4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 91 - カイディン帝陵⑤ カイディン帝が残したもの。そして、ミンマン帝陵① 左紅門 へ(2023年6月20日/7日め)
(2023/11/03 19:30記)
2023年6月20日 カイディン帝陵・牌坊で。
6月20日(月)
カイディン帝陵に来ています。
美しいモザイクで覆われていた、礼拝堂と墓所を見学しました。
礼拝堂の左右それぞれには、一室ずつのホールが設けられています。ここは、墓の管理者のための部屋でした。
現在は展示スペースになっており、カイディン帝の写真が多数展示されていました。典礼衣装から軍服まであり、様々なシーンで写真を残していたようです。
母親(皇太后)が住む延寿宮 (Dien Tho Residence) を訪れるカイディン帝。
延寿宮の日記はこちらです。
4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 68 - 王宮⑨ 奉先殿、延寿宮、塀風門(ヒンプン)(2023年6月19日/6日め)
馬車で、王宮の中道橋を行くカイディン帝。
トゥドゥック帝陵を訪れたカイディン帝。
【フランスかぶれだったカイディン帝】
10代タインタイ帝、11代ズイタン帝と、フランスに反旗を翻した皇帝が続き、「今度こそ、フランスの意のままになる皇帝を」とフランスが見込んだのが、12代カイディン帝(啓定帝)でした。彼は、フランスの監督下で多くの法令を制定しています。が、その法令によって、フランスに異議のある多くのベトナム人がフランス植民地当局に逮捕・投獄されることとなりました。カイディン帝とは、まさに、フランスの意向そのものであったと言えます。
フランスはさらに、科挙を廃止して、反仏勢力となりやすい知識人の影響力を弱めました。また、公文書の表記方法も漢文からクオック・グー(現代ベトナム語)に改めました。クオック・グーは、もともと、フランス人宣教師が布教のために考案したもので、フランス語の発音と文字のルールを基にしています。が、フランス植民地時代になると、フランス語の公用語化を押し進めるための補助的な道具として利用されていきました。
1922年、カイディン帝は、マルセイユ殖民博覧会に出席するためフランスを訪問しました。その際に見た大型建造物に多大な影響を受け、王宮内の建中殿を増改築する時にバロック様式にさせるなど、その姿勢は親仏的傾向が非常に強いものでした。
フランスかぶれで浪費家だったカイディン帝は、国民から多くの批判を受けました。しかしそれ故に、その陵墓は豪華絢爛で独特の外観を呈しており、皮肉にも、現在フエに残るいくつかの帝陵の中では、カイディン帝陵が一番人気なのだそうです。今では、フランス人を始め多くの外国人が訪れる、重要な観光スポットとなっています。
カイディン帝の指示で、バロック様式に改築された建中殿。
啓成殿を出て、出口へと階段を降りました。
碑亭と華表柱。ベトナム様式とフランス風バロック様式が融合した、独特の外観です。
そして兵馬俑を思わせる石像たちは、中国の影響を色濃く残しています。
石像たちに見送られて、門を出ました。
門の外では、ドライバーのチャンさんが待っていてくれました。^^
チャンさんの運転で、次はミンマン帝陵に向かいました。
午前10時、ミンマン帝陵に到着。まずはチケット売り場で入場券を買います。
前日、王宮と各スポットを合わせたセット券を買ったのですが、手持ちの現金が足りなくて、一か所分だけ、セット券を購入できませんでした。😅 ミンマン帝陵の入場料は、ひとり150000ドン(ふたり分で300000ドン)。150000ドン(約750円)あれば、食堂のごはんが2回は食べられます。ベトナムの物価で考えるとかなり高いです。
つづいて、広い野原を歩きました。石橋を渡った先に大紅門が見えているのですが、ここから中に入ることはできません。大紅門は、ミンマン帝の遺体を運び込んだ時に一度だけ開かれたそうで、以後は閉ざされています。
大紅門の手前にある、左紅門(タホンモン/Tả Hồng Môn)です。ミンマン帝陵には3つの門(正門の大紅門、東側の左紅門、西側の右紅門)があり、現在は、左紅門と右紅門が観光客用の入口になっています。
中央に、「左紅門」という文字が見えます。
ちなみに、こちらが右紅門です。外観は全く同じで、「左紅門」の文字が「右紅門」に変わっただけのようです。(画像をお借りしました)
左紅門をくぐって、ようやく入場ゲートに到着。ここで入場券のQRコードを読み取り、中に入ります。
この時点で、私たちはなんにも知らなかったのですが、実はミンマン帝陵というのは、こーんなに広かったのです。
しかも、私たちはまだ、
ようやく左紅門に着いたばかり。😅
ここからまたまた、
難行苦行が始まりそうです。
ほんと、遺蹟めぐりは体力勝負ですよ…。😂
(つづく)