MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 19 - スラマニ寺院②(1987年5月5日/5日め)

1987年5月5日 スラマニ寺院のフレスコ画といっしょに。(ビルマ・パガン)


1987年5月5日(月)- 5日め


かつては、
「最高の宝石」「小さなルビー」
と称された、スラマニ寺院に来ています。



【スラマニ寺院(Sulamani Temple)】
1183年に建立された2層構造の寺院で、バガンの遺跡の中でも特に保存状態が良いことで知られています。堂内には、東西南北を向いた仏坐像が安置されています。注目は、回廊の壁面に見られる11世紀のフレスコ画。これほどまで鮮明に残っているのはバガンでも貴重で、生き生きと描かれた壁画からは、当時の人々の生活文化などをうかがい知ることができます。


それでは、中に入ります。

よく見たら、入口でMIYOが座り込んでいました。笑 …というか、ご覧いただきたいのは、この美しい装飾の方です。^^

寺院内の壁には、今も数多くの壁画たちが残っています。このフレスコ画が、スラマニ寺院の見どころとなっています。回廊の鮮やかなフレスコ壁画の数々は、仏陀の生涯を描いていると言われています。(画像をお借りしました)


【フレスコ画】
西洋絵画の技法のひとつです。壁などの下地に漆喰(しっくい)を塗り、乾かないうちに、水に溶かした顔料で描きます。これによって、壁が乾くとともに顔料がしっかり定着するという技法です。ルネサンス期に描かれたようで、ミケランジェロやラファエロの作品が有名です。


上の写真の、右手前に、花を持つ女性が描かれていますが、同じようなのを、夫も撮っていました。…が、よく見ると細部が違っているので、これは違う壁に描かれていたもののようです。

「同じ顔をしてみて」と言われましたが、ムリです。😄

威勢よく、舟を漕ぐ人たち。

壁には、仏像のレリーフもありました。

石板です。同じようなのを、マンダレーのクトードー・パゴダでも見ました。やはり経典が書かれているのでしょうか。

クトードー・パゴダの小仏塔の中に置いてある石板です。ものすごく小さな文字で、びっしりと教典が刻まれており、「世界最大の本」と言われていますす。(画像をお借りしました)
埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 5 - クトードー・パゴダからマンダレー・ヒルへ。(1987年5月3日/3日め)

涅槃仏といっしょに。


パガンの寺院の特徴とも言えるのですが、
寺院内には、東西南北それぞれに、
仏像が安置されています。


そのうちの一体です。夫が撮ったもの(左)と、購入した絵葉書の写真(右)で、どちらも同じ仏像を写しています。それがですね…。

現在の、同じ仏像をさがしてみました。なにかの間違いじゃないかと思いましたが、これでした。😂 私的には、上の写真の方が渋くて好きなのですが、よその国で自分のシュミを言ってもしょうがないですね。😅(画像をお借りしました)


さて、「最高の宝石」と称される、
美しいスラマニ寺院ですが、
その外観は、目まぐるしく変わります。


1987年。私たちが訪れた時です。シカラは、1975年の地震で崩れ落ちたそうです。

その後修復が進み、立派な門が完成したのですが、シカラの修復工事は長く続きました。(画像をお借りしました)

そして2015年の写真です。すべての尖塔部分が美しく再現されました。(画像をお借りしました)


現在は、「最高の宝石」「小さなルビー」
という名にふさわしく、
とても優美な、美しい姿を見せていますが、
ここに至るまでに、
たいへんな苦労があったことと思います。
ビルマの人々の努力に、頭がさがります。


ちなみに、この形状は、
 タビニュ寺院
 ゴドーパリィン寺院
 ティーローミィンロー寺院
と似ているのですが、
「スラマニ寺院が最も洗練されている」
と評価する人もいます。


