MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 41 - にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)③/テレカ寄付のお礼とお願い(2021年6月28日/4日め)

2021年6月26日 「ファーム富田」・ドライフラワーの舎で。(北海道空知郡中富良野町)


昨年11月22日のブログで、テレフォンカードの寄付のお願いを書かせていただきました。
https://limings.muragon.com/entry/1545.html
昨日、長男が生活しているS園の園長先生からご連絡をいただき、
テレフォンカード7枚を送ってくださった方がいらっしゃるそうです。
「お名前がわからないのですが、北海道から送られたようです。」
とのことで、S園でもとても感謝しておられました。
私からも、心から、お礼申し上げます。
お名前がわからないので、ブログで書かせていただく失礼をお許しください。
本当に、本当に、ありがとうございました。
ブログを書いていてよかったなあ、と、とても幸せな気持ちになった一日でした。

改めまして、お願いを掲載させていただきます。
なにかの折りに、思い出していただけたらうれしいです。^^


【お願い】
使わないテレフォンカードをお持ちではありませんか?
今では使うことがほとんどありませんが、
長男が生活する施設では、園生にとって、テレカは必需品です。
園内の公衆電話から電話をかけるときに、使用するからです。
園では、寄付していただいたテレカを、園生に割引価格で販売しています。
そしてその売り上げは、園の運営費に充てられます。
みなさまのご家庭で、もしも不要なテレカがありましたら、
園に寄付していただけませんでしょうか。

送り先:〒191-0065
     東京都日野市旭が丘1-17-17 

     社会福祉法人 東京光の家新生園
     「テレカ寄付(MIYOのブログより)」 宛て

すみませんが、送料はご負担ください。
テレカは、新品でも使いかけでもかまいません。
どうぞよろしくお願いいたします。



6月28日


シャクヤクの花が咲き誇る、
にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)
に来ています。


まずは、
入り口からいちばん遠い、
離れに行きました。
そしれ、たも材の階段を上がって、
二階に行き、
 比田井天来の間
 扇の間
を見学しました。


写真中央は、正面玄関の塀越しに垣間見える、離れの二階部分です。ここから、日本海が見渡せます。


次は、離れの一階部分に降りてみます。
残念ながら、ここは撮影禁止で、
写真が撮れませんでした。
なので、
 黒木欽堂の間
 牡丹の間

については、すべて、画像をお借りしています。


黒木欽堂の間です。黒木欽堂の力強い筆の走りと、欄間の紫檀の彫刻が見事に調和した、落ち着きのある日本間です。(画像をお借りしました)

上の写真の右奥に少しだけ見えている、「紫檀の欄間」です。(画像をお借りしました)

牡丹の間です。「人の一生をあでやかな牡丹の花で表現した」と作者の渡風が語ったように、つぼみから散るまでを、4枚のふすま絵に華麗に描いています。 牡丹は、青山家2代目政吉の娘である政恵が、特に好んだ花でした。正面のふすま絵は、右から、「つぼみ→七分咲き→満開→散る」を描いています。散る時の絵にはつぼみが描かれており、子孫繁栄の願いが込められています。(画像をお借りしました)


さて。
豪華絢爛な写真のあとで、
このようなお写真を掲載するのは
恐縮なのですが、
この離れの「もうひとつの見どころ」
となっているので、ご容赦ください。
それは、「トイレ」です。😅


まず、二階のトイレです。当時、二階にもトイレを設けたのは、相当の財力があるお屋敷に限られていました。


【離れ二階のトイレ】
床の足置きにご注目ください。普通の足置きは、便器の方に向いています。ところが、この足置きは、「使用者が便器に背を向けて立つ」ように、置いてあります。つまり、女性が使えるようになっているのです。
このトイレのすぐ隣りに、6畳の和室があります。そこは、青山家3代目の政恵(2代目政吉の娘)が、晩年好んで愛用した部屋でした。つまり、「政恵のためのトイレ」だったのかもしれません。
当時は、ほとんどの人が、着物を着ていました。女性がこの足置きに立つと、着物の下を端折って、用を足すことができる、…ということだったようです。


