MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
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4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 72 - 王宮⑬ 折り戸付き廊下、内宮、勤政殿、乾成殿、坤泰殿、そして建中樓(2023年6月19日/6日め)

2023年6月19日 フエ王宮・「タ・チュオン・ドゥ」で休憩しました。^^


6月19日(月)


紫禁城のエリアに入り、
屋根のついた長い廊下を歩きました。


これは、長い廊下の終わるところを、反対側から撮った写真です。夫はここまで、まっすぐに歩き続けたようです。^^ ここからは、朱塗りの柱と金の装飾の世界になります。紫禁城の中枢部に入ったわけです。

一方MIYOは、廊下の最後まで歩かず、草むらの中を歩き始めました。前方、斜め右の方向に、赤いものが見えてきたので、近くまで行ってみます。

たくさんの扉がついているように見えます。

屋根では、龍が踊っています。

こちらも、屋根が付いた廊下でした。折り戸が取り付けられた、美しい朱塗りの廊下です。地図によると、この廊下の向こう側に、勤政殿、乾成殿、坤泰殿が並んでいたようです。

朱塗りの廊下を背に、歩いてきた方向をふりかえってみました。右に見えるのが、ここまで歩いてきた屋根付きの廊下です。眼前にある、レンガ敷きの通路の一番奥にあるのが、嘉祥門。その向こうに延寿宮のエリアが広がります。左側に塀のようなものが見えますが、ここから先が内宮でした。現在、内宮はすべてなくなっています。

内宮の位置です。現在の私たちは、折り戸付き廊下を背にして、右に屋根付き廊下、左に内宮を見ながら立っています。

折り戸のついた廊下を横切って、反対側に行きました。


それまでと同じく、
反対側にもなにもありませんでした。
ところどころに基礎が残るのみです。


この一帯は、かつては、
美しい建築物が続いた荘厳なエリアでした。
が、現在は、草に埋もれた基壇のタイルが
往事の姿を偲ばせるのみとなっています。


ここには、右から左(南から北)に向かって、勤政殿、乾成殿、坤泰殿が並んでいました。第二次大戦の終戦までは、宮殿の全ての建物が残っていました。が、フランス軍との交戦によって、フエはベトナム戦争で激戦地となり、1947年に、多くの建物が破壊されてしまいました。現在は、それらを結んでいた回廊が残るだけです。
・勤政殿
/ Điện Cần Chánh(南の大宮門を先頭に、皇帝が政務を執りました。)
・乾成殿 / Điện Càn Thành(皇帝の寝所でした。)
・坤泰殿 / Cung Khôn Thái(後宮の中心となっていました。)

さらにその背後には、建中樓もありましたが、1946年に破壊されました。
建中樓 / Lầu Kiến Trung(1923年、カイディン帝が建設しました。)

 *建中樓は、下の写真の左端に、わずかに写っています。

南から北に向かって一直線に並ぶ、勤政殿、乾成殿、坤泰殿です。すべて、現在は残っていません。

勤政殿とは、皇帝が政務を執った建物です。写真は、往時の勤政殿における儀礼の様子です。

かつて勤政殿があった場所です。今は草が生えているのみです。広場をはさんで、奥に見えているのが太和殿で、右に見えているのは右廡です。遠くには、フラッグタワーの国旗も見えますね。^^(画像をお借りしました)

乾成殿(皇帝の寝所)・坤泰殿 (後宮の中心)も、同様の状態が続きます。そして、皇帝が使用していた金の玉璽を模したオブジェの向こう側に、建中樓があります。(画像をお借りしました)

上に掲載している、9枚目の写真の左端に、建中樓が少しだけ写っていたので、拡大してみました。工事中で見学できなかったので、こんな写真しかないのですが。手前には、玉璽のオブジェも見えます。

1930年ごろの建中樓です。バロック様式の、美しい宮殿でした。(以下5枚、画像をお借りしました)

内部の装飾も、すばらしいものだったようです。

【建中樓】
1824年に建立した明遠樓を、1923年にカイディン帝が改築して建てたもので、皇帝の居住地として利用されていました。午門を正面から入り、一番奥に座している洋風建築です。正面66mにもおよぶ、煉瓦造の美しいバロック建築でした。しかし、第二次大戦後の1946年、ベトミンよって破壊されてしまいます。(当時、在留日本軍は、建物の保存を提案していたそうです。)
中国の紫禁城をモデルとしたフエ王宮は、そのほとんどがベトナム伝統的木軸工法で造られた木造建築です。しかし、皇帝の居城とされた建中樓だけは、フランスの技術による鉄筋コンクリート造の建築でした。木造建築と比べて強固で安全なので、当時の皇帝が暮らす居住地としては最適でした。しかし、細部をよく見ると、ベトナム的な装飾も施されており、越仏折衷様式の建築となっています。鉄筋コンクリート造でヨーロッパとベトナムの折衷様式である点は、カイディン帝廟のテイストと通じるものがあります。


この翌日に訪れた、カイディン帝廟。たしかに、純粋なベトナム様式には見えず、越仏折衷様式になっています。(2023年6月20日)

開口部や屋根の装飾は、建忠樓を彷彿とさせる出来栄えです。バロック様式の帝廟と言うのも、珍しいですね。^^


さて、1946年に破壊された建中樓ですが、
2018年から、再建工事が開始されました。


再建工事中の建中樓です。(画像をお借りしました)


私たちが訪れた2023年6月時点で、
建物自体は完成していて、現在は、
装飾や仕上げの段階に入っていたようです。


近い将来、こんな建中樓が見られるのかもしれません。(完成予想図)*出典:フエ古都遺跡保護センター


この宮殿は、グエン王朝最後の 2 人の皇帝、
カイディン帝とバオダイ帝の
生活や仕事の場所となりました。
1932年、バオ ダイ帝は、
その外観を残したまま、内部を改修し、
近代的な西洋の設備を追加しています。


その改修後、建中樓は、
バオダイ帝と家族の住居となりました。
ナムフォン皇后と出会ったのは、1932年。
そして結婚したのは1934年なので、
バオダイ帝による改修の時期は、
まさしくその頃と重なっています。


建中樓は、
美しいナムフォンに会ったバオダイが、
 彼女と結婚することを夢見て、
 彼女のために造らせた宮殿
と言えるのかもしれません。


バオダイ帝とナムフォン皇后、
そして子どもたちが共に暮らしたという、
建中樓。
その再建工事が終わるのは、もうすぐです。
いつか、宮殿の内部を、
ゆっくりと歩いてみたいと思います。


こうして王宮を見ていると、今現在も、
王宮内のあちこちで、修復や復元の工事が
進められていることがわかります。


6年前には工事中だった午門も、
長い工事を終えて、今回の旅では、
2階の五鳳凰樓を歩くことが
できるようになっていました。


度重なる戦争で被害を受けた、
フエ王宮の復興は、
まだまだ、現在も進行中です。
今から数年後には、必ず、
見学できるスポットが
さらに増えていることでしょう。
その頃に、また訪れるのが楽しみです。


まあ…。
それは今だから言える話で、
このときは、現時点で見られるところを
全部歩くだけでも、
そうとう難行苦行だったんですけどね…。😅


いまここ。😄

*今回の日記を書くにあたっては、建中樓に関する文献がとても少なく、苦戦しました。が、ベトナム在住の木造建築士・Koike Yusukeさんのブログを参考にさせていただき、大変助かりました。また、サイト中のお写真も、許可をいただき、使わせていただいております。
フエ王宮 建忠宮殿と再建案 | AMPLE.STYLE
Koikeさん、どうもありがとうございました。


(つづく)

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