これはティーローミィンロー寺院です。たしかに、スラマニ寺院と似ていますね。^^

次回は、ようやく、パガン最後の寺院に行きます。写真は、最上層に向かって、階段を上がっているところです。


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 18 - ドラッグストア、ティーローミィンロー寺院、タビニュ寺院、ダマヤンジー寺院、そしてスラマニ寺院①へ(1987年5月5日/5日め)

1987年5月5日 スラマニ寺院で。(ビルマ・パガン)


1987年5月5日(月)- 5日め


たいへん申し上げにくいのですが、
時間を少しさかのぼることになりました。😅


これまでに、
 オールドパガンを出て、
 漆器屋さんに行き、
 イラワジ川の舟で日没を見た…
までを書いてきたのですが。
アルバムをもういちど見直したところ、
漆器屋さんを出てから、
再びオールドパガンに戻っていたことが
判明しました。😮


このブログに掲載している画像データは、
ほとんどが、当時のネガフィルムから
作製したものです。


ヤフオクで、
「ネガフィルムを画像データにします。」
というのを見つけ、落札。
ネガを大量に郵送して、作業していただきました。
もう数年前のことです。
1本あたり、400円くらいだったか?と思います。


今回、ブログを書くにあたっては、
その時に作製していただいた、
画像データを利用しています。
が、昨日になって、写真36枚分のデータがない、
ということが判明。
夫が、ネガを1本、紛失していたようです…。😔


それに気づいたのは、
昨日の日記を掲載する直前でした。
もはや書き直す時間はなかったので、
昨日のブログはお休みしようか、
と思ったのですが、
「まあ、あとからいくらでも修正はできるし。」
と思い直し、とりあえず掲載しました。


そんなわけで、わかりにくくてスミマセンが、
本日の日記では、
漆器屋さんに行ったあとにさかのぼって、
再び、お話を続けさせていただきます。😅


ここから約40枚の写真は、
ネガフィルムからではなく、
アルバムの古い写真を自宅のスキャナーで
画像データにしたものです。
なので、色合いが少し暗いものもあります。


モンモンさんの馬車に乗って、再び出発、しようとしたのですが…、

牛車が通りがかり、牛を引いていた方とおしゃべり。

「ビルマについて書いた本を見せて。」と言われて、説明しているところです。

このときに撮った写真。モンモンさんといっしょに。

次に行ったのは、ツーリストオフィスでした。パガンでは、旅行者をほとんど見かけませんでしたが、それでも一応、こんな立派なオフィスがありました。


夫はここで、
パガン発のバスの行き先と時間を調べました。
なにしろ、日本ではほとんど、
情報が入手できない頃のことです。
ビルマ国内の交通事情も確実とは言えず、
「次に、何時に何に乗って、どこへ行くのか。
 (そもそも、そこへ行けるのか?笑)」
というのは、
「現地に着いてから調べてみないとわからない。」
という、冗談みたいな旅でした。


そんなふうにして、
ラングーンから夜行列車でマンダレーに行き、
マンダレーから夜行バスでパガンに行き…、
と、その場その場をつなぎながら、
旅を続けていました。


パガンでは2泊できたので、
少しのんびりできましたが、
翌日から、また激動の旅が始まりそうです。😂


さて。
ツーリストオフィスでは、ついでに、
ドラッグストアの場所を
教えてもらったのですが…。


それが、このお店でした。自宅兼店舗という感じでしょうか。道路に面した部分に商品を並べて売っていました。


カウンターでは、お肉を売っているし。
棚の中を拡大すると、味の素とか、
食品も見えるし。
天井からぶらさがってるのは、
宝くじかな…。😄


でもここは、ドラッグストアなんです。
オフィスで聞いていたので、
まちがいありません。(きっぱり)


…というか、
「お薬も売ってるよろず屋さん」
というべきかもしれませんが。笑


ここでMIYOが買いたかったものは、
サニタリー用品でした。
「どんなのが出てくるんだろ?
 そもそも、モノのないビルマに、
 そんなものはあるのか?」
…と、興味津々でお店の女性に尋ねてみると、
すぐに奥から出してくれました。


