MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 11 - ホーチミンルート博物館② 2階部分の展示、映写室、そして慰霊碑(2023年6月15日/2日め)

2023年6月15日 ホーチミンルート博物館で。


6月15日(木)


ホーチミンルート博物館に来ています。


次は、2階部分を見学しました。

ベトナム軍に攻撃され、炎上するヘリコプターから脱出した米兵。まるで、映画の一シーンのようです。


2階を見学していると、
受付にいた女性がやってきて、
映写室に案内してくれました。


4年前も、同じこの部屋で、たったひとりで映画を見ました。(2019年9月14日)

今回は、夫と二人で見ます。

目の前には小さなスクリーンがあり、ベトナム戦争時のホーチミンルートが再現されています。

映画と連動して、戦争の進行と共に…、

目の前のルートに明かりが灯って行きます。

それは、チュオンソン部隊が、けしてあきらめることなく灯し続けた灯りでもありました。

灯りはさらに広がり続け…、

最後には、ホーチミンルートは全土へと広がります。

これは4年前に見て、ずっと忘れられなかった一場面です。激流の中、荷を積んだ船を懸命に操る人々。

次の瞬間、船は、4人の人を乗せたままで、水の中に沈み、そのまま消えていきました。

映写室を出ると、映画を見せてくれた女性が、隣りの部屋で待っていました。

思いきって、その女性に、4年前に撮った写真を見せました。


私がそれをためらっていたのは、
この博物館の隣りには、軍隊の施設があり、
この博物館も、軍が管理しているらしいからです。


4年前に会ったこのふたりは、
博物館のスタッフだったのですが、
女性兵士だったようで、軍服を着ていました。
勝手にふたりの写真を撮り、
ブログに載せたことがわかると、
問題になるかもしれない、と心配したのです。


でもこの日、ふたりの姿が見えなかったので、
恐る恐る訊いてみました。


「私は、4年前にもここに来ました。
 そのときに、このおふたりに会いました。
 彼女たちは、今もここにいますか?」


その女性は、
「左側の女性は今もここで働いていますが、
 今日はいません。
 右側の女性は、他の部署に異動しました。」
と、言葉少なに答えました。


彼女たちに会えなかったのは残念ですが、
4年もたっているのですから、
しかたありません。
館内の見学も終わったので、
次は、奥の庭に出ました。


博物館の奥には、犠牲になったチュオンソン部隊の人々の慰霊碑が建てられています。

このレリーフは、ホーチミンルートで働いたチュオンソン部隊の人々を描いています。よく見ると、少数民族も、女性兵士もいます。

そして、慰霊碑を囲むようにして、多くの石碑が並んでいます。

その石碑には、犠牲になった人々の名前が、亡くなられた日と場所と共に、彫り込まれていました。

表にも裏にも、びっしりと書き込まれた、兵士たちの名前。

多くの犠牲者を出しながらも、

人々は決してあきらめませんでした。


ベトナム戦争での死者は、北ベトナムだけで、
500万人と言われています。
言葉では言い尽くせない悲しみに堪えながら、
戦い続けた彼らの気持ちを、
どう表現すればいいのかわかりません。


ものすごい歴史を通り抜けてきた国。
それがベトナムだと思います。
彼らがけしてあきらめることはなかった
ベトナム戦争の一端を、
この博物館は今も、語り続けています。


(つづく)

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