トイレと、政恵が愛用した部屋の写真です。邸内には、このように、職員が手作りした案内パネルがいくつも置かれています。その内容もおもしろく、見逃せません。^^


ところで、このトイレ。
見覚えがあります。


田中本家の水車土蔵に展示されていた、あの便器です。(2021年3月27日 長野県須坂市)

コロナでも雛旅。古(いにしえ)の雛を訪ねる、4泊5日の長野・岐阜・愛知 20 - 田中本家博物館 水車土蔵(2021年3月27日/2日め) - MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと


展示されていた、便器の数々です。

レース飾りが付いた、おしゃれな便器です。^^(田中本家博物館)


そして…。
ご覧ください。


左が旧青山別邸で、右が田中本家博物館にあったものです。笑っちゃうくらい、似ていますよね。これが、この当時のスタンダードだったのでしょうか。笑


次に、旧青山別邸・離れ一階のトイレです。


美しい、有田焼の便器でした。ほおずき模様のようです。(旧青山別邸・画像をお借りしました)

(旧青山別邸・画像をお借りしました)

田中本家も、負けていません。こちらも有田焼です。明治時代、田中本家の迎賓館として建てられた客殿「清琴閣」にあったものです。

左が旧青山別邸で、右が田中本家博物館にあったものです。便器も100年たつと、美術工芸品ですね。^^


便器の話ばかり、長々とスミマセン。😅😅


庭のシャクヤクの花で、気分を変えていただいて…。😄

旧青山別邸では、建物の三方に庭があります。これは池泉庭で、家族だけが見るために造りました。この庭は、家の中からでないと、眺めることができません。


旧青山別邸の日記は、
あともう少し続きます。


(つづく)

コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 40 - にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)②(2021年6月28日/4日め)

2021年6月27日 新千歳空港で。プロペラ機(ボンバルディアQ400)に乗って、女満別に行きました。(北海道千歳市)


6月28日


「にしん御殿 小樽貴賓館
 (旧青山別邸)」

に来ています。


旧青山別邸は、コロナ禍で、
長く閉館していたのですが、
私たちが訪れた時は、
ちょうど、その一週間前に、
再開したばかりでした。
ラッキーでした。^^


「にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)」の全景です。右が旧青山別邸で、左が貴賓館です。(画像をお借りしました)

正面玄関を入ってすぐ左手に、当時のにしん漁の栄華を偲んだ昭和の名曲「石狩挽歌」ゆかりの地である記念碑と、作詩家なかにし礼氏の直筆の歌碑があります。(作詩家・なかにし礼、作曲家・浜圭介氏、歌・北原ミレイ)

そして、シャクナゲの庭、枯山水を通り、客用大玄関へ。積雪の多い北海道では珍しい、瓦葺の重ね屋根になっています。ここは立ち入り禁止になっていて、見学者は、さらに奥にある、別の出入り口を使います。

なにしろ、こんなに広いのです。すごいです。笑

わかりますでしょうか。鬼瓦は、北前船ですよ。^^

風を帆に受けた北前船が、にしん御殿を守っているかのようでした。

旧青山別邸の創建時に葺かれていた鬼瓦です。海の波が描かれた鬼瓦を、初めて見ました。中には、「水」という文字が入った瓦もあり、火災防止の祈願を込めていたのではないかと言われています。

使用されている梁の見本です。旧青山別邸では、樹齢250年以上の北海道産エゾマツを使用した梁(長さ8.1m、厚さ24cm、幅55cm)を建物の随所に用いています。これにより、居間を広くとるとともに、屋根の重みをしっかりと支えることができるのだそうです。

そして、ニシンを加工するために使われた、大きな鉄鍋(鰊釜)。当時、鋳造の盛んだった富山県高岡市で作られたもので、その材料は山陰地方から運ばれていました。

*鰊釜について書いた日記はこちらです。
コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 36 - 小樽市総合博物館運河館(ニシンが経済を回した)(2021年6月28日/4日め) - MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと


旧青山別邸の前には、
展示しているものがたくさんあり、
多動夫が、
あちこちでひっかかってしまうので、
なかなか中に入れません。🤣🤣
待っていられないので、
長女とふたりで、先に入ります。


見学者用の入り口から入ると、
まず目に入るのが、
中村不折の間です。


中村不折の間。旧青山別邸が美術豪邸とも呼ばれる所以は、絵師たちが競って描いたというふすま絵や、一流の書家たちによる数々の書があるからです。そのひとつが、この中村不折の間です。中国の詩聖、杜甫作の「飲中八仙歌」が、中村不折による力強い筆致で書かれています。


【中村不折】
明治・大正・昭和期に活躍した日本の洋画家・書家です。太平洋美術学校校長で、夏目漱石『吾輩は猫である』の挿絵画家として知られています。また、新宿「中村屋」の看板を書いたことでも有名です。

中国の書の収集家としても知られています。唐代の書家である顔真卿の、現存する唯一の真蹟といわれる「顔真卿自書建中告身帖」などを収集し、1936年に、台東区根岸の旧宅跡に書道博物館(現:台東区立書道博物館)を開館しました。


(画像をお借りしました)


ここから、通路を通って、
離れに行きました。
受付で、係員の方に勧められたので、
まずは離れの二階にあがってみます。


たも材の階段です。孔雀や蝶が羽を広げた模様を木目で表現したという、棟梁斉藤子之助苦心の作です。1段作成するのに、1週間という長い工程を要し、また、上に行くほど段差が少ないという繊細な造りになっています。たも材の木目を使って仕上げたこれほど見事な作品は、現在では他に類を見ず、にしん御殿(旧青山別邸)にあってその美しさを象徴する作品のひとつとなっています。


…の、はずですが。
階段はカバーで保護されていて、
木目模様で表現した孔雀や蝶は、
よくわかりませんでした。😅


でも、親柱をよく見ると、たしかに、木目模様がきれいに配置されているのがわかります。

離れ二階にある、扇の間です。狩野派の流れを汲、日本画の松本楓湖、今中素友、長野草風、野沢蓼州、渡風などの絵師たちが、その腕前を競って扇絵を描き上げました。

扇絵です。(画像をお借りしました)

その隣りにある、比田井天来の間です。ふすまにあるのは、帝院会員でもあった書の大家・比田井天来の力強い書です。青山家の三代目・青山民治が、青山別邸の完成に感激して詠んだ漢詩を、比田井天来が青山家に逗留して書き、素晴らしいふすまになりました。 4枚のふすまの書が、窓の外の日本海に向かって語りかけているような設えです。

比田井天来の書です。(画像をお借りしました)

この、比田井天来の間の隣りにある廊下(鴬張りの廊下ですが、残念ながら、カバーで覆われています。)に立って、外を眺めました。木と木の間に白樺の皮を入れて作成した窓からは、すぐ下に、さきほどの枯山水庭園が見えます。

そして、遠くの方に目をやると、海が見えました。日本海に面した、祝津の海です。


旧青山別邸から見えた、日本海。
それはかつて、
ニシン漁で一時代を作ったという、
あの、祝津の海でした。


(つづく)

コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 39 - 小樽市総合博物館本館から「にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)①」へ(2021年6月28日/4日め)

2021年6月26日 白金青い池で。(北海道上川郡美瑛町)


6月28日


小樽市総合博物館本館のつづきです。
前回の日記で掲載しきれなかった写真を、
一気に載せておきます。


第1号除雪車。この車両は、当時の図面や写真などから復元(原寸複製)したものです。ボディが木造です。すごいですね。^^


【第1号除雪車】
幌内鉄道の最大の悩みは積雪で、今と違って当時は機械力もなく、除雪には大変苦労しました。そこで、貨車の台車を利用して、1881年(明治14年)に、雪払車を造りました。現在のラッセル車と違い、前後の部分が上下し、積雪状況に対応できるようになっていました。この後、本格的なラッセル車が日本に登場するのは1910年(明治43年)で、アメリカから輸入したものでした。これ以後、ラッセル車は国産化され、全国に普及していきました。