壮絶ナ*キ*でした。


綿をアノ形にして、全体をガーゼでくるんで、
そのガーゼの端を、糸で縫ってありました。
以上。


このときに買ったものは、日本に持ち帰り、
ビルマの貴重な思い出として、
20年くらい保管していました。
自宅に遊びに来た人が「見たい」と言うと、
女性限定でお見せしたこともありました。(アホ)


夫の情報収集とMIYOの買物が終わったので、
再び、オールドパガンに戻ります。


遠くに、パゴダが見えてきました。あれは…、

昨日訪れた、ティーローミィンロー寺院です。

ティーローミィンロー寺院を訪れたときの日記です。
埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 13 - マニシトゥ・マーケットとティーローミィンロー寺院(1987年5月5日/5日め)
埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 14 - ティーローミィンロー寺院(1987年5月5日/5日め)

次は、パガンで最高の高さを誇る、タビニュ寺院が見えてきました。昨日、最後に訪れた寺院です。

タビニュ寺院の横を素通りして、馬車はどんどん進んでいきました。

タビニュ寺院を訪れたときの日記です。
埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 12 - タビニュ寺院とゴドーパリィン寺院。そしてチリピサヤホテルへ。(1987年5月4日/4日め)

両側に、次々とパゴダが現れます。もはや、いちいち名前とかを調べきれない状態です。笑

大きなみっつのパゴダが並んでいて…、

さらにもうひとつ、パゴダを通り過ぎると、別の寺院が見えてきました。

未完成のままで残されてしまった、ダマヤンジー寺院です。

ダマヤンジー寺院は、前日、シュエサンドー・パゴダの上からも見えました。
埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 11 - マヌーハ寺院、シュエサンドー・パゴダ、ダマヤンジー寺院(1987年5月4日/4日め)

当時、夫が買った絵葉書です。この頃は、門のまわりは草だらけで、正面玄関の下の方は、土で埋もれています。「未完成の寺院」として放置されていて、あまり整備されていなかったようです。

現在のダマヤンジー寺院。(画像をお借りしました)


37年で、居並ぶ尖塔部分の先端が、

少しずつ減っているように見えます。

が、全体的に美しく整備され、

泥や草がなくなっています。


ダマヤンジー寺院には入ることがなく、

今回も通り過ぎるだけで、

馬車はどんどん遠ざかっていきました。


さて。新たな寺院が見えてきました。

到着。スラマニ寺院です。王朝の繁栄期に建立された、優美な寺院です。


スラマニ寺院(Sulamani Temple)は、

バガン遺跡の中でも、多くの人々が訪れる、

魅力的な寺院のひとつです。

その名前は、

「最高の宝石」もしくは「小さなルビー」

を意味しているそうです。


次回は、スラマニ寺院の中を歩きます。


いまここ。😄 ティーローミィンロー寺院、タビニュ寺院、ダマヤンジー寺院と通り過ぎながら、スラマニ寺院に到着しました。


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 17 - 漆器屋さんと、イラワジ川の夕陽(1987年5月5日/5日め)

1987年5月5日 漆器のお店に行きました。(ビルマ・パガン)


1987年5月5日(月)- 5日め


パガンの寺院めぐりを終えて、
次に、モンモンさんが連れて行ってくれたのは、
漆器を作っているお店でした。


モンモンさんの馬車で少し走ると、住宅地のエリアに入りました。

藁や竹でできた家が、整然と並んでいました。


この頃ビルマを歩いていて、印象に残ったのは、
道にゴミがまったく落ちていないことでした。
海外の道路ではゴミが多いのに、
ビルマの人は、掃除が好きなのかな…?
と思いました。


「ビルマの人は、
 道路にゴミを捨てないのですね。」
と、ラングーンで知り合ったフォーさんに、
夫が話したことがあります。
そのときのフォーさんの答えは、
驚くべきものでした。


