MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 89 - カイディン帝陵③ 啓成殿(外観)(2023年6月20日/7日め)

2023年6月20日 カイディン帝陵で。後ろに見えているのは、華表柱と碑亭です。


6月20日(月)


拝庭にある碑亭をのぞいたあとは、
さらに上へと階段を上がりました。


碑亭です。

碑亭はカイディン定陵のほぼ真ん中にあり、ここからさらに3層上のところに、正殿(啓成殿)が建てられています。

碑亭の両側にある階段を上がって、さらに上層に行きました。

左から、三関の坊門、碑亭、華表柱。そのどれもに、独特の装飾が施されています。

ベトナム衣装の方がいらしたので、いっしょに撮らせていただきました。

階段は、まだまだ続きます。😂

これが最後の階段。ふう…。

啓成殿に到着しました。

壁面は美しく装飾されており、殿内には、礼拝堂と墓所がおかれています。

ここで振り返ってみました。周囲に見えるのは、山ばかり。

ここに来るまでに、いくつの階段を上ってきたことか…。😂

中央にあるのが、さきほど訪れた碑亭です。啓成殿は、碑亭から数えて4層も上にあります。

正殿である、啓成殿です。こうして見ると、装飾がほんとうにすごい。^^ でも、「龍の目玉はワインボトルの底」と思うと、ちょっとほほえましいです。😄

啓成殿は、バロック様式のコンクリートで造られています。かつては白亜の正殿であったと思われます。


カイディン帝の趣味が爆発してますね。
…と思ったら、
中はもっとすごいことになっていました。


(つづく)

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 88 - カイディン帝陵② 拝庭に並ぶ石像たちと碑亭、そして華表柱(2023年6月20日/7日め)

2023年6月20日 カイディン帝陵で。拝庭に並ぶ石像たちです。


6月20日(月)


あまりにも濃すぎる、
インドの人々の熱気におされて、
派手派手のカイディン帝廟が
色あせて見えるほどです。😅


インドのこぼれ話は、
まだいろいろあるのですが、
とりあえず、ここでダイジェストは完結し、
ベトナム日記に戻りたいと思います。


前回は、カイディン帝陵の階段を上がり、正門と三関の坊門をくぐったところまででした。
4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 87 - カイディン帝陵① 龍の階段とバロック様式の門(2023年6月20日/7日め)


三関の坊門(碑坊)です。

坊門をくぐると、両側に石像が並んでいます。

これは向かって左側。右側にも、同じ石像が並びます。前列にいるのは、文官・武官たち。

そして後列には、象や馬といっしょに兵士が並んでいます。

拝庭に並ぶこの石像たちに、ぜひ会いたいと思っていました。

前列の、文官・武官たちです。

エラそうに立ってます。😄

そして後列にいる、兵士たち。足下をご覧ください。兵士たちは靴をはいていません。

石像たちを、後ろから撮りました。

そして居並ぶ石像たちの奥には、碑亭があります。


【碑亭】
石で造られており、中には、皇帝の功績が書かれた碑石(聖徳神功碑)が置かれています。龍の装飾の瞳には、フランスワインのボトルの底が使われています。
カイディン帝陵は、フランスから輸入した高価な鉄筋コンクリート製なのですが、碑亭前の牌坊や左右に立つ華表柱にもフランス風のデザインが見られます。


碑亭です。中に、皇帝の功績が書かれた碑石(聖徳神功碑)が見えます。

カイディン帝廟には多大な費用がかかったため、税金を20%上げてまかなったそうです。そのことは、当時の国民から多大な反感をかいました。そんなカイディン帝の功績ってなんだったのだろう、と思うのですが…、

碑にびっしりと刻まれた文字が読めません。たとえ読めてもわかりません。😅

碑亭の左右には、フランス風にデザインされた華表柱が建てられています。

碑亭を守る龍たち。その目にはガラス玉がはめ込まれているのですが、フランスワインのボトルの底が使われているそうです。


このカイディン帝陵は、
フエの重要な観光スポットとなっており、
毎日、多くの見学者が訪れます。


化粧と女装と博打が好きで、
贅沢三昧だったカイディン帝。
さきほど、
「カイディン帝の功績とはなんだったのか」
と書きましたが、
死後にこの廟を残し、
現在のインバウンドに貢献していることが、
彼の最も大きな功績だったのかもしれません。😅


