MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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ベトナム家族旅行:
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4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 12 - ホーチミンルート博物館④ 屋外展示とLuongさん(2023年6月15日/2日め)

2023年6月15日 Luongさんといっしょに。


6月15日(木)


ホーチミンルート博物館に来ています。


慰霊碑の奥には、チュオンソン部隊が造ったトンネルが再現されています。トンネルは老朽化して危険であるため、現在は、内部に入ることができません。
内部の様子は、以前の日記に掲載しています。
定年でもベトナム。ハノイで始める、お仕事日記 37 - ホーチミンルート博物館へ④ ロックアウト(2019年9月14日/14日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


【チュオンソン部隊のトンネル】
ラオス国内にあった司令部の地下に造られたトンネルで、1968年から1971年まで使用されました。内部では、作戦会議などが行われました。このトンネルはホーチミンルート上にあったため、1970年から1971年の乾季には、多くのB52爆弾が投下されました。


夫は、貴賓室までのぞいたようです。かつて、MIYOがこっそりとお昼寝した部屋です。笑

4年前に撮った写真です。一番奥に、ふたつの主賓席があったのですが、取り払われたようで、現在の写真にはありませんでした。
定年でもベトナム。ハノイで始める、お仕事日記 38 - ホーチミンルート博物館へ⑤ 閉じ込められて(2019年9月14日/14日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

最後に、正門をはいってすぐのところに展示されている、たくさんの車両を見学しました。博物館の右側の、赤い屋根のあるところです。夫が全車両の写真を撮ってきたので、掲載します。説明文は、パネルにあった英語を翻訳したものです。

日野自動車のトラック(日本製)。1973年に、キューバ政府とキューバ国民によって、チュオンソン部隊に寄贈されたもので、堤防、舗装、建設資材の検査などの用途で、チュオンソン最高司令官第6連隊が使用しました。トラッキング軍事装備を支援するための、戦略的道路の建設工事にも使用されています。

CA-30トラック(中国製)。471師団 チュオンソン最高司令部が、武器、軍事装備、物品、軍隊を南へ輸送するために使用しました。1975年には、このトラックで、主力軍を動員しています。民族解放戦争の軍事キャンペーン、南部の開放、そして国家の統一に貢献しました。

アジル157トラック(ソ連製)。1970年以降、武器、軍事装備、物資、軍隊の輸送のために、チュオンソン部隊が使用しました。1975年から1988年まで、第384師団が使用し、東部チュオンソン道路、その他の国内道路、さらにはラオス国内の道路も開通させました。走行距離は50万キロ。

ブルドーザー T100。1971年から1975年まで、サラバン県からラオスのアタプー県までのチュオンソン西側の道路を開通し、交通を維持するために、第565師団の第39連隊が使用しました。1980年以降は、ホアビン水力発電所、国道5号線(ハノイ-ハイフォン)、ラン-ホアラック道路(ハノイ)の建設に使用されました。

GAZ69車。1966年から1975年まで、チュオンソン軍の司令官である、ドン・シン・グエン少将が使用しました。走行距離は35万キロ。

装甲車 BTR-40(ソ連製)。14.5MM対空砲(2砲身型または4砲身型)を装備していました。1978年から1982年にかけて、ラオス中部及び南部地域の橋と道路を建設する際の、ラオスの工兵部隊の護衛のために、陸軍第12軍団が使用しました。

CA-30 トラック(中国製)。チュオンソン最高司令部の運転手だったズオン・クアン・ルアが使用しました。彼は、第2師団の南軍舞台に車で向かい、戦車編隊のブイクアンの後を追い、1975年4月30日、サイゴン陥落の日に、独立宮殿を攻撃しました。


夫が撮った写真はここまでなのですが、
上の写真で左奥に見える車も、日本製です。
夫が写真を撮り忘れているので、
MIYOが4年前に撮ったものを掲載します。


日野自動車のトラックです。(2019年9月14日)

