MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 91 - カイディン帝陵⑤ カイディン帝が残したもの。そして、ミンマン帝陵① 左紅門 へ(2023年6月20日/7日め)

2023年6月20日 カイディン帝陵・牌坊で。


6月20日(月)


カイディン帝陵に来ています。


美しいモザイクで覆われていた、礼拝堂と墓所を見学しました。

礼拝堂の左右それぞれには、一室ずつのホールが設けられています。ここは、墓の管理者のための部屋でした。

現在は展示スペースになっており、カイディン帝の写真が多数展示されていました。典礼衣装から軍服まであり、様々なシーンで写真を残していたようです。

母親(皇太后)が住む延寿宮 (Dien Tho Residence) を訪れるカイディン帝。
延寿宮の日記はこちらです。
4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 68 - 王宮⑨ 奉先殿、延寿宮、塀風門(ヒンプン)(2023年6月19日/6日め)

馬車で、王宮の中道橋を行くカイディン帝。

トゥドゥック帝陵を訪れたカイディン帝。


【フランスかぶれだったカイディン帝】
10代タインタイ帝、11代ズイタン帝と、フランスに反旗を翻した皇帝が続き、「今度こそ、フランスの意のままになる皇帝を」とフランスが見込んだのが、12代カイディン帝(啓定帝)でした。彼は、フランスの監督下で多くの法令を制定しています。が、その法令によって、フランスに異議のある多くのベトナム人
がフランス植民地当局に逮捕・投獄されることとなりました。カイディン帝とは、まさに、フランスの意向そのものであったと言えます。
フランスはさらに、科挙を廃止して、反仏勢力となりやすい知識人の影響力を弱めました。また、公文書の表記方法も漢文からクオック・グー(現代ベトナム語)に改めました。クオック・グーは、もともと、フランス人宣教師が布教のために考案したもので、フランス語の発音と文字のルールを基にしています。が、フランス植民地時代になると、フランス語の公用語化を押し進めるための補助的な道具として利用されていきました。
1922年、カイディン帝は、マルセイユ殖民博覧会に出席するためフランスを訪問しました。その際に見た大型建造物に多大な影響を受け、王宮内の建中殿を増改築する時にバロック様式にさせるなど、その姿勢は親仏的傾向が非常に強いものでした。

フランスかぶれで浪費家だったカイディン帝は、国民から多くの批判を受けました。しかしそれ故に、その陵墓は豪華絢爛で独特の外観を呈しており、皮肉にも、現在フエに残るいくつかの帝陵の中では、カイディン帝陵が一番人気なのだそうです。今では、フランス人を始め多くの外国人が訪れる、重要な観光スポットとなっています。


カイディン帝の指示で、バロック様式に改築された建中殿。


啓成殿を出て、出口へと階段を降りました。


碑亭と華表柱。ベトナム様式とフランス風バロック様式が融合した、独特の外観です。

そして兵馬俑を思わせる石像たちは、中国の影響を色濃く残しています。

石像たちに見送られて、門を出ました。

門の外では、ドライバーのチャンさんが待っていてくれました。^^

チャンさんの運転で、次はミンマン帝陵に向かいました。

午前10時、ミンマン帝陵に到着。まずはチケット売り場で入場券を買います。

前日、王宮と各スポットを合わせたセット券を買ったのですが、手持ちの現金が足りなくて、一か所分だけ、セット券を購入できませんでした。😅 ミンマン帝陵の入場料は、ひとり150000ドン(ふたり分で300000ドン)。150000ドン(約750円)あれば、食堂のごはんが2回は食べられます。ベトナムの物価で考えるとかなり高いです。

つづいて、広い野原を歩きました。石橋を渡った先に大紅門が見えているのですが、ここから中に入ることはできません。大紅門は、ミンマン帝の遺体を運び込んだ時に一度だけ開かれたそうで、以後は閉ざされています。

大紅門の手前にある、左紅門(タホンモン/Tả Hồng Môn)です。ミンマン帝陵には3つの門(正門の大紅門、東側の左紅門、西側の右紅門)があり、現在は、左紅門と右紅門が観光客用の入口になっています。

中央に、「左紅門」という文字が見えます。

ちなみに、こちらが右紅門です。外観は全く同じで、「左紅門」の文字が「右紅門」に変わっただけのようです。(画像をお借りしました)