「捨てるモノがないのです。」
と…。


当時、経済制裁を受けていたビルマは、
工業製品を輸入することができず。
慢性的なモノ不足に陥っていました。
何かを買いたくても、店に売ってないから、
手に入らない、という状況だったのです。


「紙も不足していますから、
 紙きれ一枚でも、捨てる人はいません。
 なんでも再生して使わないと。」
とフォーさんに言われ、愕然としました。


あの頃、日本では、なんでも使い捨てでした。
「リサイクル」「ごみの分別」「地球環境」
などという言葉が出てくるのは、
もっとずっとあとのことでした。
なので、
「捨てるモノがない。」
という言葉は、私たちの想像を超えていました。


第二次大戦中、日本でも、
様々な物資が不足していましたが。
当時のビルマも、同じような状況でした。


ですが、戦争していたわけではないので、
とりあえず食べるものはあったし、
人々からも、窮乏しているような印象は
受けませんでした。


モノはなかったけれど、
なんだかゆったりとした暮らしがあったし、
自宅に招いていただいても、
貧乏ですごく困っているというか、
そんなようすを見たこともありませんでした。


「モノはないけど、貧しいわけじゃない。」
という、ビルマの人々の生活のようすを、
このあと、旅を続けていく中で、
さらに教えられることになります。


さて、到着したようです。


「漆器の店に行く」
と言われて来たはずですが…。
どう見ても、お店じゃなくて、
普通の家にしか見えませんね。^^


…と思いながら中に入ると、ほんとに普通のおウチみたいです。そして玄関口では、ふたりの職人さんが、せっせと漆を塗っておられました。

その隣りがお店になっています。漆器がメインですが、糸操り人形も置いてあるので、「お土産物屋さん」ですね。

この当時、ビルマのお土産というと、漆器、操り人形、お茶…。まあ、そんなものしかなかったような気がします。

MIYOが持っているのは、漆塗のバングルと竪琴。

このときに買った、一輪挿しとバングルです。探してみたら、写真が残っていました。^^ 


これらは、ビルマの思い出として、
30年以上保管していましたが、
終活の断捨離を考えるようになり、
昨年、処分しました。😅


たったひとつ、この漆のお皿だけは、今も残しています。直径26センチ。

そのあとは、馬車の前で、地元の方とおしゃべり。「地球の歩き方」みたいな本を見せていますが、1987年に「ビルマ編」はなかったはず。


MIYOは、大学生のころに、在宅で、
「地球の歩き方」の原稿を書く仕事を
していました。
(その後、社内でも働いています。笑)
当時の「地球の歩き方」は、
「ヨーロッパ編」と「アメリカ編」
しかありませんでした。
44年も前の話です。🤣


大学を卒業してメーカーに就職し、
そのときに、この仕事から引退しました。
が、1986年頃だったか、
「南米編を発行することになったので、
 創刊号のブラジル編を書いてほしい。」
と、依頼をいただきました。
当時は、ブラジルに行った人が少なくて、
書く人が見つからなかったようです。
そのときだけは、お引き受けした記憶があります。


そんな時代だったので、
1987年に、「地球の歩き方・ビルマ」は、
たぶん、まだなかったと思います。


ビルマの本が日本にはほとんどなくて、
夫は英語の本を見ながら、
旅のスケジュールを作っていたので、
このときに持っていたのは、
「ロンリープラネット」とか、
そんな感じの本だったのかもしれません。
(…と書きましたが、夫によると、
 この時持っていたのはやはり、「地球の歩き方」だったそうです。笑)


さて、漆器屋さんでのんびりしすぎたので、
時間がなくなったようです。
このあとモンモンさんは、
懸命に馬車を走らせたのですが、
「間に合うかな…。」
と、私たちもはらはらしていました。


