埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 26 - ニャウンシュエからタジーへ(1987年5月7日/7日め)
1987年5月7日 タジー駅で。(ビルマ・タジー)
1987年5月7日(火)- 7日め
ニャウンシュエを出発したあと、
私たちを乗せたピックアップトラックは、
山の中の村々で何度も停車しながら、
のんびりと走り続けました。
途中、休憩で寄った町です。私たちがトラックを降りると、たくさんの食べ物売りに囲まれました。その多くは子どもと女性です。
この町には、りっぱなトイレがありました。
…で、ここでまた、困るわけです。
一体どっちに入ればいいのか。🤣
あててみてください。^^
まあこういうときは、
他の人についていけばいいんですけどね。^^
一応、正解は、左が男性用、右は女性用です。
グーグルで翻訳すると、
左は「虎」と翻訳されるのですが、
右は、どうしても翻訳されませんでした。
(なぜ?😮)
このあとも、山の中をどんどん走り、
あたりが薄暗くなったころに、
「村の小さな食堂」みたいなところで、
晩ごはん休憩。
メニューにかろうじて英語があったので、
チャーハンと肉野菜炒めみたいなのを
食べた記憶があります。
道中が長かったので、トラックの中で、
MIYOはほとんど寝ていました。
山道で、ものすごく揺れるんですけどね。笑
トラックの荷台のいちばん端っこの、
出入り口に近いところで、爆睡。
「こんな状態でよく寝られるなあ…。」
と、夫はあきれていたそうです。
そのうち、MIYOの上半身がずれて、
トラックからはみ出してしまったようです。
夫は、他の乗客から、
「危ない。落ちるから、ここで寝させるな。」
とか言われたそうです。🤣🤣
始発から乗った私たちは、
かろうじてイスに座れましたが、
トラックの中は満杯。
途中の村から乗り込んできた人は、
みなさんすごい荷物で、中には、
野菜を満載したザルを持っている人とか
カゴに生きてるニワトリを
5羽くらいつめこんだのを持ち込む人もいて、
トラックの荷台はもうもみくちゃ。笑
そんな中でも、爆睡し続けたMIYOは、
エラいと思います。(アホ)
ぎゅうぎゅう詰めなのもさることながら、
普通のトラックの荷台なので、
走っていると、風がすごいんですよね。
髪がボサボサになるし、
いちいち手でおさえていてもキリがないので、
途中から、タオルでほっかむりしていました。
そんなこんなで日が暮れて、
あたりが真っ暗になった頃、タジーに到着。
時刻は8時15分。
ギリギリでしたが、発車時刻に間に合いました。
このときのMIYOです。もうね。優雅な旅からはほど遠い状態。😅
トラックを降りてタジー駅へ。ここで乗車券を買いました。勝手がわからなくてまごまごしていたら、居合わせた方が手伝ってくれました。^^
乗車券も、無事、買えました。夫がアルバムに貼ってあったものです。
1987年5月7日
2号車 B3とB4
発車時刻 8:30PM
荷物を置く棚は、6番の下側
…と、すべて手書きです。 😄
そして反対側には、
EXPRESS THAZI TO RANGOON
旅行者限定
…と、すべてハンコです。😄
「旅行者限定」と書いてあるのは、
おそらく、「戦後のかつぎ屋」みたいに、
大量の荷物を運ぶような人はだめ、
という意味かと。
(当時ビルマでは、闇屋が横行していました。)
出発時刻は 8:30PM と書いてありましたが、
その時間を過ぎても、待てど暮らせど、
電車は来ませんでした。
まあ、日本以外の国では、
「電車は時間通りに来ないのがあたりまえ」
と思っているので、驚きません。
唯一の心配は、故障などが原因で、
この列車自体がキャンセルになってしまうこと。
(ないとはいえない。)
当時、タジー駅にホームなんてものは
なかったような気がします。
真っ暗な線路の脇で、大勢の人が、
電車が来るのを待っていました。
もちろん私たちも、そのひとり。
もとい、そのふたり。笑
「大丈夫かな。電車が来なかったら、
明日、ラングーンに戻れないよ。
そしたらあさっての飛行機に乗れなくなる。」
夫の頭の中は、
「なんとしても、11日に出社しなければ」
とそればかりで、はらはらそわそわしていました。
(↑悲しいサラリーマン。)
1時間が過ぎたころです。
遠くでポーッと音が聞こえました。
電車の音です。
音がする方に目を凝らすと、
電車が近づいてくるのが見えました。^^
「やったーーーーーーーーー!!
電車が来た!
