コロナでもウポポイ2。札幌を拠点に3人で歩いた、3泊4日の北海道 37 - 小樽市総合博物館運河館(ニシンが経済を回した)(2021年6月28日/4日め)
(2022/01/02 16:26記)
2021年6月28日 小樽市総合博物館で。(北海道小樽市)
はじめに、お礼申し上げます。
昨日、2022年1月1日午後3時に、ブログの読者登録者数が、1000人になりました。
なんか、お正月早々、お年玉をもらったような…。笑
これです。^^
…で、この数字って、毎日増減しますので、翌日(1月2日)には、998人に減っておりました。爆
わずか一日でしたが、1000人という数字にようやく到達したことを、
とてもうれしく思いました。
2017年1月からブログを始め、ちょうど5年になりました。
本日の記事が、1578件めになります。
よくここまで続けてきたなあ…と。(自画自賛です。スミマセン)
数字がすべてではないですが、それでも、
たくさんの方々が読者登録してくださっていることを、素直に喜びたいと思います。
そして、読者登録の有無に関わらず、
このブログを読んでくださっているすべての皆様に、心からお礼申し上げます。
6年目の今年も、無理のない範囲で、コツコツと書いていきたいと思います。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。
6月28日
小樽市総合博物館運河館に来ています。
北前船についての展示のつづきです。
小樽倉庫の模型です。この建物の半分が、現在は、小樽市総合博物館運河館になっています。
建設中の小樽倉庫の写真が残っていました。
屋根に飾られているしゃちほこです。
この小樽周辺には、もともと、アイヌの人々が長く暮らしていました。けれど、18世紀中ごろから、和人社会の影響が強くなり、次第にアイヌ文化が見られなくなっていきます。しかし、「オタル」という地名の語源そのものがアイヌ語であるように、小樽の歴史の基盤には、アイヌ文化があるそうです。
その小樽で、江戸時代から明治時代にかけて、日本海海運で活躍した、北前船。
明治末から大正期、港は、こんなにも多くの北前船でにぎわっていたそうです。一航海で数億円の荷を運んだ北前船。帆は風をはらみ、威風堂々です。(画像をお借りしました)
その北前船の最終寄港地が、
北海道でした。
北海道で、満載した積み荷を降ろしたあと、
代わりに積み込んでいった物の中でも、
大きな位置を占めたのが、
北海道の鰊(ニシン)です。
ニシンは、北海道で、
身欠きニシン
肥料
魚油(ぎょゆ)
の3つに加工され、
北前船の西廻り航路
(北海道から日本海を通って大阪まで行く航路)
で各地に運ばれました。
当時、ニシンを獲ったり加工したりするために使った道具の数々です。
小樽近郊のニシン漁の様子です。
【ニシンによる経済の循環】
ニシンを加工するためには、直径1.3メートルほどもある大きな鉄鍋(鰊釜)が使われました。当時、鉄鍋の産地は、鋳造の盛んだった富山県高岡市で、その材料は山陰地方から多く運ばれました。また、ニシンは藁(わら)で包んで俵にして運びますが、当時米が採れなかった北海道には、藁がありませんでした。そこで、新潟や北陸から運ばれた藁を利用しました。これらはいずれも、北前船が運んでいたのです。
また、ニシンを使った肥料は、北海道から瀬戸内に運ばれ、その肥料は、綿を育てるために使われました。当時、綿を使った衣類は高価で、北陸や東北、北海道では、そのまま着ることはなく、古手(古着)をいったんほどき、楮(こうぞ)など樹皮繊維を混ぜて織り直しました。そうやって造られた裂織(さきおり)は、庶民や船乗りに広く利用されました。
自分の地域にない物を、北前船を利用して仕入れ、新たな製品を作って売るという商いのスタイルが、こうしてできあがっていきました。北海道(ニシン)を軸に、日本の経済が循環し、成り立っていたといえます。
鋳造の町として有名な、富山県高岡市金屋町です。古い町並みが、およそ500mにわたって今も残っています。石畳の道と格子造りの古い家並みが見事に調和していて、すばらしいです。この町で鉄鍋(鰊釜)が作られ、北前船で北海道へと運ばれました。(2020年7月24日)
青森屋の室内に飾ってあった、南部裂織のタペストリーです。北前船で運ばれた綿が貴重品であったため、樹皮繊維を混ぜてかさ増しし、織り直しました。素朴な美しさの裂織には、こんな時代背景があったのですね…。^^(2021年5月 青森県三沢市)
この一年で旅行した、日本の様々な場所が、
北前船を介して、
ここ、小樽とつながっていました。
なつかしく、そして感慨深い、
展示の数々でした。
北前船、ニシンに関する展示のあとは、
生活歴史に関する展示です。
明治末から大正期の商店3店舗を
復元展示していました。
海陸物産商店。小樽や札幌の軟石を利用した石造店舗で、農産物、海産物を主として取り扱い、現在の商社的な商いをしていました。明治から大正にかけて、数多く建築されてきた石造建築は、小樽の街並みを造りあげてきました。
店の構えは純日本風。帳場格子の中には、帳場さんといわれた番頭が座り、店員たちは、通常、奥に設けられた事務所に控えていました。
この暖簾の奥が事務所です。
日本中どこでも、商店の入口に必ず置いてあった火鉢。夏でも火を絶やすことはありませんでした。マッチがなかった時代、客は、まずこの火鉢に近づいて、煙草に火をつけて一服するのがあたりまえだったのです。
文具雑貨店。明治末から続いた木造雑貨店舗の姿を残しています。土間と畳敷きの間には、上り框(かまち)を設け、家人と客との境として商談が行われました。取り扱う商品も、文具品にとどまらず、タバコ、櫛、笄(こうがい)、お茶、絵はがきなどと多岐にわたっていました。
西洋小間物店。小樽では、明治から大正にかけて、外国製品をまじえた小間物店があいついで開店しました。店内はハイカラムードで、商品も当時としては目新しいものが多く、木張りの床と椅子を利用した商いは、当時の洋品小間物店のシンボルでもありました。
こういう家屋に来ると、いつも、
「二階にも上がってみたいなあ…。」
と思ってしまいます。
(多くの場合、立ち入り禁止になっています。)
その願いは、11月の札幌の旅で、
いやというほど実現するのですが、笑
それはまだまだ先の話です。^^
(つづく)