イラワジ川に到着。日没はまだです。よかった。^^


川のほとりは、水遊びをする、
地元の人々や牛車でにぎわっていました。


イラワジ川で舟に乗って、日没を見る。
…というのが、モンモンさんの計画でした。
なので、
「なんとか日没に間に合うように」
と、懸命に馬車を走らせてくれたのです。^^


イラワジ川に到着したあと、
モンモンさんが舟の交渉をしに行っている間、
私たちは、近くに見えた寺院で遊んでいました。


なにしろ、遺跡がごろごろしているパガンですから、川のほとりにも古い寺院がいくらでもあります。笑

「舟の準備ができた。」とモンモンさんが呼びに来てくれて、川に戻りました。

川には何艘かの船がつながれていましたが、私たち以外には乗客はいないようです。

漁船なのか観光船なのかわかりませんが、とりあえず、小舟に乗って出発しました。

川の向こう岸にも、樹々の間にパゴダのシルエットがみえます。^^

そして、沈む寸前の太陽が見えました。

「間に合ってよかったね!」

イラワジ川で、船の上から見た、パガンの日没です。


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 16 - シュエズィーゴン・パゴダ②、チャンジッタ ウミン洞窟僧院、ウパリテイン、シュエナンインタウ僧院群(1987年5月5日/5日め)

1987年5月5日 チャンジッタ ウミン洞窟僧院で。(ビルマ・パガン)


1987年5月5日(月)- 5日め


シュエズィーゴン・パゴダに来ています。


木の質感が素朴で美しかった仏塔。

屋根の繊細な装飾もすばらしい。^^

これが、37年で、み~んなこうなりました。😮(画像をお借りしました)

これはこれで、素朴で味があって、私は好きでしたが。

この頃歩いていたのは、小さな見習い僧と地元の方々だけ。


パゴダの中には入れないので、
このあとは、境内にある、
繊細な木彫装飾やナッ神を祀る祠などを
見て歩きました。


釣鐘を運ぶ、ユーモラスな人形。当時は、手を伸ばせば触れられるところにありましたが…、

現在は、金網の中に入れられているようです。汚れをふき取って、色も塗り直されていますね。あら? ペンダントがない。よく見ると、襟かざりや帽子の色も変わっています。なんだか、「間違い探し」みたいになってきました。笑(画像をお借りしました)


当時のシュエズィーゴン・パゴダには、
観光客の姿もなく、
地元の人たちの祈りと共に、
ひっそりと存在しているような場所でした。
そこにはただ、穏やかな時間が流れていました。


この日の、ここまでの経路です。チリピサヤホテルを出発したあと、私たちの希望で、まずはマニシトゥ・マーケット(Mani Sithu Market)へ。そこから引き返して、ティーローミンロー寺院とシュエズィーゴン・パゴダを訪れました。

このあとは、シュエズィーゴン・パゴダからほど近いところにある、チャンシットタールウミン洞窟僧院(Kyan Sit Thar Umin Cave Manastry)へ。地上に見えている赤レンガの建物は、僧院の半分だけ。残りの半分は地下にあります。


ここがなんという名だったのか、
メモも残っていませんでした。
なので、まずはそこから調べ始めました。
上の写真を頼りに調べたところ、
「チャンシットタールウミン
 (Kyan Sit Thar Umin)」

という僧院であることはわかったのですが、
それ以上の情報がわからず、グーグルマップでも、
場所を確定できませんでした。


それもそのはず。
現地では、
「チャンジッタ ウミン(Kyanzittha Umin)」
という、別の名前で通っていました。


【チャンジッタ ウミン(Kyanzittha Umin)】
11世紀初頭に、崖の表面に建てられた洞窟僧院です。チャンジッタ王の父親によって建てられたと考えられています。低いレンガの建物で、半分が地下、半分が地上にあります。建設時は僧院として使用されたため、内部には、僧が住むためのいくつかの小さな部屋があります。僧院内の壁には、11~13世紀に描かれた古代のフレスコ画があります。13世紀ごろに描かれたものは、1287年にモンゴル人が街に侵入したときに描かれた可能性が最も高いそうです。