左紅門をくぐって、ようやく入場ゲートに到着。ここで入場券のQRコードを読み取り、中に入ります。

この時点で、私たちはなんにも知らなかったのですが、実はミンマン帝陵というのは、こーんなに広かったのです。


しかも、私たちはまだ、
ようやく左紅門に着いたばかり。😅


ここからまたまた、
難行苦行が始まりそうです。
ほんと、遺蹟めぐりは体力勝負ですよ…。😂


(つづく)

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 90 - カイディン帝陵④ 啓成殿(礼拝堂と墓所)とサクラビール(2023年6月20日/7日め)

2023年6月20日 カイディン帝陵・礼拝堂で。


6月20日(月)


カイディン帝陵に来ています。


陵のいちばん奥にある、啓成殿です。


【啓成殿】
内部に、礼拝堂と墓所がおかれています。1922年、カイディン帝はマルセイユ殖民博覧会に出席するためフランスを訪問し、その際に見た大型建造物に影響を受けます。帰国後、王宮内の建中殿を増改築する際、バロック様式にさせるなど、親仏的な姿勢を強めました。この啓成殿は、まるでヨーロッパ貴族の邸宅のようであり、フランスかぶれだったカイディン帝の、その傾向を如実に表していると言えるものです。


中央の入り口を入ったことろが、礼拝堂です。いきなり世界が変わります。

中央の拝殿には、「啓成殿」の扁額が掛けられています。

壁面は、華々しく彩られたモザイク装飾で埋め尽くされています。

四季の花をかたどったモザイクデザインは、啓成殿の特徴のひとつになっています。全部撮っているとすごい数になるので、MIYOがいちばん好きだったところを一枚だけ撮りました。

天井には、九龍が描かれています。

祭壇もこのとおり。

モザイクには、磁器やガラスなど、アジア各国から取り寄せた様々な素材が使われています。

さらに奥の部屋は、墓所になっています。金箔が施されたカイディン帝像が置かれています。

この像の地下9mのところに、カイディン帝の遺体が安置されているそうです。

この部屋の装飾もすごいです。

龍のモザイクが施された円柱が並んでいました。


さて。
啓成殿を埋め尽くしている、
美しいモザイクですが、
その素材のひとつに、
日本のビール瓶が使われています。
でも、私たちがそれを知ったのは、
帰国してからでした。
(いつも、ろくに下調べもしないで行くので、
 こんなことになります。😅)


「残念だったね。
 はじめに知っていれば、
 ビール瓶の写真を撮ったのにね。」
「ガイドさんがいっしょにいれば、
 教えてもらえたんだろうけど、
 自分たちで勝手に歩いてるから、
 どうしても見落としがあるよね。」
などと、夫と話しました。


その後、このブログを書くにあたって、
資料を調べているうちに、自分が偶然、
その写真を撮っていたことを知りました。😄


この日記の上部で掲載している写真を、あらためて見てみました。「いちばん気に入ったところ」と思って撮った一枚です。「日本のビール瓶である」とわかる有名なスポットは、赤い丸で囲まれた2か所です。

日本のビール瓶は、梅の花の枝の部分に使われています。

まずは①の部分です。三角形のモザイク片に、文字が見えます。(以下2枚、TBS「世界遺産」のサイトから画像をお借りしました。)

さらに拡大すると、「BREWERY TOKYO」の文字であることがわかります。

そして②の部分です。茶色い枝の、上からふたつめのモザイク片に、文字が見えます。

「SAKURA」とあります。1913年(大正2年)に帝国麦酒(現在のサッポロビール)が発売したサクラビールの瓶であったことがわかります。(画像をお借りしました)


なにも知らないで、
たった一枚だけ撮った、壁のモザイク画。
そこに偶然写り込んでいた、
おもしろスポットを見つけ、
ついうれしくなってしまいました。^^


(つづく)

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 89 - カイディン帝陵③ 啓成殿(外観)(2023年6月20日/7日め)

2023年6月20日 カイディン帝陵で。後ろに見えているのは、華表柱と碑亭です。


6月20日(月)


