MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
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コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 9 - 旧商家丸一本間家④(客間、次の間、上勝手、台所、下勝手)(2022年6月19日/3日め)

(2022/08/04 18:00記)

2022年6月19日 旧商家丸一本間家で展示されていた写真です。(北海道増毛郡増毛町)
初代本間泰蔵、長男泰輔とキミ、そして、婚礼の際、豪勢な飾りつけをしてキミを迎えに行ったと伝えられる、持ち船の太刀丸。丸一本間は、通算12隻もの汽船を所有しました。日清、日露の戦役に伴う御用船の需要もあり、海運の分野でも、一時は小樽の海運王板谷宮吉をもしのぐほどの隆盛を誇りました。


6月19日(日)


旧商家丸一本間家の、
居住部分を見学しています。
次は、中庭をはさんで反対側にある、
客間に行ってみます。
中庭を囲むようにつくられている、
コの字型の廊下をぐるりと歩きました。


客間です。


【客間】
客間の高さは3m30㎝で、隣りにある「次の間」よりも天井が高くなっています。応接的な要素で使われており、襖は、奥の間と同じく、巌谷一六による漢詩「赤壁賦」(蘇軾)が揮毫されています。書院造りで、左から付書院、床、棚が設置されています。
特筆すべきなのは、客間・次の間の前の廊下部分のみ、板の角が面取りされて丸くなっています。客人を通すことを考え、足元にまで心を配っていたようです。


床の間の左側にある、付書院(つけしょいん)です。
*付書院とは、室町時代以後の書院造りに見られるものです。床の間の側面に窓を設け、板張りで机のような部分を作りました。通常は縁側に張出しており、前に明かり障子を立ててあります。

床の間から右側の壁部分へ。

さらに右へと視線を移します。床の間と向かい合っている側は襖になっていて、「赤壁賦」が揮毫されています。

客間横の廊下に、もうひとつの見どころがあります。

通常の廊下と異なっているのがおわかりでしょうか。それぞれの板の角が面取りされて、丸くなっているのです。ここは客人が通るところであったため、少しでも足ざわりが良いようにという気配りで、廊下も手間をかけて作ったようです。

面取りされていたのは客間と次の間に面した廊下だけで、それ以外は、通常の面取りされてない廊下になっています。

当時は、「春慶塗」という技法で、すべての廊下に漆が塗られていたそうです。廊下の一部には、その漆が今も残っていました。


【春慶塗】
紅色または黄色で着色してできた木地の上に、「春慶漆」と呼ばれる特に透明度の高い「透漆」(すきうるし)を塗り上げ、表面の漆を通して木目の美しさが見えるようにした技法です。木目を見せるため、下地等の補強をしません。そのため、木地の素材、扱い方に工夫を要します。素朴な技法だけに、デザインで差異をつけることが追求され、木地や下地の色の選択、漆の精製に各地方独特の様式や技術が見られます。また、「塗師(ぬし)」とよばれる漆塗り職人によっても仕上がりに違いが出てきます。

通常は、蒔絵などの加飾を行わないため、他の漆器に比べて工程が少なく、安価にでき、軽くて実用性が高いとされています。例としては、板物(盆など)、曲物(菓子箱、重箱など)、挽物(茶托など)が多く、特殊な物として家具、仏壇などがあります。


庭を囲む、コの字型の廊下と、それに沿って造られた部屋の数々。

客間の隣りにある、次の間に行きました。

居宅入口からのびる廊下の、つきあたりにある部屋です。

次の間です。左手の襖の向こう側が客間になります。


【次の間】
客間の次に天井が高い部屋です(3m25㎝)。電灯が設置されていますが、これは大正6年ごろのものです。増毛では、大正5年に街灯がつき、翌年、増毛電気株式会社が設立されました。本間泰蔵は、初代の社長に就任しています。
箪笥は桐製で、金具部分には家紋である花菱があしらわれています。新潟県の箪笥職人の手によるもので、居宅が完成した明治35年頃にあわせて通らせたものと思われます。


電灯には、美しい細工が施されていました。

桐たんすの金具には、家紋の花菱があしらわれています。大きな家紋ですね。^^

この家紋は、箪笥だけでなく、屋根瓦にも見ることができます。旧商家丸一本間家の屋根の一部に瓦が使われているのですが、そのすべての瓦に、本間家の家紋である「花菱」の紋が入れられました。当時の北海道では、瓦を使うこと自体が珍しいことでした。(画像をお借りしました)

右側の、障子が入った襖の向こう側には、「上勝手」があります。

いちばん右側にある、上勝手です。


【上勝手】
家人が食事などをする場所として使用されました。本間家では、平成9年まで、この家を住居として使用していましたが、後年は上勝手を居間として使っており、中央部分には掘りごたつをしつらえていました。創建当時の上勝手には囲炉裏や自在鉤が備え付けてあり、現在はそのころの状態を復元しています。


障子が入った襖の向こう側は「次の間」です。この部屋も天井が高いですね。

上勝手のすぐ隣りは、台所になっています。その奥には、井戸も見えますね。^^ この井戸は、近年までポンプを利用して水を汲み上げ、生活用水として利用されてきました。台所のあるスペースはからお屋敷の出入り口までは、細長いまっすぐなスペースが広がっており、「通り庭」と呼ばれました。


【通り庭】
建物の入口(入場料を支払ったところ)からこの台所までが、一直線にのびるメインストリートのようになっています。これを、通り庭と呼びました。この場所から入り口までを見渡すと、本間家がいかに広大であるかを実感します。

本間泰蔵は、業務の拡大と共に増築を繰り返していったため、本間家全体は非常に複雑なつくりになっています。平成10年に復元工事をする前は、さらに蔵が2つ、事務所が1つありました。「客人がお手洗いに行ったら帰って来れなくなる家」として有名でした。


台所の奥にも、小さな食事スペースがあります。

このスペースは、使用人たちが食事するための場所でした。主一家が食事するための「上勝手」に対して、「下勝手」と呼ばれました。


これで、居宅部分が終わりました。
呉服店舗が竣工してから、造作を進め、
明治35年までに完成したようです。
居宅部の造作は精緻に工作されており、
廊下などの手足の触れる範囲はすべて、
建具と同様、
春慶漆で塗りあげられていました。


次回は、通り庭を横切って反対側にある、
呉服蔵に入ります。


(つづく)

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