4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 69 - 王宮⑩ 静明楼とナムフォン皇后(2023年6月19日/6日め)
(2023/10/03 19:00記)
2023年6月19日 フエ王宮・静明楼で、ナムフォン皇后の存在を知りました。
6月19日(月)
グエン朝初代皇帝であるザーロン帝が、
母親のために建てた住まいである、
延寿宮に来ています。
主宮を見学したあとは、
ヒンプンの左側(西側)にある、
静明楼に入りました。
静明楼です。これまでに見てきたものとは、趣が全く異なります。
【静明楼】
1932年に、9代皇帝であるドンカイン帝(同慶帝)の皇后(タンクン夫人)のための医院として建造されたものです。「夫人が重度のリウマチを患い、湿気の多い場所に住むことができなかったために、療養の場として建てられた」という経緯があったため、夫人の健康を気遣い、湿気の多いヴェトナムの伝統建築様式ではなく、風通しがよいフランス・コロニアル建築様式に基づいて建てられたそうです。1935年にタンクン夫人が亡くなった後、静明楼は、バオダイ帝の母であるトゥクン夫人の住居となりました。その後、1950年に、建物はバオダイの一時的な居住空間として拡張されています。
玄関のポーチ。屋根の部分はベランダになっています。皇后のために造っただけあって、女性が喜びそうな外観です。花をあしらった、かわいらしい装飾がたくさん施されていました。
玄関ポーチへとつづく階段。陶片を使ったモザイク模様にもご注目ください。
静明楼の内部です。王族の写真が、たくさん飾られていました。
ダイ王朝の衣装を着たドアン・ホイ皇太后の写真です。12代皇帝であるカイディン帝(啓定帝)の妻であり、グエン朝最後の皇帝であった13代バオダイ帝の母でした。
ここで、この写真に目が留まりました。
左側は、ドアン・ホイ皇太后。
では右にいるのは誰なのでしょうか…?
そのきっぱりとした美しさから、
目をそらすことができず、
じっと彼女を見続けました。
注釈を見ると、
Nam Phương Hoàng hậu
Queen Nam Phuong (1914-1963)
とあります。
あとで調べてみたら、彼女は、
最後の皇帝であったバオダイ帝の妻。
つまり、ナムフォン皇后となった人でした。
彼女のことが気になって、気になって、
忘れることができず、
その後も、ベトナムを旅行しながら、
いくつもの文献を読みました。
(最近は、ベトナム語の文献であっても、
ネット上で瞬時に日本語に変わってくれるので、助かります。^^)
このブログでは、
王宮内部のようすを書き続けているので、
今回は少しテーマがずれてしまうのですが、
私がとても心魅かれてしまった、
ナムフォン皇后の生涯について、
ここで書いておきたいと思います。
【ナムフオン皇后】
グエン王朝の最後の皇后です。本名はグエン・ティ・フウ・ラン(1914年12月14日ティエンザン省生まれ)。ベトナムで最も裕福な家庭に生まれました。ベトナム生まれではありますが、マリエット・ジャンヌという名前でフランス国籍も持っています。幼少期から、ベトナム国内にある学校でフランス語による教育を受けたあと、12歳からはフランスに送られ、パリの名門女子学校に通いました。そして18歳で学士号を取得して卒業。1932年9月に、ベトナムに帰国しました。
幼少期のナムフォン。
帰国後、彼女は、ダラットでバオダイ帝に出会います。そのときに、バオダイ帝は彼女にひとめぼれしたようです。しかし彼女がカトリック教徒であったため、彼女との結婚は王室から猛反対されました。それでもバオダイ帝は、あきらめませんでした。