拝庭にある碑亭をのぞいたあとは、
さらに上へと階段を上がりました。


碑亭です。

碑亭はカイディン定陵のほぼ真ん中にあり、ここからさらに3層上のところに、正殿(啓成殿)が建てられています。

碑亭の両側にある階段を上がって、さらに上層に行きました。

左から、三関の坊門、碑亭、華表柱。そのどれもに、独特の装飾が施されています。

ベトナム衣装の方がいらしたので、いっしょに撮らせていただきました。

階段は、まだまだ続きます。😂

これが最後の階段。ふう…。

啓成殿に到着しました。

壁面は美しく装飾されており、殿内には、礼拝堂と墓所がおかれています。

ここで振り返ってみました。周囲に見えるのは、山ばかり。

ここに来るまでに、いくつの階段を上ってきたことか…。😂

中央にあるのが、さきほど訪れた碑亭です。啓成殿は、碑亭から数えて4層も上にあります。

正殿である、啓成殿です。こうして見ると、装飾がほんとうにすごい。^^ でも、「龍の目玉はワインボトルの底」と思うと、ちょっとほほえましいです。😄

啓成殿は、バロック様式のコンクリートで造られています。かつては白亜の正殿であったと思われます。


カイディン帝の趣味が爆発してますね。
…と思ったら、
中はもっとすごいことになっていました。


(つづく)

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 88 - カイディン帝陵② 拝庭に並ぶ石像たちと碑亭、そして華表柱(2023年6月20日/7日め)

2023年6月20日 カイディン帝陵で。拝庭に並ぶ石像たちです。


6月20日(月)


あまりにも濃すぎる、
インドの人々の熱気におされて、
派手派手のカイディン帝廟が
色あせて見えるほどです。😅


インドのこぼれ話は、
まだいろいろあるのですが、
とりあえず、ここでダイジェストは完結し、
ベトナム日記に戻りたいと思います。


前回は、カイディン帝陵の階段を上がり、正門と三関の坊門をくぐったところまででした。
4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 87 - カイディン帝陵① 龍の階段とバロック様式の門(2023年6月20日/7日め)


三関の坊門(碑坊)です。

坊門をくぐると、両側に石像が並んでいます。

これは向かって左側。右側にも、同じ石像が並びます。前列にいるのは、文官・武官たち。

そして後列には、象や馬といっしょに兵士が並んでいます。

拝庭に並ぶこの石像たちに、ぜひ会いたいと思っていました。

前列の、文官・武官たちです。

エラそうに立ってます。😄

そして後列にいる、兵士たち。足下をご覧ください。兵士たちは靴をはいていません。

石像たちを、後ろから撮りました。

そして居並ぶ石像たちの奥には、碑亭があります。


【碑亭】
石で造られており、中には、皇帝の功績が書かれた碑石(聖徳神功碑)が置かれています。龍の装飾の瞳には、フランスワインのボトルの底が使われています。
カイディン帝陵は、フランスから輸入した高価な鉄筋コンクリート製なのですが、碑亭前の牌坊や左右に立つ華表柱にもフランス風のデザインが見られます。


碑亭です。中に、皇帝の功績が書かれた碑石(聖徳神功碑)が見えます。

カイディン帝廟には多大な費用がかかったため、税金を20%上げてまかなったそうです。そのことは、当時の国民から多大な反感をかいました。そんなカイディン帝の功績ってなんだったのだろう、と思うのですが…、

碑にびっしりと刻まれた文字が読めません。たとえ読めてもわかりません。😅

碑亭の左右には、フランス風にデザインされた華表柱が建てられています。

碑亭を守る龍たち。その目にはガラス玉がはめ込まれているのですが、フランスワインのボトルの底が使われているそうです。


このカイディン帝陵は、
フエの重要な観光スポットとなっており、
毎日、多くの見学者が訪れます。


化粧と女装と博打が好きで、
贅沢三昧だったカイディン帝。
さきほど、
「カイディン帝の功績とはなんだったのか」
と書きましたが、
死後にこの廟を残し、
現在のインバウンドに貢献していることが、
彼の最も大きな功績だったのかもしれません。😅


次回は、碑亭のさらに上段に築かれた、
啓成殿に行きます。


(つづく)

もみくちゃのインド。4つの世界遺産を歩いた7日間 2 - ムンバイ電車体験(2023年10月22日-28日)

2023年10月24日 アジャンター石窟群で。


10月30日(木)


7日間の旅行費用が10万円だったことで、
昨日のコメントでおほめいただき、
うれしいです。^^
ありがとうございました。


ただしこれには、もうひとつ、
おまけのお話があります。


旅行する前、長女に訊かれて、
「ツアーで行けば、ひとり20万円くらいかな。
 インドは高いからね。」
と答えました。
すると長女、その日のうちに、なんと20万円を、
MIYOの楽天銀行口座に振り込んできました。
「私の分、払うね。」と…。


