4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 78 - 王宮⑲ 幾暇園、ズイタン帝とタインタイ帝、そして閲是堂へ / グーグル翻訳に助けられて、アラビア風鶏の唐揚げ(2023年6月19日/6日め)
(2023/10/12 19:00記)
2023年6月19日 フエ王宮・紹芳園で。他に誰もいなくて、貸し切り状態。静かな庭園を満喫しました。
6月19日(月)
紹芳園で少し休憩したあと、
さらに次のスポットに向かいました。
紹芳園の東には、さらに、
幾暇園(Vườn Cơ Hạ)と言う庭があり、
その中に欽文殿があったのですが、
現存していません。
ここでは、
幾暇園の写真だけをご紹介しておきます。
幾暇園です。(画像をお借りしました)
【幾暇園と欽分殿(Vườn Cơ Hạ và Điện Khâm Văn)】
庭の原型は、9世紀初頭に建設されました。1837年になって、ミン マン帝がここを王室庭園に変更して拡張し、同時に多くの種類の高価な観賞用植物を植えました。しかし、この庭園が国内外で本当に有名になったのは、ティウチー王の治世 (1841年~1847年) になってからでした。なぜならこの庭園に、共同住宅、修道院、壇、寺院など、他の多くの建物が建てられたからです。それらの主要な建物を囲むように造られた長い廊下は、トゥ フォン ニン マット ホイラン(Tứ Phương Ninh Mật Hồi Lang)と呼ばれ、幾暇園を象徴するものとなっています。
現在のトゥ フォン ニン マット ホイランです。かつて、建物を囲むように廊下が張り巡らされていたのですが、現在はそれが道路に置き換わっています。(画像をお借りしました)
幾暇園は、皇太子が勉学に勤しみ、時には休息をとる場所として使われていました。特に漢詩を好んだティエウチー帝は、景勝地であるこの庭園で詩文を作りました。現在でも、詩の碑文がいくつか残っています。
幾暇園は非常に精巧で荘厳な庭園でしたが、管理に十分な条件が整っていませんでした。そのため、20世紀初頭までに、グエン王朝が庭園内の建築物を徐々に解体してしまいました。以後、華麗で豪華な幾暇園の植物も徐々に枯れ、傷つき、忘却の彼方に消えていきました。
およそ100年もの間、忘れられた庭園となっていましたが、2013年から2014年にかけて、行政による改修が行われました。現在は、洞窟、丘、古い川や湖の痕跡を復元し、庭園は緑の木々、貴重な花や観賞植物で覆われています。庭園には大きな盆栽がいくつもおいてあり、日本の盆栽と比べてみるのも楽しみ方のひとつです。
現在、幾暇園は、
広大な遊歩道みたいになっているようです。
しかし、欽文殿は復元されておらず、
基礎が残るだけです。
そこで、幾暇園には行かず、南にある、
閲是堂に行くことにしました。
閲是堂と紹芳園の間には、長い通路が延びています。通路の左側が紹芳園で、右側が閲是堂です。奥に見えているのは、興慶門。この門の向こうに、かつては欽文殿と内務府がありました。
ここで多動夫が、「もういちど日成樓が見たい。」と言い出したので、いったん日成樓まで戻りました。笑 すると、草むらの向こうに、大きな建物が見えました。どうやらあれが閲是堂のようです。
多動夫が、わざわざ日成樓の上に上がって撮った、閲是堂。元気だなあ…。😅
これは、同じ場所から撮った、かつての閲是堂です。劇場は、1945年8月の王政崩壊直後に営業を停止しました。その後の戦争で、紫禁城の他の建造物と同様に深刻な被害を受けましたが、2015年に修復工事が完了し、現在の姿になっています。(画像をお借りしました)
閲是堂まで、再び、折り戸付きの回廊を歩いて行きました。回廊では、アオザイを着たガイドさんが説明中でしたが、ベトナム語なのでわからず。笑
