MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 73 - 王宮⑭ 勤政殿(塀風門)、文明殿、武顕殿、光明殿、そして日成樓(ニャットタンラウ)(2023年6月19日/6日め)

2023年6月19日 フエ王宮・日生樓(ニャットタンラウ)です。


6月19日(月)


紫禁城で
中央部に延びる、折り戸付きの廊下を、
歩きました。


折り戸付き廊下は、紫禁城のど真ん中にあります。


この廊下に沿って、
勤政殿、乾成殿、坤泰殿が並ぶ、
広いエリアなのですが、
現在は基礎が残るのみとなっています。


写真の左奥に見えている塀のようなものは、わずかに残った、勤政殿の一部です。石造りの屏風のように見えるのですが、これもまた、塀風門(ヒンプン)だったのかもしれません。

廊下の端に立って、「おーい」と呼びかけました。

廊下のはるか先を歩く夫、ふりかえりました。ふたりで、写真の撮りっこ(アホ)。😄 ほかに誰も歩いていないので、やりたい放題。笑 下の写真で、右に少しだけ見えているのが、再建中の建中樓です。


夫はそのまま、
廊下をどんどん歩いていきましたが、
MIYOは、
ぽっかりと空いた広場を突っ切って、
反対側に見える廊下の方へ歩いてみました。


広場の反対側にも屋根付きの廊下が続いていて、全体が、朱塗りの美しい回廊になっています。

ここには乾成殿があったはずなのですが、現在は、青銅の大きな鼎が残るのみです。

かつての、同じ場所の写真です。この鼎、遠くにあるので小さく見えますが、実はこんなにも大きいのです。^^

右奥に見えるのが、勤政殿の障壁(塀風門?)です。

鼎の向こう側に道があったので、そこを直進しました。右側の勤政殿(塀風門)の手前には、かつては花壇らしきものがあったようです。

ちなみにこれは、後で見つけた写真で、勤政殿(塀風門)の裏側です。多動夫、いなくなったと思ったら、いつのまにか、勤政殿の裏側にまで行って、写真を撮っていました。🤣🤣

勤政殿の真後ろに控えていたこの障壁(塀風門)は、ベトナム戦争で、テト攻勢の際に被弾していて、よく見ると弾痕が残っています。

障壁の右側は、こんなふうに、屋根付き回廊と連結されています。ここも、近年になって再建されたそうです。この奥に文明殿があり、障壁の左側の武顕殿と対になっていました。(どちらも現存していません。)


文明殿の南隣りには、
左廡(文官の詰め所)があり、
武顕殿の南隣りには、
右廡(武官の詰め所)があります。
そこから想像すると、このあたりには、
東の文官用(右側)と西の武官用(左側)
のふたつのエリアがあり、
明確に分けられていたようです。


一方MIYOは、反対側の回廊の前まで来ました。この、美しい屋根がついた部分の向こう側に、かつては光明殿(皇太子の住まい)がありました。

石段を上がって回廊の中に入り、左手(北)に向かって歩きます。鮮やかな朱の柱殿に黄金の装飾が施され、気品あふれる佇まいです。


朱塗りの廊下は、2本が平行に並んでおり、
多動夫が進んでいったのとは
別の廊下を、MIYOは歩いています。
ここで別れ別れになりましたが、😅
まあ、そのうち再会することでしょう。😄


少し歩くと、廊下の右手に、日成樓(ニャット・タン・ラウ / Nhat Thanh Lau)が見えてきました。


【日成樓】
1841年、3代紹治帝(ティエウチ帝) の治世下に建てられた2階建ての建物で、王仏殿、または宝物殿であったとされています。当初はミンタン宮殿と呼ばれましたが、カイディン帝がそれを廃止し、日生樓(ニャットタンラウ)としました。グエン朝の末期、バオダイ帝の母や後宮の女性たちは、頻繁にここに来て経を読み、平和を祈って、仏陀の名前を唱えました。
日成樓は、王宮の中でも極めて優美で美的価値の高い、2階建ての建物と言われていますが、1947年と1968年に激しく破壊され、建物の基礎だけが残りました。現在あるのは、2018年に、フエ記念碑保護センターが修復したものです。


回廊を歩いているときも、ひときわ目を引く建物です。

これは南東から見たところ。日成樓はとても優美で、上品な佇まいなのですが…、

1947年、フランス軍がフエを占領したときに、激しく破壊されました。その後、ベトナム戦争でも壊滅的な被害を受けています。当時の写真を見ると、基礎しか残っていません。息をのむような惨状です。(画像をお借りしました)

それがこんなふうになったのですから、よくぞここまで再現したものです。

日成樓は、2018年に修復を終え、現在は再び美しい姿を見せています。

西側から見たところです。

回廊に沿って歩き、角を曲がりながら、何枚も、写真を撮りました。^^

これは、1900年代初めに撮られた、日成樓(ニャットタンラウ)です。基礎部分は現在よりも高く、そして階段にも美しい彫刻が施されていたのがわかります。(画像をお借りしました)

オリジナルと全く同じではありませんが、それでも、ここまで蘇らせることができたのは、関係者の尽力の賜物だと思います。


こんな美しい建物を、
戦争で何度も壊して、
そしてまた、建て直しているのですね…。
そもそも、壊さなければいいのに。
人間は、ほんとうに愚かだなあ…
と、思わずにはいられません。


いまここ。😄


(おまけのお話)


日成樓では、女の子たちが、みんなでつながって汽車ポッポの写真を撮っていました。ベトナムの女性は、こんなふうに、全員で同じポーズをとって写真を撮るのが好きみたいで、よく見かける光景です。^^

4年前のタンロン城でもやっていました。みんなで並んで、記念写真。😄
定年でもベトナム。ハノイで始める、お仕事日記 101 - ハノイ市内観光① タンロン城址(2019年10月11日/41日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

×

非ログインユーザーとして返信する