毛勤番越年陣屋跡、志満川食堂、港町市場(増毛町えびまつり)(2022年6月19日/3日め)

2022年6月19日 増毛名物、甘えびボタンえび寿司。今朝獲れたばかりのエビを、握り寿司でいただきました。^^(北海道増毛郡増毛町)


6月19日(日)


千石蔵の見学を続けます。


ニシンを運ぶために使われたもっこや、ニシンを煮た大釜など展示されていました。こんなにたくさんのもっこを一度に見たのは初めてでした。

番付板です。建網一ケ統(1漁場)は30人前後で構成されていました。番付板には、大船頭以下、炊事婦まで名を連ねています。このような番付板を、通常は、土間の壁に掲示しました。人員が入れ替わるため、毎年作り変え、1枚の板を裏表で2年使用しました。3年めには、1年めの側をかんな掛けして使用したため、番付板に古い物は存在しないそうです。

幻の番屋と言われる、松江番屋です。明治31年、増毛町元阿分に建てられました。総建坪は300坪。写真は、昭和10年ごろに撮られたものです。

平野番屋。増毛町舎熊にありました。間口が20間で奥行11間。中央の土間を境に、右側が主人一家や来客のための部分で、左側では漁夫達が寝起きしました。

すばらしい展示の数々でした。

こんな貴重な資料館を無料で開放してくださっている國稀酒造に、感謝です。^^

タモでニシンをすくう漁師と、もっこを担ぐ女性。


千石蔵を出て少し歩くと、
もうひとつの陣屋跡がありました。


「津軽藩増毛勤番越年陣屋跡」です。


【津軽藩増毛勤番越年陣屋跡】
江戸時代中期、蝦夷地警備のために津軽藩が築いた陣屋があった場所です。1807年(文化4年)、幕府は、ロシアの南下政策に対抗するため、仙台、会津、南部、秋田、庄内の各藩に蝦夷地警備を命じました。この命を受けて、津軽藩は、1809年(文化6年)、増毛に勤番陣屋を築きました。現在、その遺構は何も残っておらず、志満川食堂の横に標柱と説明板が立つのみです。が、当時の宗谷樺太詰め人数は200~300人と推測されるので、往時はかなりの規模の陣屋がここに建っていたことになります。


【津軽藩殉難事件】
当初津軽藩は、エトロフ、ソウヤ、シャリの守備を命じられました。1807年、幕府の命を受けて、津軽藩兵100名が、宗谷岬を経由して知床に入りました。が、寒さと栄養不足による浮腫病(壊血病)で次々に命を落とし、津軽に生還できたのはわずか17名でした。この悲惨な出来事は、津軽藩士殉難事件として、今に伝えられています。

津軽藩は幕府に窮状を訴え、その願いが聞き入れられたため、1809年(文化6年)以降の宗谷の越年を増毛に変更することができました。それによって増毛に築かれたのが津軽藩増毛勤番陣屋でした。


増毛町に来て、
いちばんはじめに訪ねたのが、
秋田藩増毛元陣屋跡でした。
コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 1 - あいろーど厚田と秋田藩増毛元陣屋跡①(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


そこでの資料によると、幕府が、
仙台、秋田、南部、津軽、松前の各藩に
蝦夷地警備の命を発したのは、
1855年(安政2年)のことでした。
その命を受けて、増毛には秋田藩が、
拠点となる元陣屋を築いたのです。
けれど、それより50年以上も前に、
すでに北方警備の拠点が、津軽藩によって、
ここ増毛に築かれていたわけです。


増毛で、この
「津軽藩増毛勤番越年陣屋跡」
の説明板を見た時は、
あまり気に留めていませんでした。
しかし帰宅後、
「津軽藩殉難事件」を調べているうちに、
その悲惨さに胸が苦しくなりました。


極寒の地で、
72名もの津軽藩士が次々と亡くなった事件は、
「藩の恥」として、
長く秘されてきたそうです。

それはないですよね…。


1954年、
生存者であった藩士の残した日記が
発見されました。
それにより、惨事から150年もたって初めて、
藩士たちの悲劇が明らかになりました。
1973年には、斜里町に、
津軽藩士殉難慰霊の碑が建立され、
以来、慰霊祭が毎年行われています。
そして1983年、斜里町と弘前市は、
友好都市の提携を結びました。
それ以降、斜里の夏祭りでは、
毎年、弘前ねぷた
繁華街を練り歩いているそうです。


しれとこ斜里ねぷた(画像をお借りしました)


日本には、そして北海道には、
まだまだ、私の知らない歴史があるなあ、
と思いました。


志満川食堂です。明治25年築の旧小林廻船問屋だった建物を使っているそうです。


志満川食堂(旧小林廻船問屋)。
外装は新しそうですが、内部は、
昔ながらの造りを残してあるそうです。
人気メニューは、ニシンの親子そばだとか…。


お昼もとっくに過ぎていたので、
お腹が空いていました。
國稀酒造の駐車場に停めてあった車に乗り、
お昼ごはんの場所と
決めてあった所へ向かいます。


港町市場です。

「ここでなにか地のお魚でも食べられるといいね」と話し合って来たのですが、なんだか様子が違います。

なんと、年に一度の「増毛町えびまつり」が開催されていました。それも、コロナ禍で2年ぶりの開催だったそうです。こんな日に来てしまうなんて…。🤣🤣 

金魚すくいでなくて、「活えびすくい」ですよ。すごっ。

甘えび、シマえび、ボタン、イバラ…って、おまつりの屋台にしては豪勢すぎるんですけど。🤣🤣

水槽の中は、海老だらけ。これ、ほんとにすくって遊ぶんですか…?😮

はい、すくってます。活けエビすくいは、一回500円。

タモからあふれんばかりのボタン海老、すくってお持ち帰りです~。🤣🤣

うわ~~~。😮


増毛町は、
ニシン漁で栄えた、歴史ある町ですが、
ボタンエビの漁獲高が日本一で、
アマエビやタコなどの水揚げも
多いのだそうです。


ボタン海老が、束になって泳いでいました。


(つづく)

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