僧院の内部です。僧侶のための部屋に通じる通路や洞窟が続いています。このときは靴を履いて入ることができたのですが、現在は係員がいて、裸足にならないと入れてもらえないそうです。

11~13世紀に描かれた壁画が、今も残っています。この僧院の壁画には、黄色が多く使われているという特徴があります。


現在は、入口に係員がいて、
「靴を脱いで裸足になるように。
 写真撮影は禁止です。」
と言われるそうです。


けれど、私たちが訪れた当時は、
ただのレンガの建物が建っているだけで、
係の人とか、誰もいないし、
まさか1000年近くも前のものだとは、
全然知らず…。😅
今回、調べてみて、初めてわかりました。笑


この僧院に、一般のツアーで行くことは
ほとんどないそうです。
ネット上でも、関連資料がほとんど見つかりません。
にもかかわらず、こんな珍しいスポットを、
私たちが訪れることができたのは、
モンモンさんが連れて行ってくれたからでした。
2日間にわたって、彼と行動を共にできて、
ほんとうによかったと思います。


これにて、パガンの見学はほぼ終わりました。私たちを乗せた馬車は、ニャウンウーからオールドパガンへと続く道を走り抜けました。

馬車から見えた、ウパリテインです。現在は、電柱はきっと撤去されていると思います。笑

現在のウパリテインです。上の写真と反対側から撮っています。(以下4枚、画像をお借りしました)


【ウパリテイン(Upali Thein)】
ティーローミィンロー寺院の近くにあります。授戒式(戒名を授ける儀式)を行うためのお堂でした。このお堂の名は、ナンタウンミア(Nantaungmya)王とチャズワ(Kyazwa)王の治世中に存在していた有名な僧、ウパリの名にちなんでいます。
建物の基礎は、13世紀の中ごろのものと推定されています。屋根は、木造建築であるかのように見える繊細な造りで、2列の胸壁で飾られており、中央に小さな塔があります。


2列の胸壁で飾られている、屋根の装飾がすばらしい。

内部の壁や天井は、美しいフレスコ画で装飾されています。17世紀後半または18世紀初頭のものだそうです。

あああ~、これはぜひ、中に入ってみたかった…と、今さら言っても遅いのですが。笑


なにしろ、2200もの寺院や仏塔が残るパガン。
私たちが実際に訪れ、
その中に入ったり登ったりできたのは、
ごく一部でしかありません。
このウパリテインのように、
「なんだかよくわからないけど、
 一応、写真だけ撮っておこう。」
なんてのもありました。


通りすがりのなんでもないパゴダでも、
37年もあとになって、
名前を調べ、その歴史を調べていると、
「通り過ぎることができないような、
 すごい寺院だったのだ。」
と、気づいたりします。
ほんとうに、パガンは広い。
2日間かけても、
全然、時間がたりなかったなあ…
と、今は思います。😅


ついでに言うと、このブログに掲載している、
寺院やパゴダのほとんどは、
名前をすっかり忘れてしまっていて、
「あー、これなんだっけ?」
って状態でした。😅


そのひとつひとつを、写真を頼りに、
夫に尋ね、ネット上で確認しながら、
ブログを書いていったわけですが、
中には、
「探しても探しても、関連資料がでてこない。
 夫も全然覚えていない。」
などという、難解物件もありました。


最後に残ったこの写真。これがなんだったのか、よく覚えていないのです…。


馬車を止めて、
寺院の前で写真まで撮っているのに、
これがなんだったのか、覚えていません。
パガンの寺院の写真をかたっぱしから見て、
同じものを探し当てるのに、3日かかりました。


あきらめたころに、ようやく見つかった写真です。2018年のもので、上の写真の反対側から撮っています。現在は、美しく修復されています。(画像をお借りしました)