「いや、ツアーなら20万円ってことで、
 うちの旅行は安上がりだから、
 20万円もかかってないよ。
 (ほんとはひとり33000円。笑)」


…と言って、返そうとしたのですが、
長女、受け取らず、
「ううん。いいよ。
 いつもタダで連れて行ってもらってるし。」
と。


結局、今回のインド旅行は、その費用の全てを、
長女に払ってもらったようなものになりました。
(しかも、まだ10万円あまってます。笑)
長女、ありがとう~~~。😄


さて。
前回も書きましたが、
私はインドが苦手です。


20代の頃は、バックパックを背負って
世界中を歩きました。
当時、バックパッカーが最後にめざすのは、
インドだったように思います。
バックパッカーの旅行先として、
やはりインドは別格でした。


でも、私は行きませんでした。
「インドだけは、
 一生行かなくてもかまわない。」

と思っていました。
ところが。


2011年、子どもたちが高校1年の頃、
ガマンできなくなった夫から、
「どうしても、
 死ぬまでにインドにだけは行きたい。
 今回行ければ、もう思い残すことはない。
 一生、海外旅行をしなくていいから。」
と説得され、渋々承諾したのが、
1回めのインド。


もうね。
大ウソでしたね。🤣
その翌年、夫は、いけしゃあしゃあと、
「今年はエジプトだ~。
 エジプトに行ければ、
 もう思い残すことはない。」
とか言い出しましたから。
(で、2012年は、エジプトに10日間、
 家族で行ったんですよ。😅)


どうしてそんなにインドがイヤなのか、
と訊かれたら、
「あまりにも、自分と違いすぎるから」
というしかありません。


人と人との距離が近すぎて、
なにかと暑苦しくてうざくて、
それが国民性だと理解はしますが、
どうにも共感はできないのです。
(あくまで、私個人の場合、です。)


そんなわけで、
「本当は行きたくない国」
と思っているのに、結局は、
3回も行ってしまったインドでした。
けれど、
今回の旅で初めて体験してしまったことを、
最後に書いておきたいと思います。


それは旅の5日め。
10月26日のことでした。
午前中はエレファンタ島に行き、
午後は、タージマハル・ホテルで
ハイ・ティーをいただいたのですが、
夕方になって、多動夫が、
「もう一度ヴィクトリア駅に行き、
 電車でホテルまで帰りたい。」
と言い出しました。


ヴィクトリア駅です。現在は、チャトラパティ・シヴァ―ジー・ターミナス駅という名前で、世界遺産として登録されている、美しい駅です。

暮れなずむ空に浮かび上がったヴィクトリア駅は、たいそうきれいでした。

時刻は6時半。駅の中は、仕事帰りの人たちでごった返していました。

どっち向いても、インド人ばっかし。😄(←あたりまえ)

夫、列に並んで、乗車券を買ってます。

これが、3人分の乗車券です。ひとり5ルピー(約10円)。Uberタクシーでホテルまで帰れば600円くらいになると思うので、激安です。(インドでは、日本で使っていたUberのアプリがそのまま日本語で使えて、感動しました。^^ Uberのおかげで、今回のインドではタクシーを安く利用できて助かりました。)

この電車に乗ればいいみたいです。

最後尾にあるのが、女性専用車両。


「女性専用車両があるから、
 あなたたちふたりはここに乗ってね。」
と言い残して、
夫はさっさと行ってしまいました。


ちなみに、夫が乗った車両は、男性ばっかりで、激コミだったそうです。🤣

そしてこちらは、女性専用車両。あはは、ほんと、女性ばっかり。(←あたりまえ)

MIYOは、いちばん奥の、ドアの横に立ちました。

ほどなく、電車が動き出しました。あらかじめネットで調べていたとおり、インドの電車は、ドアが閉まりませんでした。ドア全開で走るのですが、みんな平気にしています。(アブナイなあ…。😅) 下の写真は、走っている電車のドアの内側から、電車の外のようすを撮ったものです。

ここで長女が、「この電車はダダールに行きますか?」と訊いたものだから、全員の注目を浴びることになりました。

「ダダールだって。」

「ダダールね。」

「そう、ダダールなのね。うんうん。」


車内の全員から見守られる中、😅
めざすダダール駅が近づいてきました。


「次の駅で降りるよ。」
「もうすぐだからね。」
などと、いろんな人が教えてくれる中、
ひとりの女性から、
「ホームはこちら側だから、
 こっち側のドアのところに来なさい。」
と呼ばれたMIYO。
逆らうのもめんどくさいので、
言われたとおりに移動しました。