次回は、碑亭のさらに上段に築かれた、
啓成殿に行きます。


(つづく)

もみくちゃのインド。4つの世界遺産を歩いた7日間 2 - ムンバイ電車体験(2023年10月22日-28日)

2023年10月24日 アジャンター石窟群で。


10月30日(木)


7日間の旅行費用が10万円だったことで、
昨日のコメントでおほめいただき、
うれしいです。^^
ありがとうございました。


ただしこれには、もうひとつ、
おまけのお話があります。


旅行する前、長女に訊かれて、
「ツアーで行けば、ひとり20万円くらいかな。
 インドは高いからね。」
と答えました。
すると長女、その日のうちに、なんと20万円を、
MIYOの楽天銀行口座に振り込んできました。
「私の分、払うね。」と…。


「いや、ツアーなら20万円ってことで、
 うちの旅行は安上がりだから、
 20万円もかかってないよ。
 (ほんとはひとり33000円。笑)」


…と言って、返そうとしたのですが、
長女、受け取らず、
「ううん。いいよ。
 いつもタダで連れて行ってもらってるし。」
と。


結局、今回のインド旅行は、その費用の全てを、
長女に払ってもらったようなものになりました。
(しかも、まだ10万円あまってます。笑)
長女、ありがとう~~~。😄


さて。
前回も書きましたが、
私はインドが苦手です。


20代の頃は、バックパックを背負って
世界中を歩きました。
当時、バックパッカーが最後にめざすのは、
インドだったように思います。
バックパッカーの旅行先として、
やはりインドは別格でした。


でも、私は行きませんでした。
「インドだけは、
 一生行かなくてもかまわない。」

と思っていました。
ところが。


2011年、子どもたちが高校1年の頃、
ガマンできなくなった夫から、
「どうしても、
 死ぬまでにインドにだけは行きたい。
 今回行ければ、もう思い残すことはない。
 一生、海外旅行をしなくていいから。」
と説得され、渋々承諾したのが、
1回めのインド。


もうね。
大ウソでしたね。🤣
その翌年、夫は、いけしゃあしゃあと、
「今年はエジプトだ~。
 エジプトに行ければ、
 もう思い残すことはない。」
とか言い出しましたから。
(で、2012年は、エジプトに10日間、
 家族で行ったんですよ。😅)


どうしてそんなにインドがイヤなのか、
と訊かれたら、
「あまりにも、自分と違いすぎるから」
というしかありません。


人と人との距離が近すぎて、
なにかと暑苦しくてうざくて、
それが国民性だと理解はしますが、
どうにも共感はできないのです。
(あくまで、私個人の場合、です。)


そんなわけで、
「本当は行きたくない国」
と思っているのに、結局は、
3回も行ってしまったインドでした。
けれど、
今回の旅で初めて体験してしまったことを、
最後に書いておきたいと思います。


それは旅の5日め。
10月26日のことでした。
午前中はエレファンタ島に行き、
午後は、タージマハル・ホテルで
ハイ・ティーをいただいたのですが、
夕方になって、多動夫が、
「もう一度ヴィクトリア駅に行き、
 電車でホテルまで帰りたい。」
と言い出しました。


ヴィクトリア駅です。現在は、チャトラパティ・シヴァ―ジー・ターミナス駅という名前で、世界遺産として登録されている、美しい駅です。

暮れなずむ空に浮かび上がったヴィクトリア駅は、たいそうきれいでした。

時刻は6時半。駅の中は、仕事帰りの人たちでごった返していました。

どっち向いても、インド人ばっかし。😄(←あたりまえ)

