MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 17 - 旧花田家番屋②(漁夫だまり、寝台、囲炉裏、あいのこ船)(2022年6月19日/3日め)

2022年6月19日 旧花田家番屋で。大正年間に活躍した、「あいのこ船」です。(北海道留萌郡小平町)


6月19日(日)


ニシン漁の展示を見終わり、
回廊を抜けると、そこは、
ヤン衆の宿泊所だった大広間でした。
この広い板の間を、
「漁夫だまり」と言いました。


かつてこの番屋では、漁夫のほかにも、
 5ヶ統の漁夫の外船大工
 鍛冶職
 屋根職
などを含めて、
総勢200人を収容していましたが、
最盛期には、その数は、
500人にもなったそうです。


200人もの男衆が集っていた漁夫だまりです。

天井は、巨材を豊富に用いた豪壮な梁組です。そして、3つの囲炉裏が設えてあります。


ニシン漁の全盛期。
網元たちは多くのヤン衆を雇い、
莫大な富を得ました。
このニシン番屋を作った花田伝助も、
最盛期には18ヶ統もの鰊定置網を経営し、
道内屈指のニシン漁家でした。


中央に漁夫だまりを置き、その二辺に沿って、一段と高いスペースが築かれています。ここが、ヤン衆たちの布団を敷くスペースで、「ネダイ(寝台)」と呼びました。(ちなみに、写真のMIYOはビデオを見ているところです。)

「浜は大漁」という資料映像で、1954年(昭和29年)に撮影されました。翌1955年には、ニシンは全道的に獲れなくなったので、ニシン漁最末期の貴重な映像になります。すっごくおもしろかったです。^^

テレビの横には、かつて漁夫達が使った飯台が再現されていました。

「ネダイ」は2列になっています。ここにびっしりと布団を敷きつめました。ひとり分の居住スペースは、ふとん一枚分だけということになりますが、ここに200人ものヤン衆たちが暮らしていたことを考えると、ひとり分のスペースはもっと狭かったかもしれません。

布団と掻巻が、少しだけ置いてありました。^^

ひとり分として支給されたのは、薄縁一枚にふとん一組だったようです。

ネダイを、ぐるりと歩いてみました。つきあたりになにか見えます。

近寄ってみると、たくさんのカンテラでした。その手前には、ニシン船の模型が、いくつも飾ってありました。

この真ん中の部分に、ニシンを満載したんですね。^^

こんな感じです。

かつては船尾に取り付けられていた本物の櫓が、たくさん展示されていました。

ネダイは直角に曲がって、さらに続きます。(今度は夫がビデオを見ています。笑)

ネダイの角の部分から全体を見渡しました。右奥に見えるのは、台所です。そして左奥にある障子の向こう側が、網元の居住スペースでした。中央の漁夫だまりには囲炉裏が3つもありますが、大勢が暮らしていたので、それくらい必要だったのでしょう。

いろりのひとつには、仏像が飾られています。この仏像は、1971年、小平町が復元のために番屋を解体したときに、この囲炉裏の下の土から発見されました。製作年代も作者も、そしてどうして埋められていたのかもわかっていないそうです。

もうひとつの囲炉裏。これは、台所のすぐ近くにあります。天井から吊り下げられている木の枠は、「縄かけ式の自在鉤」で、北海道ではよく見られるものです。中心には、通常の自在鉤があり、鍋を吊るして煮炊きをしましたが、「縄かけ式の自在鉤」では、濡れた装具やわらじを吊るして乾かしました。

これは、札幌開拓の村で見た、旧納内屯田兵屋の囲炉裏です。囲炉裏の上には、やはり、「縄かけ式の自在鉤」があります。草鞋は、爪子(つまご)というものがついています。(2021年11月6日 札幌市)

このときの日記です。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 28 - 北海道開拓の村①(鉄道馬車、旧ソーケシュオマベツ駅逓所、旧納内屯田兵屋)(2021年11月6日/4日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

花田家番屋の自在鉤に吊るされていた草鞋にも、爪子(つまご)がついていました。

爪子です。草鞋のつま先に覆いがつけられています。これは、冬季の防寒用の履物でした。明治初頭の北海道では米がとれなかったため、稲わらは貴重品でした。同様に、稲わらでできた草鞋も、高価な履物だったと思われます。

囲炉裏の隣りに置いてあった、「あいのこ船」の模型です。かつて番屋の船大工であった平山敬吉さんが、船大工修行中に手がけた船を忠実に再現し、5分の1の大きさに造ったものだそうです。


【あいのこ船】
1890~1930年頃にかけて、日本の沿岸航路の貨物輸送に用いられた和洋折衷の帆船です。もともと、海上輸送を担っていたのは北前船(弁財船)でした。しかし、洋船に比しての和船の欠陥を痛感した明治政府は、1885年に、「五百石以上の日本型船新造禁止令」を発し、和船を廃し洋船を積極的に導入することを策しました。が、船主や船頭の多くは、建造が簡易で船価も安く、荷役の便利な和船を捨てるにはしのびないとし、様々な抜道を講じてその延命を図りました。ただし、帆装に関しては洋式が優れていることは衆目の認めるところであったので、船体は和船、帆は洋帆という和洋折衷の船が誕生しました。和船の船大工が、従来の和船の船型や構造を土台として、西洋帆船の長所を取り入れて造ったことから、「あいのこ船」と呼ばれました。政府の抑制策にもかかわらず、「あいのこ船」は、低い船価と実用性の高さが買われ、1912~26年(大正年間) には全国的に普及し、西洋型帆船を圧倒しました。しかし、やがて機帆船にその地位を譲ることとなりました。


あいのこ船を反対側から見たところです。帆が4枚もあるので、たしかに、洋風の帆船のようなテイストがあります。

こちらは、かつて日本各地の海で活躍した、オリジナルの北前船。たった一枚の帆で、荒波へ漕ぎだしました。(山形県酒田市)(画像をお借りしました。)


庄内藩を支え、北前船で栄えた湊町、酒田
市内の日和山公園は、
「日本の歴史公園100選」に選定されています。
ここでは、実物の二分の一の大きさに再現した
「北前船」を見ることができるそうです。


山形県酒田市は、
最上川の水運と、酒田港を拠点とする海運
両方で栄えた所です。
庄内米や紅花を回漕する、
北前船が活躍した街として、
当時の繁栄の面影を残す、
貴重な歴史スポットがたくさんあります。


「酒田に行きたいねえ!」
と、夫とよく話すのですが、
なかなか実現していません。


あこがれの街、酒田。
来年こそは、訪ねたいと思っています。^^


(つづく)

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