4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 64 - 王宮⑤ 紫禁城、世廟門、顕臨閣(2023年6月19日/6日め)
(2023/09/28 18:30記)
2023年6月19日 フエの王宮・世廟門で。
6月19日(月)
ここまでで、
午門
五鳳凰樓
三関の坊門(牌坊)
太掖池と中道橋
太和殿(改修工事中)
馬厰・象厰(遊具場のプレハブ)
右廡・左廡
を歩いてきました。
まだ、ほんのこれだけです…。
ここから先には、紫禁城があり、
勤政殿、乾成殿、坤泰殿など、
多数の建築物が連続していたのですが、
すべて、フランスとの戦争で破壊され、
現在は残っていません。
*上の地図でグレーになっているのは、現存していない部分です。
紫禁城があったエリアです。(画像をお借りしました)
【紫禁城(Tử Cấm Thành)】
紫禁城は、王宮内部の宮殿地域です。皇帝の政務および生活区画として、王宮内の他の施設とは別に、1804年に建設されました。
周囲約1km(東西342m南北308m)、高さ約3mの周壁に囲まれている敷地は、ほぼ、京都御所の半分ぐらいの面積です。紫禁城内には、主要な3つの建物が南北方向に一直線に並んでいました。
・勤政殿 / Điện Cần Chánh(南の大宮門を先頭に、皇帝が政務を執りました。)
・乾成殿 / Điện Càn Thành(皇帝の寝所でした。)
・坤泰殿 / Cung Khôn Thái(後宮の中心となっていました。)
が、1947年に、フランス軍との交戦によって失われ、今はそれらを結んでいた回廊のみが残っています。
さらにその背後には、建中樓と明遠樓もありました。
・建中樓 / Lầu Kiến Trung(正面66mにもおよぶ煉瓦造の美しいバロック建築でした。)
美しい建築物が続いた荘厳なエリアでしたが、現在は、草に埋もれた基壇のタイルが往事の姿を偲ばせるのみとなっています。
「どうやら、このまま直進しても、
なにもなさそうだ。」
と気づいたので、ここから進路を変え、
世廟門から顕臨閣へと歩くことにしました。
ここからがたいへんな行軍になるとは、
あまり考えていませんでしたが。😂
世廟門は、午門の西にあります。
右廡の近くにある、新たな坊門をくぐって、西方向へ歩きました。
1番通りと8番通りの角で左折。ここからさらに直進します。
右手に、美しい装飾の門が見えてきました。あとで調べたところ、この門の向こう側には世廟がありました。さらに進みます。
到着しました。世廟門です。
ここから、顕臨閣、世廟、興廟、延寿宮など、
いくつもの建築物が南北方向に連なる、
ゴールデンエリアが始まります。
まずは、世廟門に施された装飾と、
8枚の絵を、じっくりと眺めました。
世廟門・正面の2枚です。中央の入口の両側にある龍は、番人の役割なのでしょうか。浮き彫りにされた龍は、こちらに向かって飛び出していて、いきいきと描かれています。どうぞ、拡大してご覧ください。
正面左端にある、青い花と鳥の絵です。裏側の同じ位置にも、やはり花が描かれています。
世廟門をくぐって、裏側を見ました。
裏側にある、水を吹く龍の絵です。それぞれの絵の下には、さらに小さな絵がはめこまれています。
世廟門の内側です。
世廟門をくぐると、目の前に現れるのが、
顕臨閣です。
顕臨閣
【顕臨閣(Hiển Lâm Các)】
グエン朝の菩提寺として知られており、1821年に建てられました。世廟の前閣にあたります。三階層の建物で、1821年に建てられました。顕臨閣の左側には崇功門があり、上層に鼓楼があります。また右側には峻烈門があり、上層に鐘楼があります。
顕臨閣の裏手には、9つの鼎(かなえ)が置かれています。これを九鼎(きゅうてい)と言います。鼎とは、三本足で立つ青銅製の釜のような金属祭器のことで、九鼎は古代中国において天子(=王権)の象徴とされているものでした。グエン王朝ではミンマン帝によって鋳造されました。鼎1つの重さは約2.5t。高さ約1.5mで、口径約1.4mもあります。各鼎には高・仁・章・英・毅・純・宣・裕・玄の字が刻まれ、またそれらの全体には、フォーン川(香河)や御屏山などの景勝をはじめ、虎や象などの動植物、天体などの様々なモチーフが施されています。
2階、3階部分です。
内部に置かれている、木製の階段です。
顕臨閣の内部では、階段にも壁にも、美しい彫刻が施されています。
入り口と反対側の開口部です。
手すりの向こう側に見えているのは、世廟です。
顕臨閣を奥へと進み、裏側に出ました。
顕臨閣の裏手には、
9つの鼎(九鼎)が並んでいます。
次回は、この周囲を歩いてみます。
いまここ。😄
(つづく)