夫、列に並んで、乗車券を買ってます。

これが、3人分の乗車券です。ひとり5ルピー(約10円)。Uberタクシーでホテルまで帰れば600円くらいになると思うので、激安です。(インドでは、日本で使っていたUberのアプリがそのまま日本語で使えて、感動しました。^^ Uberのおかげで、今回のインドではタクシーを安く利用できて助かりました。)

この電車に乗ればいいみたいです。

最後尾にあるのが、女性専用車両。


「女性専用車両があるから、
 あなたたちふたりはここに乗ってね。」
と言い残して、
夫はさっさと行ってしまいました。


ちなみに、夫が乗った車両は、男性ばっかりで、激コミだったそうです。🤣

そしてこちらは、女性専用車両。あはは、ほんと、女性ばっかり。(←あたりまえ)

MIYOは、いちばん奥の、ドアの横に立ちました。

ほどなく、電車が動き出しました。あらかじめネットで調べていたとおり、インドの電車は、ドアが閉まりませんでした。ドア全開で走るのですが、みんな平気にしています。(アブナイなあ…。😅) 下の写真は、走っている電車のドアの内側から、電車の外のようすを撮ったものです。

ここで長女が、「この電車はダダールに行きますか?」と訊いたものだから、全員の注目を浴びることになりました。

「ダダールだって。」

「ダダールね。」

「そう、ダダールなのね。うんうん。」


車内の全員から見守られる中、😅
めざすダダール駅が近づいてきました。


「次の駅で降りるよ。」
「もうすぐだからね。」
などと、いろんな人が教えてくれる中、
ひとりの女性から、
「ホームはこちら側だから、
 こっち側のドアのところに来なさい。」
と呼ばれたMIYO。
逆らうのもめんどくさいので、
言われたとおりに移動しました。


「スマホはバッグにしまって。」
と言われ、
なんでそこまで言うの?と思ったけど、
逆らうのもめんどくさいので、
言われたとおりにしまいました。


すると、別の女性が、
「私の隣りにいなさい。
 私といっしょに降りるわよ。」
と言って、
MIYOの腕をしっかりと握りました。
たかが電車から降りるだけなのに、
おおげさだなあ、と思ったけど、
逆らうのもめんどくさいので、
されるがままになっていました。


電車がホームに入ったな、と思った、
次の瞬間です。
突然、その女性から、
「さあ! 降りるわよ!」
と言われました。


えっ?
あの、電車がまだ動いてるんですけど…。
今降りたら危ないんですけど…?😮


などと戸惑っているうちに、
彼女がホームに飛び降りたので、
とっさにMIYOも後に続きました。
生まれて初めて、まだ動いている電車から、
ホームに飛び降りました。😅


すぐに止まれなくて、そのままの勢いで、
ホームを走るMIYO。
MIYOの腕をつかんでいた女性も、
MIYOといっしょに走ってくれました。
(おかげで、転ばずにすんだ。😄)


彼女が、「いっしょに降りましょう。」
と言って、MIYOの腕をしっかり握ったのは、
いっしょに飛び降りるためだったのです。


このとき、ようやく、電車が止まりました。
そして次の瞬間、
ホームで待っていた大勢の人々が、
怒涛のように車内になだれ込んでいきました。
すごい勢いでした。
この大勢の人たちの流れに逆らって
電車から降りるのは、
とうてい無理だったと思います。


電車が完全に止まるまで待っていたら、降りられなくなっているところでした…。


「この国には、『降りる人が先』
 なんて言葉はないんだ。」
と、このときにようやく気がつきました。
「大勢の人が乗り込んでくる前に、
 先に飛び降りる。」
が正解で、それは、インドでは誰でもが、
普通にやっていることでした。


ほんの一瞬のできごとでした。
呆然としながらも、すごい人ごみの中で、
姿が見えない長女が心配で、
私は、ただもう夢中で、
長女の名前を呼び続けました。


幸い、長女も、他の方に助けられたようで、無事、ホームにいました。すぐに、夫もやってきました。「いやあ、すごかったなあ~」と大喜びの夫。(←アホ)