ここは、
「シュエナンインタウ僧院群
 (Shwe Nan Yin Taw Monastic Complex)」
という、
いくつもの僧院が集まっているところです。
夫が撮った写真は、
その中のひとつだったようです。
この上に上がると、景色がすばらしいのです。


こんな感じに見えるようです。(画像をお借りしました)


おそらく、私たちも上に上がり、
同じように、下界を見たのだと思います。
なんとなくそんな気がしますが、
よく覚えていません(情けない…)。


2019年、パガンは世界遺産に登録されたので、現在はこんなふうに、各寺院の前にパネルが建てられています。なので今では、「これはなんだったのか?」と、後から考え込むことはなさそうです。😂(画像をお借りしました)


このブログを書くにあたって、
いちばん困難を極めたのは、
「この寺院の名前はなんだったか?」
を突き止めることでした。(アホ)
そのときには聞いていたかもしれませんが、
いまではすっかり忘却の彼方(情けない)。


けれど、撮った写真を手がかりにして、
あきらめないで根気よく探し続ければ、
最後にはネット上で、
どうにか探し当てることができました。
名前だけでなく、今や、
その位置まで確認できてしまいます。
すごい世の中になったなあ…と思います。


昔だったら、
み「ねえ、これ、なんだっけ?」
夫「わからない。全然覚えてない。」
み「だよね…。」
ですんでいたはず。


忘却の彼方にあった、37年前の旅の記憶を、
インターネットが、
もういちどとりもどしてくれました。


さて。
2日間にわたったパガン寺院めぐりですが、
ようやくこれで終わります。


本日訪れたところです。
 マニシトゥ・マーケット
 ティーローミィンロー寺院
 モンモンさんの家
 シュエズィーゴン・パゴダ
 チャンジッタ ウミン洞窟僧院
 ウパリテイン
 シュエナンインタウ僧院集合体


いまここ。😄


すでに午後も遅い時間になっていましたが、
モンモンさんの馬車に乗って、
オールドパガンを出発。
次の場所へと向かいました。


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 15 - モンモンさんの家と、シュエズィーゴン・パゴダ(1987年5月5日/5日め)

1987年5月5日 シュエズィーゴン・パゴダで。(ビルマ・パガン)


1987年5月5日(月)- 5日め


ティーローミィンロー寺院を出て、
モンモンさんが次に向かったのは、
思いがけない場所でした。


なんと、モンモンさんのご自宅です。堂々たる佇まいです。

4人の子どもたちが、わらわらと出てきました。モンモンさん、こんなに若いのに、4児の父です。

お祭りの時の帽子をかぶって見せてくれました。


この子どもたちも、今は40歳くらいですね。^^
どんな大人になっているかなあ…。


どうして突然ここに来たのか、というと、
私たちにも、よくわかりません。笑
ただ、あの頃のオールドパガンには、
売店などはいっさいなく、
ペットボトルなんかもない時代なので、
飲み物を持ち歩くことができず、
水分補給ができなかったのです。
そのため、モンモンさんの家でお茶でも、
と考えてくださったのかもしれません、


じゃあ、お昼ごはんはどうしたのか?
ということなのですが、
これがですね。
いくら考えても、思い出せないのです…。🤣


夫の旅のスタイルは、
「夜討ち朝駆け、ごはん抜き」ですから、
このパガンでも、ごはんそっちのけで、
とにかくあちこち歩き回ったのかも。
でも、パガンの遺跡を見て歩くのは、
ほんとうに楽しかったので、ごはん抜きでも、
MIYOも怒らなかったようです。😄


じゃあ、モンモンさんのごはんはどうしたのか?
という、新たな疑問も出てくるのですが、
全然、記憶にありません。(スミマセン)
(私たちがパゴダの中を歩き回ってる間に、
 お弁当とかを食べていたのかもしれませんが。)


なにはともあれ、
モンモンさんの家でお茶をいただき、
少し休憩しました。
あの若さで、馬車ドライバーとして働き、
家族を養い、
立派な一戸建てに住んでいることに、
ただただ、感心するばかりでした。