回廊の壁に、かわいらしい皇帝の写真がありました。即位式の日の11代ズイタン帝です。当時8歳でした。
「こんな幼い王子が皇帝になるのは、
おそらく、父帝が急死し、
彼が唯一の跡取りだったからだろう。」
…と考えるのが普通だと思います。
ですが、この王子の場合は違いました。
だって彼は8番めの子どもで、
彼の上には4人もの王子がいたのですから。
ズイタンはあまりにも幼かったため、
当初、後継者リストにも、
彼の名前はありませんでした。
【ズイタン帝(維新帝)/ Duy Tân)】
1900年9月19日生まれ。先帝は、父親である10代タインタイ帝(成泰帝)。タインタイ帝がフランスに反抗的であったため、追放されたあと、王位につきました。先帝には息子が多かったうえ、当時彼はわずか7歳。後継者のリストにすら入っていませんでした。
しかしフランスは、最も扱いやすい王子を皇帝にしたいと考えて捜索し、ベッドの下に隠れてコオロギと遊んでいた、ズイタンを見つけ出しました。埃だらけで遊んでいたズイタンは、内気で愚かそうに見えたので、フランスは即座に後継者に決めたそうです。その際、あまりに若すぎると言うことで、年齢を「8歳」に変更しました。
ズイタンはつまり、フランスの強引な決定によって王位についたわけです。が、その後彼は、成長と共に、徐々にフランスに対して非協力的な姿勢を強めていきます。そして1916年、密かに反仏の指導者と連絡を取り、蜂起を計画しました。しかしその計画は、フランスに知られてしまいます。ズイタンは逮捕され、 そのまま、インド洋のレユニオン島に収容されました。その後彼は、第二次世界大戦中に、ナチスドイツと戦う連合軍に加わったのですが、1945年、中央アフリカ共和国での飛行機事故に遭い、45歳で亡くなりました。1987年になってようやく、彼の遺体は、中央アフリカ共和国からベトナムに運ばれ、フエのドゥクドゥック廟(彼の祖父の墓)に埋葬されました。彼の墓は、父タインタイ帝の墓の隣りに置かれたそうです。
8歳で即位したズイタン(ほんとうは7歳)。
左:第二次世界大戦中に、フランス軍に入隊したズイタン。40歳を過ぎたころです。
右:死後42年もたって、遺体はベトナムに帰り、父タインタイ帝の墓の隣りに埋葬されました。
そして、彼の父親であるタインタイ帝と言えば、
覚えておいででしょうか。
延寿宮の日記で、少しだけご紹介しています。
母親である慈明恵皇后に、
人力車を贈った皇帝です。^^
4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 70 - 王宮⑪ 左恭、皇太后の人力車、タ・チュオン・ドゥ(2023年6月19日/6日め)
10代タインタイ帝と、母・慈明恵皇后
皇帝であったころ、ハノイを訪れたタインタイと王妃(のひとり)。王妃は西洋人だったようです。
実はこのタインタイ帝も、即位したときは、わずか10歳でした。
彼もまた、やがて反フランス思想を持ち、
フランス軍への反乱を画策しました。
そのため、18歳のときに、
フランスから退位を強制されました。
その後、息子のズイタンと共に、
レユニオン島に追放されています。
こうして見ると、
当時のグエン朝皇帝に、
権力はあったのだろうか。
…という気がします。
1883年に、清仏戦争で敗北した清が
ベトナムの宗主権を放棄したときから、
フランスのベトナム統治が始まりました。
その後、グエン朝の皇帝は、
「フランスにとって都合のいい者が即位し、
フランスにとって好ましくない、
と判断されると、退位させられる」
…という存在になっていきます。
フランスの植民地という位置づけの中で、
「グエン朝の皇帝」とは、50年以上もの間、
傀儡政権というか、「お飾りのような存在」
…になっていたのだと思います。
さて。
また話が脱線しました。😅
