コロナでもポロト湖。星野リゾート 界 ポロト スイートを無料で楽しむ 16 - 仙台藩白老元陣屋資料館②(2022年6月21日/5日め)
(2022/07/16 16:00記)
2022年6月21日 「仙台藩白老元陣屋資料館」で。当時築かれていた陣屋のジオラマです。(北海道白老郡白老町)
6月21日(火)
「仙台藩白老元陣屋資料館」
に来ています。
前回は、概要を書きましたが、
仙台を出立してからの一行の記録を、
もう少し詳しくご紹介します。
1857年(安政4年)、御備頭三好監物は、白老詰後立として、46名の供を率い、蝦夷地へ向かいました。
様々なものを長持に入れて、人力や馬力で運びました。
こんなものまで持って行ったようです。左は提重。当時のお弁当箱です。
仙台から白老までの所要日数は、順調に行けば19泊ほどでした。が、青森での船待ち、渡海、それに風水害による滞留などが加わり、一ヶ月以上かかるのが常でした。藩士は、仙台の北で藩主に見送られ、一の関、盛岡、七戸を通って青森へ。さらに青森で船を雇い、潮の流れの激しい津軽海峡を渡りました。
箱館からは、8泊程度で白老に着きます。しかし、出張陣屋勤務の藩士たちは、白老からさらに陸路を厚岸や根室へと向かいました。また、択捉、国後詰めの藩士はそこから舟に乗り、任地へ向かわなければなりませんでした。
青い丸で囲んだところが、左から、
白老、厚岸、根室、国後島、択捉島です。
こんな遠いところまで、
行った(=行かされた)んですね…。
元陣屋の図面(右)と、現在の航空写真(左)です。当時のままの形状をとどめているのがわかります。白老元陣屋は、1856年(安政3年)の警衛初年度中に、土塁や主な建物の建築をほぼ完了しました。
白老元陣屋絵図
盛岡市中央公民館に収蔵されていたもので、当時の元陣屋の姿を立体的に描いたものとしては、唯一の貴重なものです。外曲輪、内曲輪合わせて十数棟の建物がありました。
当時の陣屋を再現したジオラマがありました。
土塁の内側に、本陣、勘定所、兵具蔵、穀蔵、井戸、厩が並んでいます。
さらにその手前には、藩士たちが住んだ長屋が建ち並んでいます。
ここには、稽古場と長屋がありました。
【陣屋の武士たち】
白老の仙台藩元陣屋には、百人を越す武士たちが駐留して、北方警備にあたっていました。彼らの士風を引き締めて鼓舞することは、責任者である御備頭の最大の任務でした。そのため、藩兵たちの訓練もきびしく行われていました。
毎月一回の兵学講義を始め、武芸の稽古、火縄銃や大筒の撃方訓練、さらに実戦さながらの訓練を行う修羅前などを積極的に行いました。
修羅前の訓練をしているところです。
【陣屋と地元の人々】
藩兵と地元のアイヌとの交流は掟で禁じられていましたが、勤務が当初の1年から2年以上へと長期化するとともに、相互の交流も自然に深まって行きました。
下の図は、オムシャという儀式を描いています。語源はウムシャ(久しぶりに再会した者同士が行うアイヌの礼式)でしたが、ここでは、知行主の役人が年一回、漁の終わる初冬にアイヌを集めて政令を伝え、酒肴を与えて恩恵を施す儀式となっていました。役人の前で手を付いているアイヌの人々が、そろって陣羽織を着ていることから、すべて長老クラスであったことがわかります。
三好監物のシントコ(本州で作られた、漆塗りの器)です。アイヌは産物と引き換えにこれを手に入れ、宝物として、大切に保存してきました。ここに展示してあるシントコは、三好監物が当時の総乙名に与えたものと推定されています。陣屋の建設や警備体制の維持には、地元民の協力が必要であり、代々の御備頭は、アイヌには相当気を遣ったと言われています。
こんな大砲まで、仙台からはるばる運んできて、訓練を行っていました。
火薬入れ、白石藩家臣紺野家に伝わる槍(穂先)と三好家の家紋の入った槍鞘、鉄扇です。
槍と火縄銃。
当時の仙台藩は、資金難にあえいでいました。
そのため、白老に送った大砲も、
当時としてもかなり旧式のもので、
実戦では役に立たないものだったそうです。
そんな武器を与えられ、日々、
訓練に励んでいた藩士たちの胸中は、
どのようなものだったのでしょうか…。
故郷を遠く離れ、厳寒に堪えながら、
仙台藩士たちが苦労して築いた陣屋でしたが、
やがてその歴史に幕を閉じる日が、
刻々とせまっていました。
(つづく)