MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

コロナでも上州2。からっ風に吹かれて歩いた群馬 2泊3日の湯めぐり旅 31 - 前橋へ / 忘れじの西双版納(2023年1月18日/3日め)

1987年1月3日 中国雲南省・西双版納(シーサンパンナ)で。(MIYO27歳、夫29歳😄)


1月18日(水)


午前中は、積善館にゆっくり滞在し、
12時ぎりぎりにチェックアウトしました。
これで、四万温泉とはお別れです。


出発して間もないころに撮った写真です。山があまりにきれいだったので、夫に言って車を停めてもらいました。


山の中に、ふたつの建物が見えます。
手前の大きな建物は、
四万たむらが運営している、
四万グランドホテル
その後ろ側に少しだけ見える建造物が、
四万たむらです。


積善館の隣りの敷地に建っていた温泉旅館「四万たむら」。創業1563年の老舗旅館です。

コロナでも上州2。からっ風に吹かれて歩いた群馬 2泊3日の湯めぐり旅 24 - 積善館⑥ 山に並ぶ宿と、鏡の廊下(2023年1月17日/2日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


散歩中に私たちが見たのは、
ほんの入口部分だったようです。
あとでわかったのですが、
この奥に、いくつもの建造物群が並んでいて、
実は、巨大な旅館なのだそうです。
敷地は10万坪。ひゃ~。


さらにその隣りには、積善館があるはずなのですが、山の中に隠れていて、積善館の姿は見えません。そして手前には、四万温泉の街並みが見えます。おっ切り込みうどんを食べた蒼水庵も、この中にあります。^^

コロナでも上州2。からっ風に吹かれて歩いた群馬 2泊3日の湯めぐり旅 18 - 蒼水庵でおっ切り込みうどん(2023年1月17日/2日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


四万温泉が、
どんどん遠ざかって行きました。
群馬県の旅日記は、これでおしまい、
…と思った方も多いと思います。^^


スミマセン。
あともう少し、続きます。😅


ここから、ほんとうは桐生に行って、
そのまま東京に戻るつもりでした。
ところが、私たちも想定外だったのですが、
四万温泉から再び、旅の初日に行った、
前橋市に戻ることになりました。
コロナでも上州2。からっ風に吹かれて歩いた群馬 2泊3日の湯めぐり旅 1 - 群馬会館食堂で至福のランチ(2023年1月16日/1日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


2日前に行ったばかりなのに、
どうして前橋市に戻るのか。
その理由は、唐突なのですが、
話は、35年ほど前にさかのぼります。笑


1986年12月28日から1987年1月6日まで、
私たちは、中国10日間の旅に出かけました。
当時は、中国への個人旅行が
認められていなかったので、
中国を旅行するためには、
ツアーに参加するしかありませんでした。
そこで、東亜国際旅行社という会社の
ツアーに申し込みました。
(この会社は、今はもうありません。)


予定では、上海、石林、成都、昆明、
そして(当時)秘境と言われていた
西双版納(シーサンパンナ)まで行き、
香港から帰国することになっていました。


そのツアー、驚くことに、
総勢50名もの大ツアーだったのです。
中国国内では、バス2台を連ねて、
大所帯での移動になりました。


あの当時の中国は、なにもかもが
うまく運営されていない状態でした。
なににつけても
「メイヨウ(没有)」
と言われ、とりあってもらえません。
そんな国で、
50名ものツアーを決行すること自体が、
今思うと無謀なことだったかもしれません。


そんな中、旅の目玉だった
「西双版納(シーサンパンナ)」
に行くはずのフライトが、
二日にわたってキャンセルされます。
昆明空港まで行って、
「待ちぼうけをくわされたあげくの
 キャンセル」
が、2回も続いてしまったのです。


そのことに激怒した人たちが、
「俺たちはこのツアーをボイコットして、
 香港へ行く。
 日本に帰ったら、弁護士をたてて
 旅行社を訴える。」
と宣言しました。
(そんなことで怒っても仕方がないのですが…。)


結局、40人もの人たちが、
ツアーをボイコット。
日本人添乗員を連れて、
昆明から香港へ行ってしまいました。


どうしても「西双版納」に行きたい。
明日も空港に行って、トライしたい。
と願った10人は、中国人のガイドさんと共に、
昆明に残りました。


ツアーの途中で、
参加者がふたつに分裂してしまう
という、
前代未聞の事態になったわけです。


さて。
私たちは、どちらのグループだったでしょうか。


もちろん、昆明居残り10人組です。笑
そして1月3日の早朝。
添乗員もいない10人のグループが、
祈るような思いで、昆明空港に行きました。
この日もフライトがキャンセルになったら、
ツアーの日程上、
もう、「西双版納」に行くことはできません。
最後のチャンスでした。