二人の結婚式がフエで行われたのは、1934年3月20日。新郎は21歳で、新婦は19歳でした。その後、「南の娘」を意味するナム・フォンの称号をバオダイ帝から与えられ、皇后に叙階されました。それまでの12代までは、皇后の称号が与えられるのは皇帝の妻のみで、しかも、皇帝の死後に限られていました。ナムフォンが、皇帝の存命中に皇后となったのは、極めて異例なことです。がこれは、ナムフォンの父親が、結婚に際してバオダイ帝に呈した条件でした。そしてナムフォンに首ったけだったバオダイ帝が、その約束を守ったということのようです。
バオダイ帝とナムフォン皇后です。結婚式の後、ふたりは紫禁城地区にあるキエンチュン宮殿(建中樓)に移り住みました。
皇后となったナムフォン。
富豪の家に生まれてカトリック教徒だったナムフォンは、フランスで育ったことにより、当時のベトナムにおける普通の従順な女性とは少し違っていたのかもしれません。結婚後、王宮内の古いしきたりに、従わないこともありました。ナムフォンは臆することなく、自分の考えを通したのでしょうが、そのことで、姑にあたるドアン・ホイ皇太后には、苦々しい思いもあったようです。
2年後の1936年1月、王子・バオロンを出産。
バオロン王子です。お母様に似て、超絶の美しさ。大きな目には、バオダイ帝の面影もありますね。^^
彼はその後、少年期にフランスに亡命。フランスの外人部隊で10年間活躍し、いくつもの勲章を得ています。
王子がイケメンだったのでつい脱線しましたが、ナムフォンはその後も次々と子宝に恵まれ、5人の子どもたち(王子2人、王女3人)の母となりました。
結婚当初、バオダイはナムフォンをとても愛しており、どこにでも一緒に連れて行きました。バオダイ自身も留学経験者で、13歳から19歳までの多感な時期をフランスで過ごしていただけに、同じように長くフランスで過ごしたナムフォンと、響き合うことも多かったのでしょう。ナムフォンもまた、皇后としてバオダイを支えました。フランスで育った彼女は、海外からの賓客を通訳なしでもてなし、フランスとのコミュニケーションを図るなど、多くの外交活動を行っています。
身長170㎝で美貌の持ち主だった彼女は、実は結婚前に、「ミスベトナム」に2回も選ばれています。フランスのオートクチュールを着こなすなど、美しい装いの彼女は国民の注目の的で、当時のファッションアイコンとなったそうです。
外交活動だけでなく、ナムフオンは、社会事業、学習促進、優秀な学生への報奨、貧しい人々の支援、社会における女性の役割促進においても、責任者に任命され、活躍しました。ベトナムにおいて初の、ファーストレディの役割を務めた女性であったとも言えます。
結婚後の10年あまりが、彼女にとってもっとも幸せな時期だったのかもしれません。1945年、8月革命が起こり、ベトナム民主共和国が誕生しました。同年8月30日、バオダイ帝は午門で退位を宣言し、ベトナム民主共和国臨時政府の代表に剣の印章を引き渡しました。
この頃のナムフォンと子どもたちです。
1945年9月、バオ ダイは政府の最高顧問の職を受け入れ、ハノイに赴きました。一方、ナムフォンは王宮を出て、5人の子供たちと共にアンディン宮殿に移り住み、革命を支援する多くの活動に参加しています。
王宮を出たナムフォンが子どもたちと共に住んだ、フエ・アンディン宮殿。
一家は一時、ダラットでも暮らしています。その頃に撮った、ナムフォンと子どもたちの写真です。(1947年)。
退位を宣言した頃から、バオダイは他の多くの女性と乱交の道を歩み始め、ナムフォンと暮らすことはなくなりました。ハノイに行った頃は、愛人と同居しており、その後は愛人と香港で暮らしています。
私にとって、
忘れられない、一枚があります。
バオダイ帝の写真の前で5人の子どもたちと撮った写真です。ナムフォンにとっては、家族写真のつもりだったのかもしれません。
