MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 71 - 王宮⑫ 閉まっていた長寧宮。そして紫禁城へ。(2023年6月19日/6日め)

(2023/10/05 19:00記)

2023年6月19日 フエ王宮・延寿宮で。


6月19日(月)


タ・チュオン・ドゥで休憩したあと
再び、見学を開始しました。
時刻は3時。
まだまだ、日差しは強いです。😂


このあたりには、いくつかの門が残っているのですが、戦争時の爆撃で壊滅的な被害を受けており、ほとんど残骸のようになっていました。

左恭の隣りにも、同じように古い門があるのに気がつきました。

「これ、なんだろ?」と覗き込む、MIYO。

とりあえず、いっしょに写真を撮ってみました。笑

同じような門(の残骸)が、4つも続いています。


地図をのぞきこんでいた夫、
「この先には長寧宮があるはずだから、
 これはきっと、
 長寧宮に続く通路だよ。
 オレ、ちょっと見てくる。」
と言うやいなや、
連なる門の中を走って行きました。


元気だなあ…。😅
と思いながら、
MIYOはその場で待っていたのですが、
そこへ、当惑したような顔で、
夫が戻ってきました。


「…閉まってた。😥」
「へ?」


夫によると、この先は行き止まりになっていて、
それ以上行けなくなっていた、と…。


「たぶん、修復中かなにかで
 入れないんだと思う。」
と、残念そうな夫。
私も、もちろん残念だったのですが、
心のどこかで、ほっとする気持ちもありました。
「よかった。
 これで、スポットがひとつ減った。🤣🤣」
と…。


王宮に着いてから、ずっと歩いています。
かれこれ、10キロ以上は歩いています。
暑いし、だんだん疲れてきました。
もうこのへんで切り上げて、
帰ってしまいたい気持ちもありました。


でもこの日は、
「丸一日を使って、王宮を全部歩く。」
と決めていたし、
やっぱり、できるかぎり歩きたい。


そんな気持ちの中で、
自分からあきらめたのではなく、
「閉まっていたから行けなかった。」
というのは、なんだか、
天の助けのようでもありました。笑


そんなわけで今回は、
長寧宮の中には入れませんでした。


長寧宮(長生宮)です。(画像をお借りしました)


【長寧宮(Cung Trường Sanh)
1821年に建てられ、皇太后の宮殿として使われました。現在は、カフェ・展示スペースになっており、宮廷茶がポットで楽しめます(有料)。また、王族が身にまとっていた伝統衣装が展示されています。その他、ベトナムのデザイナーによる現代風のアオザイやアクセサリー、フエならではの工芸品やお土産品も展示・販売されています。


そんなわけで、長寧宮はあきらめて、次のスポットへと歩きました。これで、王宮の西側エリアはすべて歩いたことになります。

延寿宮のエリアから東の方向に開く、嘉祥門をくぐって…、

王宮の西側エリアから、再び中央エリアにもどりました。

ここからいよいよ、王宮の中央部。紫禁城が始まります。


【紫禁城(Tử Cấm Thành)
王宮の中央にあります。紫禁城は、王宮内部の宮殿地域でした。皇帝の政務および生活区画として、王宮内の他の施設とは別に、1804年に建設されました。
周囲約1km(東西342m南北308m)、高さ約3mの周壁に囲まれている敷地は、ほぼ、京都御所の半分ぐらいの面積です。紫禁城内には、主要な3つの建物が南北方向に一直線に並んでいました。
勤政殿 / Điện Cần Chánh(南の大宮門を先頭に、皇帝が政務を執りました。)
乾成殿 / Điện Càn Thành(皇帝の寝所でした。)
坤泰殿 / Cung Khôn Thái(後宮の中心となっていました。)
が、1947年に、フランス軍との交戦によって失われ、今はそれらを結んでいた回廊のみが残っています。
さらにその背後には、建中樓と明遠樓もありました。
建中樓 / Lầu Kiến Trung(正面66mにもおよぶ煉瓦造の美しいバロック建築でした。)
明遠樓(1824年に建立され、1923年にカイディン帝が改築しました。)
紫禁城は、建造当初は単に宮城と言いましたが、1822年に、建物を皇帝の色である黄色で塗り、中国に倣って「紫禁城」と改称しました。以来、紫禁城は概ね黄色で統一されています。黄色は、中国では中央を表わす色であるとともに、君王の衣服の色でした。紫禁城は、美しい建築物が続いた荘厳なエリアでしたが、20世紀半ばに、フランスとの交戦で焼失しました。現在は、草に埋もれた基壇のタイルが、往事の姿を偲ばせるのみとなっています。


紫禁城については、王宮日記の5話で、
午門から北方向に歩いたときにも、
少し書きました。
4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 64 - 王宮⑤ 紫禁城、世廟門、顕臨閣(2023年6月19日/6日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


このときは、
草が生えているだけの現状を見て、
とりあえず紫禁城には入らず、
王宮の西部エリアに移動しました。


そのまま、西部エリアを北進し、
つきあたりを東に移動することで、
再び、紫禁城に戻ってきたわけです。


長い長い廊下が見えます。

まずは、あの長い廊下をめざして歩きます。

あはは。珍しく、夫が座ってる。🤣 さすがの多動夫もちょっとお疲れのようです。

つきあたりまで歩いて右に曲がったら…、

目の前に延びる、長い廊下。気が遠くなりそうですが、がんばって歩きます。^^

かつては紫禁城と言われ、王宮の中枢となった場所でしたが、

今では中庭が広がるのみです。

長い廊下の途中で、ふりかえってみました。


廊下の向こうに、たったいまくぐってきた、
嘉祥門が見えました。
あの門の向こう側には、延寿宮があります。
すぐ隣りのエリアなのですが、
門をひとつくぐっただけで、
ここにはまったく異なる世界がありました。


いまここ。😄


(つづく)

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