さて。
モンモンさんのお宅でひと休みしたあと、
次に向かったのは、
シュエズィーゴン・パゴダでした。


ここで馬車を降りて、パゴダまで歩きました。中央に小さく写っているのが、私たちが乗ってきた馬車です。


【シュエズィーゴン・パゴダ(Shwezigon Pagoda/ရွှေစည်းခုံဘုရား)】
アーナンダ寺院と並んで、パガンを代表するスポットで、パガン近郊のニャウンウーにあります。パガン王朝を代表する宗教建築物です。11世紀に、タトォン国を征服し、バガン王朝を築いた初代国王アノーヤターと、3代目の国王チャンスィッターによって建立されたもので、後に建立されたビルマ式パゴダ(仏塔)の原形となりました。「シュエ」(ရွှေ)はビルマ語で「金」、ズィーゴンは「砂の河岸」、もしくはパーリ語で「祝福された土地」を意味します。絢爛豪華なパゴダは、3層の方形基壇と、その上にそびえる円筒型の仏塔で構成されていますが、全体が金箔で覆われています。高さは40m。日差しを受けて、神々しく輝く姿は、圧倒的な美しさです。
建設に着手したのは初代アノーヤター王でしたが、規模が大きすぎたためか、在位中は完成に至らず、息子のチャンスィッター王の時代に、ようやく完成しました。内部は見学できませんが、境内には、台座や境内のお堂にはジャータカ物語のレリーフや装飾があり、繊細な木彫装飾やナッ神を祀る祠など、見どころ満載です。


中央に見えている巨大な像は、ビルマの神話上の動物、チンネ(羽根のあるライオン)です。

当時夫が買った絵葉書。写真ではなく、「絵」です。

長々と通路を歩いて、ようやくパゴダが大きく見えてきました。

パゴダの前まで来ると、今度は大きすぎて、写真におさまりません。夫は分割して撮っていました。笑(下の2枚です。)

上の祠堂の中には、神像が並んでいます。

上の、分割して撮った2枚をつなぎ合わせるとこうなります。

現在の同じ場所です。😮(画像をお借りしました)

37年前。隔世の感があります。

現在のシュエズィーゴン・パゴダです。(画像をお借りしました)

パゴダの周囲にある仏塔たちも…、

現在はすべて金です。😄(画像をお借りしました)

よくぞここまでやってくれました。😅(画像をお借りしました)

お堂の壁や柱に施されていた、細かい装飾。ここに描かれているのは、ジャータカ物語。


【ジャータカ物語】
ジャータカとは、釈尊が前世に菩薩として修行していたとき、生きとし生けるものを教え導いたエピソードを集めた物語です。親しみやすい物語形式の中で、ブッダの教えが説かれています。歴史的には、「イソップ物語」や「アラビアン・ナイト」にも影響を与え、日本にも「本生話」「本生譚」としてその一部が伝えられました。仏教の教えを親しみやすく説いたジャータカは、テーラワーダ仏教の諸国で広く語り継がれています。


この装飾は、現在も変わりなく残されています。(以下2枚、画像をお借りしました)

お堂の中で、小さな赤ちゃんを抱いた女性と。カワイイ。^^


パガン最大の見どころと言ってもいい、
シュエズィーゴン・パゴダですが、
このときの写真をいくら見ても、
私たち以外に、観光客が見つかりません。
ほんとうに、私たちだけだったんだなあ…。😮
前日は一日じゅう、「パガン貸し切り」でしたが、
ここでもやはり、同じでした。


お参りに来ていた地元の女性に、
生まれたばかりの赤ちゃんを見せてもらったのを、
なつかしく思い出します。


観光客が誰もいない、ひっそりとした境内で、
私も夫も立ちつくし、ただ黙々と、
シュエズィーゴン・パゴダを眺めていました。


(つづく)