MIYOの腕をつかんで、
いっしょに飛び降りてくれた女性には、
「サンキュー! サンキュー! サンキュー!」
と、ただそればかりを繰り返しました。
あまりのことに、頭の中が混乱していて、
それしか言葉が出ませんでした。


「じゃあね」と笑顔を見せて、彼女は去っていきました。


人と人との距離が近すぎて、
なにかと暑苦しくてうざくて、
私は、そんなインドが苦手でした。
けれど、このときのできごとを思い出すと、
今でもなぜか、涙が出そうになります。


車内の全員で、私たちを見守った、
おせっかいな人たち。
私の腕を握り、抱きかかえるようにして、
いっしょに飛び降りてくれた彼女。
今まで、苦手だと思っていたインドの、
それ故の温かさが、胸に染みるようでした。


…と、余韻に浸っていたMIYOの横で、
「いや~。ドア全開で走るし、
 動いてるのに飛び降りるとか、 
 めちゃくちゃおもしろかったなあ~。😛」
と喜ぶ多動夫。


「なに言ってるの?
 こんな危ないこと、もう二度と、
 や、ら、せ、る、な~!!!」


とMIYOに叱られたのは、
言うまでもありません。😔


なにはともあれ、
全員ケガもなかったのはよかった。
そして少しだけ、インドが好きになりました。
(でもやっぱり苦手です。)


帰国するとき、空港で夫に言いました。
み「これが最後だよ。
  もう二度と、インドには来ないからね。」
夫「そういう人、いっぱいいるんだよ。
  『インドは嫌い。もう二度と来ない。』
  とか言いながら、何年かたって、
  気がついたらまたインドに来てるんだって。
  そういうのを、
  『インド病』って言うんだよね。😜」


はいはい。
インド病くらい、知ってますよ…。
とりあえず夫には、
「私は絶対にインド病にはならない。」
と、断言しておきました。


人ごみでもみくちゃになった、電車体験。
今思い出してもコワいし、
もう二度と、動いている電車から、
飛び降りたりしたくない。
(夫は、「何回でもやりたい。」そうですが。)


けれど。
笑顔で去って行ったあの女性のことを思うと、
なにか温かいものが、胸の中に蘇ります。
あのとき、電車の中で会った人々のことを、
私はこれからも、折に触れては、
思い出すのだろうと思います。


私にとってインドとは、そういう国でした。


(おわり)

もみくちゃのインド。4つの世界遺産を歩いた7日間 1 - ダイジェスト(2023年10月22日-28日)

2023年10月24日 アジャンター石窟群で。


10月29日(日)


インドから帰国しました。
7日間の旅行で、
MIYO家にとっては短い日程でしたが、
もうじゅうぶんです。
これ以上インドにいたら、
頭がおかしくなりそうです。🤣


ええっと…。
はじめに言っておきますが、
私はインドが好きではありません。
って言うか、苦手です。😅


ほんとうは、一生行きたくない国でした。
にもかかわらず、
3回もインドに行くはめになったのは、
ひとえに、どうしてもインドが好きな
多動夫のせいです。😅


日本からインドまでは、飛行機で9時間。日本からは、アジアの中でもかなり遠い国です。

3回の旅では、それぞれに、訪れたエリアが異なっています。

1回め:2011年7月29日~8月5日(8日間)
デリーやアグラ、カジュラホ、バラナシ、サルナートなどのインド北部を、家族4人で歩きました。これはその年の年賀状です。(のんたんとあみちゃん 15歳/高1)

2回め:2020年1月26日~31日(6日間)
ANAのチェンナイ便就航記念で、交換マイルが
半額になったので、夫とふたりでインドの南部を歩きました。

宿泊したのは、ITCグランドチョーラという豪華ホテル。マリオットの無料券を利用したので、宿泊料はなんと無料でした。😄(画像をお借りしました)

サリーを着て遊んだのも、楽しい思い出。(2020年1月28日 チェンナイ)

そして今回のインドです。
3回め:2023年10月22日~28日(7日間)
ANAの交換マイル減額キャンペーンを利用して、長女もいっしょに、3人でインドの西部を歩きました。