そもそも、西双版納に行きたくて、
このツアーに参加したのです。
もしもこのまま行けなくなったら…、
と思うと、泣きたいような気持ちでした。


ところが、3度目の正直。
飛行機が飛びました。


乗ったのは、こんな小さなプロペラ機でした。笑 アントノフ(旧ソビエト連邦のウクライナの航空機メーカー)のAn24という飛行機のようです。(1986年1月3日)

当時、行くことが難しかった、西双版納。思茅空港から船に乗って、さらに山奥へ。

多動夫のうれしそうなこと。笑

ほかの皆さんもうれしそう。^^

傣(タイ)族の女性と。(1987年1月3日 西双版納)

そして山の中をさらに歩いて…、

少数民族の村に到着しました。

子どもたちがいっぱい。^^

この男の子も、今では40代後半ですね。^^

大人たちはみんな農作業に行っているとのことで、子どもばかりの村でした。

さらに翌日も、別の村を訪ねました。この日の夜は、少数民族の方のお宅で、地元料理の夕食をいただきました。(1986年1月4日)

西双版納に2泊したあと、再び昆明に戻り、そこから広州へ。中国人のガイドさんは、ここまでしか同行できません。広州から香港までは、私たち10人だけで移動しました。添乗員兼ガイド兼ポーター兼雑用係の多動夫がいるので、大丈夫。笑(1987年1月5日 広州)

九龍行きの車内で。西双版納の村々をいっしょに歩いた、8人の皆さんです。最高のメンバーでした。^^


1月5日の朝、西双版納を出発し、
思茅空港から飛行機で昆明へ。
そこで乗り換えて広州へ。
さらに広州駅に行き、列車で香港へ…。
一日中移動し続け、夜遅くなったころ、
10人で、ようやく香港に入国。
入国審査場を抜けると、そこでは、
日本からいっしょだった添乗員さんが
待っていてくれました。^^


香港から日本に帰る朝。Nさんご夫妻と。(1987年1月6日 香港)


このときにご一緒していた皆さんとは、
その後も交流が続きました。
東京在住だったIさんご夫妻には、
ご自宅に招いていただき、
奥様の手料理をごちそうになりました。
そして群馬県前橋市在住のNさんご夫妻にも、
再びお目にかかることになりました。
なんとNさんが、
伊香保温泉に招待してくださったからです。


そのときに泊めていただいたのは、
「ホテル木暮」でした。
天皇陛下も宿泊したことがあるという、
由緒ある旅館です。
宿泊についてはNさんが手配してくださり、
総古代ひのき家族風呂まで、
利用させていただきました。


夜は、Nさんご夫妻と、
ホテルで豪華な膳を囲んだのも、
楽しい思い出です。^^


高級なホテルだろうとは思っていましたが、
今回の旅で、
伊香保温泉のホテルを予約するにあたって、
このホテルがいかに高いかを知り、
ますます恐縮してしまいました…。😅


さがしてみたら、当時のホテルの絵ハガキが見つかりました。「天正年間創業」とあります。天正元年は1573年なので、450年くらい前に創業したことになります。伊香保温泉の歴史は、本当に長いです。


【ホテル木暮】
天正初期、戦国大名武田家は、いにしえから続く伊香保の源泉を守るため、十二支を割り当てた定盤木で、12名の名主に分湯しました。その時の筆頭大家として、ホテル木暮は十二支の一番目「子」のお墨付きを賜っています。現在も、源泉「黄金の湯」の総湧出量の1/4の権利を有しており、その湯量は毎分約1,000〜1,100リットルと言われています。


その後、私たちも育児に追われるようになり、
しだいに、やりとりが途絶えてしまいました。
「どうしていらっしゃるかなあ…。」
と、折に触れて思い出してはいたのですが。


今回、旅の初日に前橋市に行ったときも、
おふたりのことが気になっていました。
が、連絡先もわからず、
どうにもなりませんでした。


そして2日めの朝。
伊香保温泉のホテルの部屋にいるときに、
たまたま、
Nさんの電話番号がでてきたのです。
失くしたと思っていた電話番号が、
パソコンの隅に保存されていました。


それを見つけた瞬間、
思わず、電話していました。笑


運よく、Nさんも在宅しておられたので、
「35年前に西双版納でごいっしょした、
 MIYOです。」
と言ったところ、驚いておられました。
(↑あたりまえ。笑)


Nさんに、
「明日、前橋市に行きますから、
 会っていただけませんか?」
とお願いしたところ、
快諾していただきました。^^


そんなわけで、桐生に行くのはやめて、
再び前橋市に。
なつかしいNさんに、会いに行きます。
たぶん、34年ぶりですよ。笑


(つづく)

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