この頃、香港でバオダイと暮らす女性に、
ナムフォンはなんと、手紙を書いています。
「夫のお世話をしているそうですね。」
と。
その手紙は、
「ベトナムで最も嫉妬に満ちた手紙」
として、今も残されているそうです。
嫉妬ではなく、
「寂しさに満ちた手紙」
だと思うのですが。
ナムフォンはずっと、
夫の帰りを待っていたのだと思います。
やがて、ベトナムとフランスの間の政治的および軍事的状況が緊張し、戦争が近づいてきました。ナムフォンは子どもたちとアンディン宮殿に住んでいましたが、義母であるドアン・ホイ皇太后も避難してしまいます。残った彼女は絶望感を抱え、ついに1947年、子どもたちを連れてフランスへ向かいます。渡仏後は、子どもたちをクーヴァン・デ・オワゾー高校に通わせました。上流階級の子弟が通う学校だったようです。そしてカンヌを離れ、パリから約500km離れたシャブリニャックの田園地帯にある、ドメーヌ・ド・ラ・ペルシュ城に移住しました。ナムフォンには、両親から受け継いだ莫大な財産があったため、生涯、生活に困ることはなかったようです。
ナムフォンが晩年に住んでいたドメーヌ・ド・ラ・ペルシュ城。
この城に住むようになってから、彼女は、時折、子供たちに会いにパリに行くことはあったようですが、社交のために外出することはほとんどありませんでした。当時は、バオダイもフランスにいたのですが、彼女に会いに来ようとはしませんでした。ナムフォンはその後、心臓病を患い、1963年9月14日、この城で息を引き取りました。48歳でした。翌日に葬儀が行われましたが、バオダイが参列することはなかったそうです。
ナムフォンの遺体は、シャブリニャックのカトリック墓地に埋葬されています。その石碑には、フランス語で「ここにベトナムの皇后が眠る - ジャンヌ - マリエット・グエン・フー・ハオ、1914年12月4日 - 1963年9月15日)」と記されており、裏には「ダイナム ナムフォン皇后陵」と漢字で書かれています。
静明楼で会った一枚の写真に魅かれ、
美しくあでやかだったナムフォンの生涯を、
知れば知るほどに、もっと知りたくなり、
いくつもの文献を読みました。
美貌の皇后として注目され、
脚光を浴びる生活を続けながらも、
グエン王朝の終焉に翻弄され、
最後は、フランスの古城で、
医師の到着を待つことすらなく、
メイドだけに見守られて、
寂しく亡くなった、ナムフォン。
容体悪化の急報を受けて、
子どもたちもかけつけたのですが、
間に合わなかったそうです。
その数奇な人生には、驚くばかりでした。
バオダイに嫁がなければ、彼女の人生は、
もっと幸せだったのかもしれない、
と、思うこともありました。
けれど彼女は、5人の子どもたちに恵まれ、
その子どもたちを守り通し、
りっぱに育てあげました。
彼らはその後、ヨーロッパで、
旧王族の名に恥じることなく、
ひっそりと、それぞれの人生を送っています。
ナムフォンの生涯は、少なくとも母親としては、
幸せだったのではないか、とも思います。
けれどもしも、もしも最期のときに、
彼女の傍らにバオダイが寄り添っていたなら。
たとえ王室が亡くなり、
皇后の座を追われようとも、
彼女はその生涯を、幸福感に満ちて
終わらせることができたのではないか…。
彼女は死の床でも、最後の瞬間まで、
バオダイを待っていたのではないか。
…そう思えてなりません。
1932年に、9代ドンカイン帝の皇后のために建てられた静明楼。最後の13代バオダイ帝が退位するまで、静明楼は皇后のための建物であり続けました。その愛らしい佇まいは、かつてこの静明楼で時を過ごした幾人もの女性たちの、喜びや悲しみをも包み込んでいるかのようでした。
次回は、左恭を歩きます。
延寿宮の美しい窓から垣間見た、左恭です。
いまここ。😄
(つづく)