「9月と10月のフライトで、
 インド・ベトナム便限定で、
 交換マイルが35000マイル。」

という電撃的なキャンペーンがでたのは、
6月にベトナムを旅行しているときでした。
申し込める期間は4日間だけ。


ベトナム旅行中でしたが、あわてて、
 9月:ベトナム(2人分)
 10月:インド(3人分)
のチケットを押さえました。(←アホ)


通常時のほぼ半額で、
ひとり分の往復航空券を、
ベトナムもインドも、
わずか35000マイルで交換できるという、
めちゃくちゃオトクなキャンペーンでした。

1日め:成田からムンバイへ(2023年10月22日)

それにしても、9時間は長い。映画を3本も観ました。😅

ムンバイでは、初めて、アパートメントに泊ってみました。ベッドルームとバスルームがふたつずつあり、リビング、ダイニング、キッチンもあって便利。日本でいう、2LDKのマンションタイプです。3人で、一泊8000円くらい。


2日め:ムンバイ市内観光(2023年10月23日)
アゴダで、専用車+ドライバー+英語ガイドの一日ツアーを申し込みました。
3人で16000円くらいでした。


ドービー・ガート(Mahalaxmi Dhobi Ghat)
巨大な洗濯場に、度肝を抜かれました。手前右は、病院のシーツ、左はレストランのテーブルクロス。奥には一般家庭の衣類がぎっしり。すごい迫力でした。


【ドービー・ガート】
125年以上の歴史がある、屋外洗濯場です。ここでは、ムンバイのホテルや病院のリネンなどを洗濯して生計を立てている「Dhobi」と呼ばれる人たちがいます。その数、5000人以上。洗濯物を振り回し、コンクリートや石に打ち付ける方法で洗濯し、乾燥後に宅配も行います。 一般家庭からの依頼もありますが、近年は洗濯機の普及が進み、仕事の減少が懸念されているそうです。


インド最大の鉄道駅・チャトラパティ・シヴァ―ジー・ターミナス駅(旧ヴィクトリア・ターミナス)です。


【チャトラパティ・シヴァージ・ターミナス】
19世紀末にムンバイに建設された、インド最大の鉄道駅です。現在も、1日300万人を超える人々が利用しています。設計したのは、イギリスの建築家「フレデリック・ウィリアム・スティーヴンス」。ヴェネツィア・ゴシック様式とインド伝統の様式が融合した建築物で、ゴシック建築の都市として有名なムンバイの象徴となっています。駅で見られる石のドーム、タレット(壁沿いに設置された装飾用の塔)、尖塔、アーチなどは、伝統的なインドの宮殿に見られる建築様式と類似していると言われています。建設当時はヴィクトリア・ターミナスと呼ばれていましたが、1996年にチャトラパティ・シヴァージー・ターミナスに改名されました。

2004年、世界遺産に登録されました。


ムンバイの魚市場。エビのむき身を取ったあとの殻の山を、たくさんの白鷺がつついていました。

サリーを着て、豪快に魚をさばく女性。

タージマハル・ホテル(Taj Mahal Palace & Tower)。インドを代表する高級ホテルです。


【タージマハル・ホテル】
開業は1903年。そのきっかけは、白人による人種差別でした。ある日、インドの近代工業の父で、タタ・グループの創始者でもあるジャムシェトジー・タタが、ムンバイ(旧ボンベイ)で当時最大のホテルだったワトソンズ・ホテルに宿泊しようとしたのですが、白人専用であることを理由に断られました。これに怒ったタタが、もっと豪華なホテルをインド人の手で築こうとしたのだそうです。その姿は、西洋の新古典主義建築とインドの伝統様式を混合したもので、インド人建築家によって設計されました。

開業後、タージマハル・ホテルはムンバイ第一のホテルとなりました。以来、インドを訪問する世界の政治家・王侯貴族・有名人らが、こぞってホテルの客となっています。


1911年に建立された、インド門。

ランチはレオポルド・カフェで。1871年に設立されたレストランです。グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツの小説「シャンタラム」の舞台としても知られており、主人公が通いつめるレストランとして描かれています。