すべての車を見終わり、再び博物館の前まで戻ってきました。


これで見学は終わります。
最後に受付に戻って、
係の人にあいさつしようと思ったのですが、
中から、なにか女性の大きな声が聞こえます。
静かな博物館にはふさわしくないような、
楽しそうな、はしゃいでいるような声でした。


そして飛び出してきた女性は、まさか…。
驚きました。
私の方に向かって歩いてきたのは…、


4年前にこの博物館で会った、Luongさん(左側)でした。(2019年9月14日)


この日、彼女は非番で、
自宅にいたようなのですが、
博物館のスタッフから知らせを受けて、
わざわざかけつけてくれたのです。
まさか、会えるとは思っていませんでした。


ル「『日本人が来てるわよ。』って言われて、
  すぐに、あなたのことだって思ったわ。笑
  あれは、2年前だよね?」
み「いいえ、4年前ですよ。^^」
ル「えっ もう4年もたつの?」
み「そうよ。4年もたつの。笑」


ふたりで、顔を見合わせて笑いました。
4年もたったのに、一度訪れただけの私を、
彼女はずっと、覚えていてくれたのです。
驚きました。


4年前にMIYOが書いたブログを見せると、
今度は彼女がびっくり。


「え?
 博物館のことを、ネットに書いてくれたの?
 わあ、うれしい。
 それ、私に送って送って。笑」


アドレスを教えてもらって、
その場で送りました。
Luongさんは、自分のスマホでそれを見て、
とてもうれしそうでした。^^
今は、こんな時代なんですね…。


「会えた記念に。」と、夫が写真を撮ってくれました。

また会えたね…。


ブログを書き続けていてよかったなあ…。
と思いました。
「4年前に会った、私です。」
と言葉で言うよりも、
ブログを見せるだけで、思いはもっと伝わる、
…と実感しました。^^


4年前、映写室で、
たったひとりで映画を見たあと、
部屋に入ってきた彼女に向かって、
私は大きな拍手をおくりました。
それは、ベトナムの人々みんなに向けた
拍手でもありました。


そのとき彼女は、
一瞬、驚いたような顔をしましたが、
すぐに、MIYOといっしょに拍手。
ふたりで、見つめ合いながら、拍手。
なんだか、うれしかったなあ…。^^


帰り際、彼女が引き出しをあけて、
「これは、来てくれた記念に。」
と、たくさんの絵葉書を
プレゼントしてくれたことも
忘れられない思い出です。


「この博物館には貴重なものが
 たくさん展示してあるのに、
 中心地から遠くて、
 訪れる人が少ないことが、
 とても残念です。」
と語っていた、Luongさん。
いろいろなことが、
次々と思い出されました…。


Luongさんに見送られながら、
博物館を後にしました。


歩きながら、
「すごい。
 4年たっても、日本人って聞いただけで、
 私のことを思い出してくれるなんて。」
と感動していたら、夫が、
「4年間、他に日本人がひとりも
 来なかったんじゃないの?」
…と、無粋なことを言いました。😟
たしかに、来館者がとても少ない博物館で、
この日も、訪れているのは、
私たちふたりだけだったのですが。😅


次は、ここから30分ほど歩いて、
チョンさん、タムさんの家に行きます。


チョンさんからは、
「博物館の前から電話してください。
 迎えに行きます。」
と言われていました。
でも、グーグルマップで見たところ、
徒歩20分くらいでしょうか。
そう遠くはありません。


み「これなら、自分で行けるよね?」
夫「うん。行ける。」


…ということで、グーグルマップを見ながら、
自分の足で歩いていくことにしました。


この日歩いたルートです。Mango Hotel を出発し、Xo Seafood でランチ。そしてラタイン駅からメトロに乗りました。ヴァンケー駅で降りて、ホーチミンルート博物館まで歩きました。博物館の見学を終えて、ここからさらに、チョンさん、タムさんのお宅をめざして歩きます。

途中の道は、こんな感じ。ハノイ市内ですが、郊外なので、いかにも田舎…、もとい、閑静な地域です。笑


チョンさんの家まで、
あともう少しです。


(つづく)

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