「スマホはバッグにしまって。」
と言われ、
なんでそこまで言うの?と思ったけど、
逆らうのもめんどくさいので、
言われたとおりにしまいました。


すると、別の女性が、
「私の隣りにいなさい。
 私といっしょに降りるわよ。」
と言って、
MIYOの腕をしっかりと握りました。
たかが電車から降りるだけなのに、
おおげさだなあ、と思ったけど、
逆らうのもめんどくさいので、
されるがままになっていました。


電車がホームに入ったな、と思った、
次の瞬間です。
突然、その女性から、
「さあ! 降りるわよ!」
と言われました。


えっ?
あの、電車がまだ動いてるんですけど…。
今降りたら危ないんですけど…?😮


などと戸惑っているうちに、
彼女がホームに飛び降りたので、
とっさにMIYOも後に続きました。
生まれて初めて、まだ動いている電車から、
ホームに飛び降りました。😅


すぐに止まれなくて、そのままの勢いで、
ホームを走るMIYO。
MIYOの腕をつかんでいた女性も、
MIYOといっしょに走ってくれました。
(おかげで、転ばずにすんだ。😄)


彼女が、「いっしょに降りましょう。」
と言って、MIYOの腕をしっかり握ったのは、
いっしょに飛び降りるためだったのです。


このとき、ようやく、電車が止まりました。
そして次の瞬間、
ホームで待っていた大勢の人々が、
怒涛のように車内になだれ込んでいきました。
すごい勢いでした。
この大勢の人たちの流れに逆らって
電車から降りるのは、
とうてい無理だったと思います。


電車が完全に止まるまで待っていたら、降りられなくなっているところでした…。


「この国には、『降りる人が先』
 なんて言葉はないんだ。」
と、このときにようやく気がつきました。
「大勢の人が乗り込んでくる前に、
 先に飛び降りる。」
が正解で、それは、インドでは誰でもが、
普通にやっていることでした。


ほんの一瞬のできごとでした。
呆然としながらも、すごい人ごみの中で、
姿が見えない長女が心配で、
私は、ただもう夢中で、
長女の名前を呼び続けました。


幸い、長女も、他の方に助けられたようで、無事、ホームにいました。すぐに、夫もやってきました。「いやあ、すごかったなあ~」と大喜びの夫。(←アホ)


MIYOの腕をつかんで、
いっしょに飛び降りてくれた女性には、
「サンキュー! サンキュー! サンキュー!」
と、ただそればかりを繰り返しました。
あまりのことに、頭の中が混乱していて、
それしか言葉が出ませんでした。


「じゃあね」と笑顔を見せて、彼女は去っていきました。


人と人との距離が近すぎて、
なにかと暑苦しくてうざくて、
私は、そんなインドが苦手でした。
けれど、このときのできごとを思い出すと、
今でもなぜか、涙が出そうになります。


車内の全員で、私たちを見守った、
おせっかいな人たち。
私の腕を握り、抱きかかえるようにして、
いっしょに飛び降りてくれた彼女。
今まで、苦手だと思っていたインドの、
それ故の温かさが、胸に染みるようでした。


…と、余韻に浸っていたMIYOの横で、
「いや~。ドア全開で走るし、
 動いてるのに飛び降りるとか、 
 めちゃくちゃおもしろかったなあ~。😛」
と喜ぶ多動夫。


「なに言ってるの?
 こんな危ないこと、もう二度と、
 や、ら、せ、る、な~!!!」


とMIYOに叱られたのは、
言うまでもありません。😔


なにはともあれ、
全員ケガもなかったのはよかった。
そして少しだけ、インドが好きになりました。
(でもやっぱり苦手です。)


帰国するとき、空港で夫に言いました。
み「これが最後だよ。
  もう二度と、インドには来ないからね。」
夫「そういう人、いっぱいいるんだよ。
  『インドは嫌い。もう二度と来ない。』
  とか言いながら、何年かたって、
  気がついたらまたインドに来てるんだって。
  そういうのを、
  『インド病』って言うんだよね。😜」


はいはい。
インド病くらい、知ってますよ…。
とりあえず夫には、
「私は絶対にインド病にはならない。」
と、断言しておきました。


人ごみでもみくちゃになった、電車体験。
今思い出してもコワいし、
もう二度と、動いている電車から、
飛び降りたりしたくない。
(夫は、「何回でもやりたい。」そうですが。)


けれど。
笑顔で去って行ったあの女性のことを思うと、
なにか温かいものが、胸の中に蘇ります。
あのとき、電車の中で会った人々のことを、
私はこれからも、折に触れては、
思い出すのだろうと思います。


私にとってインドとは、そういう国でした。


(おわり)