午後は、Hanging Gardensや、
ガンジーの家などに行きました。


3日め:朝2時にたたき起こされて空港へ。😂(2023年10月24日)
左:朝6時半、アウランガバード(Aurangabad)に到着。空港まで迎えに来てくれたドライバーのサジュールさんと。ここから2日間にわたって、アジャンター石窟群、エローラ石窟群を訪れました。専用車+ドライバーの費用は、2日間で11000円くらいでした。
右:ムンバイの空港でクルタを買いました。「W」という、インドでは有名なお店で、3000円くらいでした。2011年に買ったクルタの10倍くらいですが、色合いが以前よりも洗練されていると思います。^^

サジュールさんの運転で、2時間半かけて、アジャンター石窟群に到着。斜面をくりぬいて造られた、30もの石窟群。歩いている人の小ささをご覧ください。


【アジャンター石窟群】
1819年、マドラスに駐留していたイギリスの軍人ジョン・スミスが偶然発見しました。虎狩りに出かけて虎に襲われ、渓谷に逃げこんだときに、崖に無数の穴が開いていることに気づき、穴の内部で壁画や仏像を見つけのだそうです。インドでは、長くその存在は忘れ去られ、コウモリのすみかになっていましたが、調査の結果、この石窟の掘削は前1世紀のサータヴァーハナ朝に始まったことがわかりました。4世紀ごろのグプタ朝時代にも、その従属国家であったヴァーカータカ朝のもとで掘削され、
世紀中頃まで続いたようです。が、何らかの事情で開削が終わり、仏教の衰退と共に忘れ去られていきました。
洞窟内の壁画や仏像は、いずれも純インド的なグプタ様式の傑作です。石窟は30あり、壁画が描かれた時期によって二期にわかれています。第1期は紀元前1世紀から後1世紀ごろで、第2期は5~7世紀ごろにあたります。
1983年、世界遺産に登録されました。


地図を見ると、
はるか向こうにある26番石窟までは、
中に入ることができるようです。


26窟あったら、26窟歩かないと
気がすまない、私たち。
朝9時から、お昼ごはんも食べず、
26の石窟をすべて歩いたら、
午後2時になっていました…。😅


2000年の時を越えて、今も残る、美しい壁画の数々。

ほんとうに、人の手でこれを掘ったのですか…?

4日め:エローラ石窟群へ。(2023年10月25日)
崖をくりぬいて造った、巨大な寺院です。


【エローラ石窟群】
アウランガーバードから30Kmほど離れた村にあります。34の石窟が、シャラナドリ台地(Charanandri hills)の垂直な崖に掘られており、5世紀から10世紀の間に造られた仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の石窟寺院や修道院(あるいは僧院、僧坊)などで構成されています。仏教寺院(仏教窟)の数は12窟で、石窟寺院群の南端に位置する第1窟から第12窟がそれにあたる。ヒンドゥー教寺院(ヒンドゥー教窟)は第13窟から第29窟までの17窟、北端に位置する第30窟から第34窟までの5窟がジャイナ教の寺院(ジャイナ教窟)となっています。それぞれの石窟は近接しており、作られた時期も重なっています。
1983年、世界遺産に登録されました。


車内でお弁当を食べながら移動し、ダウラタバード要塞へ。

要塞の石段は、あの山の頂上まで続きます。石段は700段。😂😂

最後は、ビービー・カ・マクバラーへ。「ミニタージマハル」とも呼ばれています。1678年に、アウラングゼーブ帝(の息子)が妃のために建設した霊廟です。

5日め:ムンバイから船に乗り、エレファンタ島へ。(2023年10月26日)

エレファンタ石窟群を歩きました。


【エレファンタ石窟群】
ムンバイ近海のアラビア海に浮かぶエレファンタ島にある石窟寺院です。シヴァ信仰の中心地であり、グプタ朝時代に建設が始まったとされています。16世紀、この島にポルトガル人が上陸し、巨大な石彫のゾウを発見しました。以来エレファンタ島と呼ばれています。ヒンドゥー教の石窟寺院が7窟あり、すばらしい彫刻が残されています。
1987年に世界遺産に登録されました。