それぞれの列車は、このレールで、博物館まで引き込まれてきました。長く延びた線路の先に北海道の大地と開拓時代から続く歴史があるのだと思うと、なにかジンときました。

あまり写真を撮っていないのですが、博物館の建物の中にも、たくさんの展示があります。

1910年(明治43年)に造られた、汽車汽船旅行双六です。


ここまで書き終えて、ほっとしています。笑
正直言いますと、なにしろ、
自動車ですら、
「色」しかわからない、MIYOです。😅
ショッピングモールの駐車場で、
我が家の車を見つけることができません。
白い車が2台並んでいると、
どちらがうちの車なのかわかりません。笑


「色盲」という言葉がありますが、
私の場合は、「自動車盲」ですかね…。
それくらいに機械オンチなのに、
「にわか鉄子」になってしまって、
鉄道について記事を書くというのは、
かなりキンチョウしました~。😂😂
(ちなみに、屋外の鉄道車両の写真は、
 すべて、多動夫が撮ったものです。
 そうとううれしかったみたいで、
 撮りまくっていますね。笑)


ああ、終わってよかった…。🤣🤣
そして、この項については、
いくつものコメントをいただきました。
こんな「にわか鉄子」の日記でも、
楽しんで見ていただけたことが、
とてもうれしかったです。
ありがとうございました。^^


さて。
小樽市総合博物館本館を後にして、
いよいよ、この旅最後の場所に向かいます。
(やっとかい。
 …って、あきれられてますよね。笑)


実は、この最後の場所こそが、
小樽でMIYOが
いちばん行きたかった場所なのです。
それは、祝津というところにある、
「にしん御殿 小樽貴賓館」
別名、旧青山別邸
大正時代に青山家が建てた、
豪華絢爛な別荘で、現在は、
国の登録有形文化財となっています。


すみません。
またまた、ニシンのお話です。笑


小樽駅から祝津までは、車で10分くらいです。めざす「にしん御殿 小樽貴賓館」に到着しました。


【にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)】
昭和の初期まで、小樽はニシン漁で栄えていました。このニシン漁に由来する歴史的建造物が、小樽市内にはたくさん残されています。中でも、この「にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)」は別格で、人気漫画「ゴールデンカムイ」にも登場します。北の美術豪邸とも言われており、総工費は、現在の価格に換算すると約30億円と言われています。(国の登録有形文化財)
建築したのは、小樽市祝津の青山家。ニシン漁の網元で、明治から大正にかけて、青山留吉・政吉の親子2代で巨万の富を築き、「ニシン大尽」と呼ばれていました。青山家は、小樽から留萌にかけて、漁場約15箇所、漁船約130隻、使用人約300人を有しており、1914年(大正3年)頃には、年間で1万石(7,500t/現在の価値で約25億円)以上ものニシンを水揚げしていたと言われています。

その青山家の2代目政吉が、娘・政恵と共に6年半の歳月をかけて建てた別荘が、「旧青山別邸」です。棟梁がこだわりぬいて集めたヒノキ、けやき、紫檀、黒檀、神代杉、屋久杉などの建築材、春慶塗の廊下や柱、たも材の階段など、生活空間の随所に贅が尽くされています。
隣接の「小樽 貴賓館」にある、138枚の花の大天井画も必見です。


駐車場に車を停めて、黒塀の続く道を歩きます。塀の内側に見えているのが、「にしん御殿」です。

角を曲がって、さらに直進します。

奥にあるのが、旧青山別邸の入口のようです。

ようやく到着。^^

「にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)」です。

ここから中に入ります。

門を入ると、目の前には、シャクナゲの庭が広がっていました。

その隣りは、枯山水の庭園です。ここはパワースポットになっているそうです。左手の赤松に、龍が舞い降りてきたように見える部分があるのですが、おわかりでしょうか。これは「降り龍」と言って、天から舞い降りた地上の守り神であるとされています。