やった、やった、やった、やった。」
興奮して、MIYOに抱きついた夫。
その次は、MIYOに手を出してきて、
固い握手。😅
「ついにやったね。
やりとおしたね。
これで日本に帰れるよ!」
(↑悲しいサラリーマン。)
浮かれまくる夫。
ふうん…。そんなにうれしいものかね?🙄
帰れなくなったら、それはそれでいいじゃん。
なんて、のんきに考えていたMIYOは、
いまひとつ、夫の派手な喜び方に
気持ちがついていかないのでした。
(↑悲しいサラリーマンとのんきなサラリーマン。)
まあもっとも、ビザで許されている滞在は
7日間だけだったので、
期限を越えてしまったら、
拘束されてしまう可能性もあったのですが。
でも、今思い出しても、
あのとき夫がコワがっていたのは、
ビルマ政府ではなく、
絶対、職場の先輩だったと思います。😂
なかなか電車が来なくて、1時間もヒマだったので、MIYOはお買い物。かわいい女の子から、ヤギの皮の小さなイスをふたつ買いました。(ほんと、のんきです。😄)
無事列車に乗り、夜9時半に出発です。
列車が動き始めました。
ああ、よかった。
これであとは、寝てるだけ。
明日の朝はラングーンです。^^
…と思っていたのですが。
5月2日に、
ラングーンからマンダレーに行ったときは、
チケットでは、「1号車」になっていました。
そして今回は「2号車」。
ここに大きな違いがありました。
ラングーンからマンダレー行きの1号車は、こんな感じでした。一等車だったので、クッション入りシートに布カバー。マンダレーまでひと眠りの、快適な旅でした。
このときの日記です。
埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 1 - バンコクからラングーン、そしてマンダレーへ。(1987年5月1日-2日/1日め-2日め)
そして今回乗った2号車は、二等車。
座席は、全部、木でできていました。😂
このときの写真を撮っていないのですが…。
まあ、だいたいこんな感じ。これは、2018年に撮った泰緬鉄道の車内です。(画像をお借りしました)
このイスがですね…。
もうね、つらいんです。😂
全部木でできているし、曲線が全然ない。
だからすぐに、お尻が痛くなってきます。
このイスでひと晩過ごすとどうなるか。
横向きに座ったり、寝転がったり、
靴を脱いで後ろ向きに正座したり、
うつぶせになったり、逆立ちしたり…。
あれこれ試してみましたが、
どんな体制になろうと、体が痛くなるんです。
これに、一晩中座っていたわけで…。😅
ほとんど寝られませんでしたね。
(ピックアップトラックの方がずうっとマシです。)
夫に訊くと、
「1号車はいっぱいで、
2号車しか買えなかった。」
と…。
ラングーンから乗ったときは始発だったので、
1号車の乗車券が買えたけど、
タジーからは途中乗車になるので、
1号車は売り切れてしまっていたようです。
ここまで書いて思い出したのが、
2023年11月にでかけた、北海道の旅です。
北海道博物館で、とても楽しい物を見ました。
そのときの日記です。
無料で行けた札幌。美味しいものを食べ歩いた3日間 1 - ウトナイ湖、北海道博物館、そして「千歳鶴 吉翔」で晩ごはん(2023年11月28日/1日め)
館内で、大正時代中頃の冬、倶知安(くっちゃん)から小樽へ向かう列車の車内の風景が再現されていました。それがとてもリアルなのです。(以下6枚:2023年11月28日 北海道札幌市)
二等兵(23歳)と車掌(35歳)。年齢まで細かく設定してある、その演出が泣かせます。🤣
左手前から、農家の娘(23歳)、農夫(40歳)、大工(35歳)、杣夫(そまふ・50歳)、晴着の娘(6歳)、晴着の夫(40歳)、晴着の妻(35歳)、女学生(17歳)。
*杣夫(そまふ)とは、木こりのことです。
左から、少年(10歳)、老人(60歳)、商人(40歳)、漁夫(30歳)、馬喰(50歳)、角巻の婦人(50歳)。
左奥から、官員(40歳)、中学生(17歳)。パネルによる人物説明はここまででした。
(解説文より)車内には石炭ストーブが置かれています。乗客たちの服装には、綿入れ、刺し子、つまごなどの伝統的な農漁村の冬の服装に加え、頭巾、角巻など、和服形式の防寒着も見られます。また、背広や学生服、マント、オーバーなどの洋服、革靴などが普及しているようすもうかがえます。
当時の列車内の様子が詳細に再現されていて、
とても楽しい展示でした。
…で。
なにが言いたいのかというと、ですね。
コレです。座席をご覧ください。
座席の背もたれは木で作られているのですが、
座る部分は布張りで、
クッションタイプになっています。
それに対して、私たちが座っていたのは、こんな感じだったわけで。🤣
1987年の、タジー発ラングーン行き。
急行・二等車のイスの座り心地は、
大正期の北海道の列車にも、
負けてしまってました…。😅
楽しかった、北海道博物館。夫は65歳以上だったので、入場無料でした。😄
MIYOも、今度の誕生日がきたら、
無料になります。
何回行ってもタダ。
それならば、またぜひ行こうと思います。🤣
(つづく)