閲是堂に到着です。
【閲是堂(Duyệt Thị Đường)】
ベトナム最古の劇場です。2代ミンマン帝の命により、1826年に建設されました。閲是堂では、グエン朝時代の皇帝や皇族、外国の大使らが、宮廷音楽(雅楽)や宮廷舞踊、古典劇などの伝統芸術を鑑賞していました。
2015年に修復工事が完了し、現在ここでは、ユネスコ無形文化遺産に指定された王宮舞踊音楽を楽しむことができます。公演は1日に2回、午前10時と午後3時に各40分間おこなわれます。楽器の演奏だけでなく、ベトナムの獅子舞、アオザイを着た女性の踊り、戯曲と多彩な内容になっていて、見応えは十分です。
閲是堂内では、宮廷音楽の楽器や戯曲で使う仮面と共に、阮朝時代の衣装や写真、関連資料などを展示しており、公演していない時間帯は、無料で見学できます。
*公演は、観賞料金200,000VND(約1000円)が別途必要です。
*観客の人数が4人以下の場合は、開催されません。
閲是堂の内部です。入り口で、靴を脱いでから入ります。
舞台です。
2階から見下ろすとこうなります。
閲是堂では、毎日2回、王宮舞踊音楽(ニャーニャック)の公演が行われています。
Nhã Nhạc cung đình Huế - Di sản văn hóa nhân loại
公演は1日に2回、午前10時と午後3時に各40分間おこなわれています。
次回は、閲是堂内に展示されているものを
見ていきます。
いまここ。😄
(つづく)
(おまけのお話)
もうずいぶん前の話になるのですが、
夫が、勤務先にやってきた研修生の方から、
プレゼントでいただいた、とあるもの。
(どこの国の方であったかすらも、
もはや覚えておりません…。)
このパッケージではっきりとわかるのは、「クノール」だけです。🤣🤣
これをいったいどうすればいいのか…。
裏の絵を何度も見たのですが、
全く理解できません。
困り果てましたが、
捨てるのも申し訳なくて…。
以来ずっと、キッチンの引き出しに
入れたままになっていました。😅
でも今朝になって、ふと思いついて、
写真を撮ってみました。
改めて見ましたが、やはりさっぱりわかりません。知りたいのは、右半分の「作り方」なのですが。わずかに付記された英語を見ても、判然としません。
で、この写真を、
グーグルレンズにかけてみました。
ひゃ~。しっかりと、日本語に変わりました。😂😂
何年も放置されていた、このスパイス。
今日初めて、
「アラビア風の唐揚げ粉」
であることが判明しました。🤣🤣
…ということで、早速、
本日のお昼ごはんに使ってみました。
何年も悩んだわりには、
そんな複雑なものではなく、
「鶏肉にまぶして、
フライパンで揚げ焼きするだけ」
という、カンタンレシピでした。
うん。
イケます。😄
どこらへんがアラビア風なのかは、
よくわかりませんでしたが。笑
鶏肉のついでに、
冷蔵庫にあったオクラも唐揚げにして、
夫と、たまたまやってきた長女と、
3人で完食。
グーグル先生のおかげで、
長年の懸案となっていたことが
解決できました。
グーグル先生に助けられているのは、
料理だけではありません。
このところ、
フエ王宮の日記を連載していますが、
このグーグル翻訳に、毎日お世話になっています。
王宮に関して、
MIYOが知りたくなるような細かいことは、
日本語では、文献がないことが多いのです。
そういうときは、
かろうじてわかったベトナム語(単語)で
検索してでてきた文献(ベトナム語)を、
かたっぱしから日本語に変換して、
読み込んでいます。笑
最近のMIYOのブログをお読みいただき、
「なんでこんなに知ってるのか?」
「こんな古い写真をどこで見つけたのか?」
などと思われることがもしもありましたら、
それはひとえに、
グーグル翻訳のおかげです。😅
ほんと、便利な時代になりました。^^