「龍の部分はココですよ」という案内パネルがありました。

拡大してみますね。この部分です。そして、もう一度、2枚上の写真で、龍を探してみてください。笑


枯山水を通り過ぎたら、
次はいよいよ、
旧青山別邸に入ります。


(つづく)

コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 38 - 小樽市総合博物館本館(旧手宮鉄道施設)(2021年6月28日/4日め)

2021年6月26日 白金青い池です。(北海道上川郡美瑛町)


6月28日


小樽市総合博物館本館に来ています。


博物館の外には、数々の鉄道車両がずらりと並んでいます。すごい迫力です。

奥の方に見えている赤い建物が、「機関車庫三号」で、現存する日本最古の機関車庫です。近くまで行ってみます。


【機関車庫三号】
1855年(明治18年)年に竣工しました。現存する、日本最古の機関車庫です。北海道庁旧本庁舎(赤レンガ庁舎)にも携わった鉄道技師・平井晴二郎が設計した、レンガ造りの美しい建築です。2006年(平成18)年から3年がかりで大規模な修理が行われ、明治30年代の姿に復元されています。
レンガは長手と小口を交互に並べる装飾性の高い技法で積まれており(フランス積み)、随所に曲線を取り入れた優美な設計となっています。蒸気機関車の煙を排出する煙突や、明り取りのための越屋根のガラス窓など、実用的な設備も備えられています。
3両の車両が格納可能で、蒸気機関車大勝号(鉄道記念物)とレールバス・キハ03(準鉄道記念物)が常設で展示されています。


機関車庫三号の前まで来ました。3車両分ありますが、左端に格納されているのが、大勝号です。そして、手前に見えている橋のようなものは、転車台です。


【転車台】
蒸気機関車の方向転換のための設備です。1919年(大正8年)、横河橋梁製作所(東京)で製造されました。長さ18.8m、幅3.8mです。
この転車台は、1974年(昭和49年)まで、手宮駅構内で働く蒸気機関車のために使用されていました。現在も、イベントでアイアンホース号が運行する際は、現役で稼働しています。当初は手動・電動でしたが、現在は圧縮空気を用いる「大友式牽引装置」を動力にしています。
*アイアンホース号の入出庫の際の方向転換は、この博物館の大きな見どころなのですが、現在はコロナ禍のため、中止されているそうです。


現在も稼働している、転車台です。

そして、機関車庫三号の中に格納されている、7150大勝号の雄姿です。


【蒸気機関車大勝号】
博物館入り口に展示されていた、静(しづか)号などの7100形8両が米国ポーター社から輸入された時、故障した時に備えて予備の部品も送られてきました。この予備部品を元に、日本人の手で製造された国産第2号(形式上)機関車が、7150大勝号です。ちなみに、国産第1号機は1B1タンク機関車の860形860号で、イギリス人R・F・トレビシックの指導により、1893年に神戸工場で完成しています。

7150大勝号は、国産1号機から2年後の1895年に完成しました。製造を指導したのは渡辺信四郎、松井三郎という日本人技師であり、神戸の国産1号機と何ら遜色のない内容の機関車です。1号機であった860号は、すでに解体されていて現存していないため、7150大勝号が唯一残された最古の国産機関車ということになります。


輸入してわずか2年後に、日本人だけの力で作ってしまったというのには、驚いてしまいます。

そして、「機関車庫三号」のさらに左手にあるのが、「機関車庫一号」です。


【機関車庫一号】
1908年(明治41年)に竣工しました。向かって右側の2口が当時のもので、左側の3口は、1996年(平成8年)に復元されたものです。機関車庫3号と同じく、レンガ積みの建築ですが、設計はかなり異なります。レンガはイギリス積み(長手だけの段、小口だけの段を一段おきに積む)で、屋根は平面的に傾斜しています。
右側の格納庫には、ロータリー除雪車キ601とマックレー車キ800(いずれも準鉄道記念物)が展示されています。左端はアイアンホース号が使用しており、蒸気機関車の格納庫として、現在も現役で活躍しています。