午後はムンバイに戻り、豪華絢爛なタージマハル・ホテルで、ハイ・ティーを楽しみました。

夜は夫の希望で、チャトラパティ・シヴァ―ジー・ターミナス駅から電車に乗ってホテルに戻りました。

6日め:ムンバイ市内を散策。(2023年10月27日)
午前中は、チャトラパティ・シヴァージー・マハーラージ・ヴァツ・サングラハラヤ博物館へ。1922年に「西インド・プリンス・オブ・ウェールズ博物館」という名で開館した、インド有数の総合博物館です。

ランチは、パンジャブ・グリル・フォートでパンジャブ料理。この旅でいちばんおいしかった料理でした。

ランチの後はショッピングモールへ。ハイ ストリート フェニックスは、ムンバイでいちばん高級でオシャレなモールだそうです。


ぎりぎりまでムンバイで遊び、
夜のフライトで帰国しました。


7日め:ムンバイから成田へ。(2023年10月28日)
朝早く、成田空港に到着。


ほんと、毎日夜討ち朝駆けですよ…。
少しの時間もムダにしない、
これほどまでに、
濃密な(無謀な)スケジュールを組んだのは、
もちろん、多動夫です。


そして、MIYOのやりくりで、
旅行中にかかった費用は、10万円くらい。
(3人分ですよ。笑)


インドにツアーで行くと、
7日間でひとり20万円くらいでしょうか。
3人で60万円くらいかかるところを、
10万円に抑えました。
航空券が無料だったことが大きいですが、
ひとり分が33000円の、
「7日間の格安インド旅行」になりました。
(ほめてください。😄)


まるでデスマッチのように、
インドを走り続けた7日間。
疲労困憊で、日本に帰り着きました。
とりあえず、家族全員、元気です。^^


(つづく)

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 87 - カイディン帝陵① 龍の階段とバロック様式の門(2023年6月20日/7日め)

2023年6月20日 カイディン帝陵で。バロック様式で造られた、三関の坊門(牌坊)の向こうにあるのは、さらにバロック様式。😄


【お知らせ】
10月22日より、ブログをお休みいたします。
ANAのマイル半額キャンペーンを利用して、インドに行ってきます。
マイル利用で、MIYO家の航空券はいつも無料なのですが、
そのマイルが通常の半額になるというお得なキャンペーンに、つい乗ってしまいました。😅
夫がはりきってあれこれ企画しているので、またまた難行苦行の旅になる予定です。😂


6月20日(月)


フエの東にあるトゥイタイン村では、
農村の風景を楽しみました。



そして車は、次の訪問地である、
カイディン帝陵に向かって走ります。


カイディン帝陵は、フエの南にあります。

午前9時。丘の上に建つ、カイディン帝陵に到着しました。


ここで車を降りました。
チャンさんはそのまま、車内で待機。
廟の中には、私たちだけで行きます。


【カイディン帝陵】
世界遺産に指定されたフエの建造物群は15ありますが、中でも重要なスポットと言われているのが、カイディン帝廟です。グエン朝12代皇帝である、カイディン帝(在位1916年〜1925年)の廟、つまり墓所です。
先帝である11代ズイタン帝は、フランス植民地政府に対して蜂起を試みたとして逮捕され、父のタインタイ帝とともに、インド洋レユニオン島に流刑されました。ズイタン帝の代わりに、フランスによって擁立されたのがカイディン帝で、彼は親フランス的でした。政治には興味はなく、もっぱら賭博や化粧、女装に興味があったそうです。12人もの妃を娶りながらも子どもがいなかったので、「不能者」ではないかとの説もありました。が、宮中の女性に手をつけて、グエン朝最後の王である13代バオダイ帝をもうけています。

8歳で即位した11代ズイタン帝とその父・10代タインタイ帝のお話は、こちらです。
4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 78 - 王宮⑲ 幾暇園、ズイタン帝とタインタイ帝、そして閲是堂へ / グーグル翻訳に助けられて、アラビア風鶏の唐揚げ(2023年6月19日/6日め)


