MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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ベトナム家族旅行:
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埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 17 - 漆器屋さんと、イラワジ川の夕陽(1987年5月5日/5日め)

1987年5月5日 漆器のお店に行きました。(ビルマ・パガン)


1987年5月5日(月)- 5日め


パガンの寺院めぐりを終えて、
次に、モンモンさんが連れて行ってくれたのは、
漆器を作っているお店でした。


モンモンさんの馬車で少し走ると、住宅地のエリアに入りました。

藁や竹でできた家が、整然と並んでいました。


この頃ビルマを歩いていて、印象に残ったのは、
道にゴミがまったく落ちていないことでした。
海外の道路ではゴミが多いのに、
ビルマの人は、掃除が好きなのかな…?
と思いました。


「ビルマの人は、
 道路にゴミを捨てないのですね。」
と、ラングーンで知り合ったフォーさんに、
夫が話したことがあります。
そのときのフォーさんの答えは、
驚くべきものでした。


「捨てるモノがないのです。」
と…。


当時、経済制裁を受けていたビルマは、
工業製品を輸入することができず。
慢性的なモノ不足に陥っていました。
何かを買いたくても、店に売ってないから、
手に入らない、という状況だったのです。


「紙も不足していますから、
 紙きれ一枚でも、捨てる人はいません。
 なんでも再生して使わないと。」
とフォーさんに言われ、愕然としました。


あの頃、日本では、なんでも使い捨てでした。
「リサイクル」「ごみの分別」「地球環境」
などという言葉が出てくるのは、
もっとずっとあとのことでした。
なので、
「捨てるモノがない。」
という言葉は、私たちの想像を超えていました。


第二次大戦中、日本でも、
様々な物資が不足していましたが。
当時のビルマも、同じような状況でした。


ですが、戦争していたわけではないので、
とりあえず食べるものはあったし、
人々からも、窮乏しているような印象は
受けませんでした。


モノはなかったけれど、
なんだかゆったりとした暮らしがあったし、
自宅に招いていただいても、
貧乏ですごく困っているというか、
そんなようすを見たこともありませんでした。


「モノはないけど、貧しいわけじゃない。」
という、ビルマの人々の生活のようすを、
このあと、旅を続けていく中で、
さらに教えられることになります。


さて、到着したようです。


「漆器の店に行く」
と言われて来たはずですが…。
どう見ても、お店じゃなくて、
普通の家にしか見えませんね。^^


…と思いながら中に入ると、ほんとに普通のおウチみたいです。そして玄関口では、ふたりの職人さんが、せっせと漆を塗っておられました。

その隣りがお店になっています。漆器がメインですが、糸操り人形も置いてあるので、「お土産物屋さん」ですね。

この当時、ビルマのお土産というと、漆器、操り人形、お茶…。まあ、そんなものしかなかったような気がします。

MIYOが持っているのは、漆塗のバングルと竪琴。

このときに買った、一輪挿しとバングルです。探してみたら、写真が残っていました。^^ 


これらは、ビルマの思い出として、
30年以上保管していましたが、
終活の断捨離を考えるようになり、
昨年、処分しました。😅


たったひとつ、この漆のお皿だけは、今も残しています。直径26センチ。

そのあとは、馬車の前で、地元の方とおしゃべり。「地球の歩き方」みたいな本を見せていますが、1987年に「ビルマ編」はなかったはず。


MIYOは、大学生のころに、在宅で、
「地球の歩き方」の原稿を書く仕事を
していました。
(その後、社内でも働いています。笑)
当時の「地球の歩き方」は、
「ヨーロッパ編」と「アメリカ編」
しかありませんでした。
44年も前の話です。🤣


大学を卒業してメーカーに就職し、
そのときに、この仕事から引退しました。
が、1986年頃だったか、
「南米編を発行することになったので、
 創刊号のブラジル編を書いてほしい。」
と、依頼をいただきました。
当時は、ブラジルに行った人が少なくて、
書く人が見つからなかったようです。
そのときだけは、お引き受けした記憶があります。


そんな時代だったので、
1987年に、「地球の歩き方・ビルマ」は、
たぶん、まだなかったと思います。


ビルマの本が日本にはほとんどなくて、
夫は英語の本を見ながら、
旅のスケジュールを作っていたので、
このときに持っていたのは、
「ロンリープラネット」とか、
そんな感じの本だったのかもしれません。
(…と書きましたが、夫によると、
 この時持っていたのはやはり、「地球の歩き方」だったそうです。笑)


さて、漆器屋さんでのんびりしすぎたので、
時間がなくなったようです。
このあとモンモンさんは、
懸命に馬車を走らせたのですが、
「間に合うかな…。」
と、私たちもはらはらしていました。


イラワジ川に到着。日没はまだです。よかった。^^


川のほとりは、水遊びをする、
地元の人々や牛車でにぎわっていました。


イラワジ川で舟に乗って、日没を見る。
…というのが、モンモンさんの計画でした。
なので、
「なんとか日没に間に合うように」
と、懸命に馬車を走らせてくれたのです。^^


イラワジ川に到着したあと、
モンモンさんが舟の交渉をしに行っている間、
私たちは、近くに見えた寺院で遊んでいました。


なにしろ、遺跡がごろごろしているパガンですから、川のほとりにも古い寺院がいくらでもあります。笑

「舟の準備ができた。」とモンモンさんが呼びに来てくれて、川に戻りました。

川には何艘かの船がつながれていましたが、私たち以外には乗客はいないようです。

漁船なのか観光船なのかわかりませんが、とりあえず、小舟に乗って出発しました。

川の向こう岸にも、樹々の間にパゴダのシルエットがみえます。^^

そして、沈む寸前の太陽が見えました。

「間に合ってよかったね!」

イラワジ川で、船の上から見た、パガンの日没です。


(つづく)

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