3つの見学スポットは、こんなふうに並んでおり、国指定重要文化財となっています。(画像をお借りしました)


【国指定重要文化財・旧手宮鉄道施設】
幌内鉄道の開業以来、手宮には、機関車の整備や石炭の輸送に関わる様々な施設が置かれました。小樽市総合博物館の構内・周辺には、鉄道基地・手宮の様子を現代に伝える様々な遺構があります。
中でも、明治・大正時代に建設された機関車庫や転車台は、貯水槽、危険品庫、擁壁などと共に、北海道の近代史・産業史を考える上で特別な遺産とされ、「旧手宮鉄道施設」として国指定重要文化財に指定されています。
機関車庫・転車台は文化財でありながら、アイアンホース号が実際に使用する現役の鉄道施設でもあります。蒸気機関車が主流だった時代の鉄道システムを目の当たりにすることができる、全国的にも珍しい貴重な場所となっています。


機関車庫一号を背景に、重厚な姿を見せているのは、1959年に製造された、キ1567です。

なんだか、愛嬌のある表情です。小さいころにテレビで見た、「ロボタン」を思い出しました。^^

ロボタンです。覚えてる方、いらっしゃるかなあ。笑

「複線用ラッセル車キ550のうち、単線用ラッセル車キ100を旭川工場で改造したグループの1両。キ270同様両脇の補助灯はシールドビームとなっている。」と、ネットで説明がありましたが、なんのことやらわかりません。笑


なんか、今日のブログでは、
「にわか鉄子」になってしまいました。笑
鉄道のことなんて、
なにも知らないんですけどね…。汗


キ1567と、「国指定重要文化財・旧手宮鉄道施設」の案内パネル。なにも知らないで、すごいところに来てしまいました…。


鉄道のことが、
好きで好きで、たまらない…。


この博物館は、きっと、
そんな人たちによって作られ、
大切に保存されてるんだろうなあ…、
と思いました。


(つづく)

コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 37 - 小樽市総合博物館運河館(第二展示室)から小樽市総合博物館本館へ(2021年6月28日/4日め)

2021年6月28日 小樽運河・浅草橋で。(北海道小樽市)
*同じような写真を掲載していますが、実は、全部違う写真です。同時に何枚か撮ってもらったので、順番に掲載しています。笑(しつこくてスミマセン。)


6月28日


小樽市総合博物館運河館に来ています。
明治26年に建てられた、
「旧小樽倉庫」を利用した博物館で、
建物を見るだけでも、
訪れる価値のあるスポットです。


博物館は、
 第一展示室と
 第二展示室
に分かれていて、
ここまでに見て来たのは
第一展示室で、展示内容は、
小樽の歴史と深く関わっていました。


【小樽の歴史と第一展示室】
小樽は、①アイヌ文化の長い歴史の後、②江戸時代後半に始まるニシン漁業と、③明治時代以降の港湾整備によって発展した街です。④明治から大正にかけては、北海道の玄関として、また北海道一の経済都市としてその名をとどろかせました。そして小樽運河はその繁栄を象徴する存在でした。
第一展示室では、アイヌの時代から近代までの小樽のあゆみを、さまざまな角度から紹介しています。北海道と本州を結んだ北前船に関する資料、ニシン漁業に関する資料、小樽のまちの変遷を記録した古写真と古地図が主な見どころです。
また展示室後半には、小樽がもっとも華やかであった大正時代の街並みを復元しています。


展示内容は、わかりやすくまとめられていて、
とても見ごたえのある博物館でした。
特に、北前船に関する展示は、
すばらしかったです。


北前船は、物だけではなく、人や文化も運んでいました。関西、北陸、そして東北などの寄港地の文化は、北前船によって、北海道に伝えられていったのです。その寄港地であった小樽は、江戸時代後期から明治中期まで、北海道における文化の上陸地となりました。