12代カイディン帝です。私も、なんとなく女性的な雰囲気があるなあ…と、思っていたのですが、そうですか。化粧や女装が好きだったのですね…。😅


カイディン帝は、自らの廟を建築するにあたって、フランス・バロック様式を取り入れるようにと命じました。建設は1920年に始まりましたが、1925年に、カイディン亭は結核で崩御します。が、その後も建築は続けられ、11年の歳月をかけて、1931年に完成しました。建設材料である鉄鋼やセメント、スレートはフランスから、装飾に用いる陶器やガラス器は中国や日本から取り寄せたそうです。廟としては小さいながらも、豪華絢爛で、東洋と西洋を折衷させた、いかにもベトナムらしい廟となりました。
カイディン帝廟は、小高い丘の上に建っています。まずは階段を登ると、官僚やウマ、ゾウをかたどった石像に迎えられます。廟の外観は、バロック様式の西洋風の建物ですが、細かい装飾には龍などがあしらわれ、東洋的な趣きを醸し出しています。内部の建物の壁には陶器やガラス器が嵌め込まれ、モザイク画が描かれています。壁の一つには四季を著した装飾がありますが、装飾の一部に日本のビール瓶のかけらが用いられており、NIPPONの文字が読めます。
この廟を作るために、カイディン帝は、国民に重税を課したと言われています。王宮内での建中樓、太平樓、顕仁門の建設にも、莫大な費用を費やしており、派手好きで浪費家だったようですが、少なくともフランスにとっては、最も好都合な皇帝だったのでしょう。

建中樓、太平樓、顕仁門について書いた日記はこちらです。
4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 81 - 王宮㉒ 午門、ナム・ザオ・ダン、そして顕仁門へ。(2023年6月19日/6日め)


まずは階段を上がります。豪壮なアプローチです。階段は三つに分かれていて、全部で4つの龍が走っています。

ハノイで見た、タンロン王城遺跡の「龍の階段」を思い出しました。中央の階段は皇帝専用、両側の階段は王室専用でした。
4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 49 - タンロン王城遺跡④ 敬天殿の龍の階段とドラゴンハウス(2023年6月18日/5日め)

こうして横に立つと、龍の大きさがわかりますね。^^

龍の後ろに見えるのは、バロック様式の門柱。不思議な取り合わせです。

門柱です。間近で見ると、すごい迫力。


【バロック様式】
16〜18世紀初頭にかけてヨーロッパ各国に広まった、建築・美術・文化の様式概念です。その語源は、過剰な装飾を比喩したポルトガル語の“barroco(バロッコ:ゆがんだ真珠)”だと言われています。建築分野における「バロック様式」とは、豪華な装飾や曲線・楕円などのデザインを多く用いた、動的で華麗な装飾性が特徴です。特に室内では、彫刻や絵画を含めた様々な装飾によって空間が構成されており、他の建築様式とは異なっています。

「バロック様式」の代表的な建築物としては、バチカン市国のサンピエトロ大聖堂、イギリスのセント・ポール大聖堂、フランスのベルサイユ宮殿、ドイツのツヴィンガー宮殿などが挙げられます。


ようやく階段を上がりきりました。これは門の内側です。

中央の階段から続く門は皇帝専用のため、閉じられています。(王宮の午門でも、中央の門は通ることができませんでした。)両側の門は、それぞれ、入場・出場専用です。

左側の入場専用門から入り、前日に王宮で購入したセット券を提示しました。

これで入場したと思いきや、ここからさらに次の階段が…。

そして、石で造られた三関の坊門(牌坊)をくぐります。


階段ばっかし。😂
いつも思います。
「遺跡めぐりは、体力勝負」って。
階段、嫌いなんですけどね…。


とりあえず、
「今日の私は明日の私より若い。」
と自分に言い聞かせながら、
がんばってます。😅


「あともう少しだよ!^^」


(つづく)