MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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コロナでも上州2。からっ風に吹かれて歩いた群馬 2泊3日の湯めぐり旅 22 - 積善館④ 本館・歴史資料館②と湯車(2023年1月17日/2日め)

2023年1月17日 積善館の湯車です。令和になってから、100年前と同じ場所に再建されました。(群馬県吾妻郡中之条町)


1月17日(火)


積善館・本館で、
歴史資料館を見学しています。


まずは、中の間から上段の間へと、
まっすぐに歩いてみました。
そして再び入り口まで引き返し、
今度は左手に進みます。


宿泊者が残して行った絵馬が吊るされていました。

積善館の由来:1691年(元禄4年)、現在の場所に、関善兵衛が現帳場と宿(現在の積善館本館の建物)を造りました。その3年後に旅籠宿として開業したのが、始まりです。明治時代に入り、第15代関善兵衛が「積善館」という名にしました。中国の経典「易経」の中の言葉にちなんでいるそうです。

絵馬の奥にある部屋です。ここはかつての帳場でした。

作り付けの物入れの中には、大きな金庫が組み込まれていました。

帳場の手前には、積善館のゆかりの品々が展示されていました。

べっ甲の櫛と簪。「小間物化粧品 星田商店 電話一番」というラベルが楽しい。笑

沈金梨子地前菜入れ(左)と、関家の家紋が入った重箱(右)。

「蒔絵 摘草弁当」とありますが、これは携帯用のお弁当箱で、いくつものパーツが組み込まれています。つまり「提重(さげじゅう)」ですね。


初めて提重を見たのは、2年前。長野・田中本家博物館で、床の間に飾ってありました。江戸時代の貴重なものであるにも関わらず、ご当主が、中に収められていたものをひとつひとつ取り出され、実際に手に取って拝見させてくださったことに、とても驚きました。(2021年3月27日 長野県須坂市)
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北海道・仙台藩白老元陣屋資料館に展示してあった提重。仙台から、はるばる北海道まで運ばれました。(2022年6月21日 北海道白老郡白老町)
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徳川美術館に展示してあった、福君の雛道具 菊折枝蒔絵雛道具(提重)」は、豪華絢爛。まばゆいばかりでした。(2021年3月30日 愛知県名古屋市)
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その後も、
旅先で何度か、提重を見ているのですが、
ブログには掲載できておりません。汗


以前は、博物館などで提重を見ても、
ただ通り過ぎていただろうと思います。
「提重」という言葉すら知りませんでした。


けれど2年前、
田中本家博物館で美しい提重を見て以来、
「提重」というものに
愛着を感じるようになりました。
今では、
どこかで展示されているのを見ると、
必ず立ち止まって、
じっくりと眺めてしまいます。


「提重」を知ったことにより、
私の物の見方が少しだけ変わりました。
そして、おもしろいと思える世界が、
より広がったように感じます。
それは、旅が私におしえてくれたことでした。


提重を見るたびに、いつも、
「知る」ということは、すごいことだな、
と思います。^^


中の間に展示されていた品々です。書類や書状も残されていました。

歴史資料館の外にある庭を歩いてみました。手前は足湯のようですが、かつてはこのあたりに源泉の溜池があったようです。その奥に、水車が見えます。

近づいてみました。湯気があがっています。これは水車ではなく、「湯車」というものでした。


【湯車】
庭で蒸気を放ちながら動く水車を、積善館では古くから「湯車」と呼びました。かつては、脇を流れる新湯川から湧き出る源泉を、溜池に引き込み、湯車で攪拌していました。これによって湯の温度を調整し、さらに高い場所に送って「打たせ湯」にしたりしました。高温の源泉をいかにして利用するか、その時代ごとに様々な工夫があり、湯車はそのひとつでした。
明治14年ごろの版画には、川の流れを利用する「水車」と、その水車の力によって動かされる「湯車」が描かれています。この版画に倣い、積善館では、令和の庭改修時に、版画とほぼ同じ場所に湯車を再現しました。


積善館を描いた版画です(明治14年頃)。源泉の溜池や、水車によって動く湯車が描かれています。

明治30年代の積善館本館(版画)。現在とほぼ変わらない佇まいで、やはり湯車が描かれています。昭和に入ってから、背景の山の斜面に、山荘と佳松亭が建てられました。


100年前の積善館でも、
こんな湯車が回っていたんですね…。
湯気をあげながら健気に働き続ける、
そんな湯車のようすが、
目の前の湯車と重なりました。


(つづく)

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