コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 18 - 旧花田家番屋③(台所、棚部屋、親方の部屋、帳場)(2022年6月19日/3日め)
(2022/08/13 17:00記)
2022年6月19日 旧花田家番屋。親方の部屋からは、漁夫だまりが一望できました。(北海道留萌郡小平町)
6月19日(日)
旧花田家番屋に来ています。
次は、漁夫だまりの奥にある、
台所の方に行ってみました。
漁夫だまりのすぐ隣りが台所です。お鍋からよそった食事をここで受け取り、漁夫だまりで食べたのかもしれません。
漁夫だまりの向こう側は土間で、そこは広い台所スペースになっていました。いちばん右端は、臼や杵、蒸籠などの大きな道具の置き場だったようです。
そのとなりです。井戸のようですが、蛇口がついていますね。
そして4口のかまどです。200人の漁夫、職人、近隣からの手間取りを含めると、最盛期には、この家の使用人は500人を超えたと言われています。彼らの食事を一手にまかなったのが、このかまどでした。(番屋の解体修理時に復元されました。)
その奥には、様々な食器や鍋が収納されていました。ここは「棚部屋」と呼ばれました。
【棚部屋】
壁面に棚が設えられているので、棚部屋と呼ばれました。棚部屋には、沖に出ている漁夫たちにおにぎりをつめて届ける「沖おひつ」や漬物を運ぶ「岡持(漬け菜入れ)」、番屋で食事をとる漁夫が使う、正方形の「漁夫のお膳」を収納しています。さらに、床下には、12俵(720㎏)のお米を収める「米びつ」がありました。
沖おひつや岡持などが並んでいます。
漁夫用お膳。番屋にいるヤン衆が食事をするときに使用しました。
この床下が米びつになっていました。
【床下の米びつ】
床下には、約720キロの米を収納できました。しかし、番屋には、漁夫のほかに多数の手間取り(近隣から稼ぎに来る日雇いの人)が、もっこ背負いやニシンの加工などに従事していたため、720キロの米は3日で底をついたそうです。
漁場で働く漁夫は、ひとりあたり一日に約1キロの米を消費していたと言います。米の消費量の多さは、漁夫達の労働の過酷さと共に、大量の米を買い集めることができた花田家の財力を物語っています。それらはすべて、ニシン漁から得る莫大な利益に支えられていました。
玄関を入ってすぐのところにある、「にわ」です。つきあたりが台所で、その左に棚部屋があります。そして、手前には、食事用の飯台が並んでいました。
土間に並ぶ飯台。
こちらは、漁夫だまりである広間の隅に造られていた飯台です。
ネダイの羽目板に今も残る落書き。花田家漁場に出稼ぎに来ていたヤン衆が残したものでした。この落書きによって、この番屋が1905年(明治38年)にはすでに存在していたことがわかりました。
落書きには、
明治38年、
松前郡福山村の松田栄八は、
花田家の漁場に雇われた。
旧暦の5月14日には、
漁を切り揚げて故郷に帰った。
とありました。
玄関脇にしまわれた提灯。丸二の屋号が入っています。
さて。
台所の左につづいていた棚部屋ですが、
その奥には、これまでとは違った景観が見えます。
お膳や岡持が並ぶ棚部屋の向こうをご覧ください。
ヤン衆の生活スペースであった漁夫だまりは、
一面が板の間でしたが、
棚部屋の向こうには、
畳と障子が設えてあります。
そうです。
漁夫の宿泊所だったエリアはここで終わり、
ここから先は、
網元一家の居住スペースが始まるのです。
旧花田家番屋は、真ん中に、
「にわ」という土間が設けられていて、
その右側が漁夫の宿泊所、
左側が網元の住居になっていました。
ここからは、番屋の左半分である、
網元の居住スペースを歩きます。
こちら側には、今まで見てきたのとは全く違った世界がありました…。3部屋続いていますが、一番奥が帳場、そして真ん中の部屋は「親方(網元)の部屋」、そして手前が茶の間でした。
障子の向こう側には、「にわ」そして大勢の男衆が暮らした「漁夫だまり」があります。
中央の親方の部屋で、このいろりの横に座ってみました。
ここから、漁夫だまりを見渡すことができます。
漁場経営者である「親方」は、
この部屋で、囲炉裏の縁に南向きに座り、
常に、漁夫の動きを監視したそうです。
いちばん奥の部屋は帳場です。玄関のすぐ隣りにあります。
そして、この3部屋のさらに奥には、網元一家の、瀟洒なプライベートエリアが続いていました。
次回は、帳場の中を、
もう少し歩いてみます。
(つづく)