小樽という町は、
当時の北海道にとって、最先端の、
キラ星のような存在だったのですね…。^^


つづいて、第二展示室に行ってみました。
こちらでは、
小樽に生息する動植物の展示を中心に、
小樽の自然の姿を紹介しています。


あまり時間がとれなかったので、
こちらはさっくりと、
写真だけ、掲載しておきます。


トドの骨格標本。2006年、小樽市銭函の海岸に漂着しました。雄のトドで、体調は3m20㎝。このような巨大な動物が暮らすためには、たくさんの餌や広い生活空間が必要です。彼らの存在は、小樽の海の懐の深さを教えてくれているそうです。

小樽に生息する動植物

小樽に生息する代表的な種類を網羅した、昆虫標本のコレクションもありました。

縄文時代の人々の暮らし

忍路土場遺跡出土物


第二展示室をかけ足で見学し、
次のスポットへと急ぎます。
…って言ってますけど、
みなさん、お忘れと思いますが、
この日は旅行の四日目。
今日のフライトで東京に帰る予定です。笑


東京に帰る日なのに、
この観光内容の充実ぶり。
(いえ、充実しすぎです。)
アホじゃないかと言われそうですが、
これだけもりだくさんに
あちこち行かなければならないのは、
すべて、企画した多動夫のせいです。😂😂


すみません。あと2か所、行きます。
(↑ウソだろ。)
あきれられていると思いますが、
もう少しだけ、おつきあいください。😅


旧小樽倉庫の中で売っていた、賞味期限の近いお土産。なんと、50%OFFでした! コロナ禍でお土産が売れ残って、どこもたいへんだったのだと思います。絶対に買いたかったのに、あわてて次の場所に移動したので、買いそびれてしまったのが心残りです。笑


…ということで、
小樽市総合博物館運河館を後にし、
夫の運転する車で次に向かったのは、
小樽市総合博物館本館
この博物館では、
 小樽市の歴史と自然
 北海道の交通史
 科学技術
をテーマとした展示を行っています。


ここでの見どころは、
蒸気機関車「しづか号」をはじめ、
北海道を代表する50両もの鉄道車両が
保存・展示されていることです。


小樽市総合博物館本館。車両が横付けされているのが、おわかりでしょうか。笑

大きくて立派な建物です。

券売所です。交通博物館だけに、入り口は「改札口」となっていました。笑

改札口を入ると、いきなり、蒸気機関車「しずか号」に出会えます。

がんばって写真を撮っています。^^

このとき撮った写真です。


しずか号は、米・H.K.ポーター社が製造したものでした。

開拓便号の模型です。1880年(明治13年)、第1号蒸気機関車「義経号」、第2号「弁慶号」と共にアメリカから輸入された、最上等客車で、当時は「第1号客車」と呼ばれていました。内部には、「飲水器、水洗トイレ、ストーブ、ランプなどが備えられ、中央の両側には鏡がかけられていました。開拓便以外の用途として、明治政府高官や皇族などの専用車両としても使用されました。実物は、現在、埼玉県の鉄道博物館に保存されています。

一等客車い1号。1892年(明治25年)、アメリカから輸入した客車をモデルにして、初めて北海道で作られた一等客車です。台車はアメリカのハーラン・アンド・ホリングスウォース社より輸入しました。当初は貴賓車としても使用されました。1963年(昭和38年)、定山渓鉄道から寄贈され、国鉄の苗穂工場で復元修理を行って復活しました。

中央にストーブがありますね。^^

天井部分の装飾も見事です。


もうね…。
多動夫に引きずり回されたあげくに、
鉄道のコレクションまで見るとは、
思っていませんでしたよ。笑


あまりにも充実しすぎの、
小樽観光です。
次回は、
展示されていた鉄道の数々を
ご紹介します。


(つづく)