4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 67 - 王宮⑧ 神厨、毓慶門、応祥門、興廟門、興廟、彰徳門(2023年6月19日/6日め)
(2023/10/01 19:00記)
2023年6月19日 フエの王宮・応祥門で。
6月19日(月)
ここまでで、
午門、五鳳凰樓
三関の坊門(牌坊)、太掖池と中道橋
太和殿(改修工事中)
馬厰・象厰(遊具場のプレハブ)
右廡・左廡
紫禁城、世廟門、顕臨閣、九鼎
崇功門、峻烈門
世廟、更衣殿、崇成門、篤祐門
を歩いてきました。
そろそろ世廟を終わって、
興廟に行きたいところなのですが、
多動夫がいっしょなのでそうもいかず、
世廟の周囲をウロウロと彷徨しました。😂
世廟から興廟へ行くために、
東西の門が設けられています。
そして困ったことに、
この移動ルート上には、いくつもの、
見学スポットが続いているのです。😂
多動夫が、それを見過ごすはずはありません。
言い方を変えると、
「小さな見どころがたくさんある。」
ということなんですけどね…。^^
興廟の西側にある神厨(しんちゅう)。神厨とは、神へ捧げる供物を調理するくりやのことです。御供所(ごくうしょ)とも言います。
興廟の正面・右にある、毓慶門。
世廟と興廟の間にある、応祥門です。世廟と興廟は隣り合っているので、ふたつの間にある門には、呼び名がふたつあります。この門は、世廟側では応祐門なのですが、裏の興廟側では応祥門と呼ばれます。
応祥門です。この門の向こうに世廟があり、手前に興廟があります。
応祥門をくぐれば、こっちのもの。笑
ここからは興廟エリアです。
めざす興廟へと急ぎました。
まずは、ひときわ美しい廟門が出迎えてくれました。興廟門です。
世廟の前に世廟門があったように、
興廟の前には興廟門がある、
ということのようです。
興廟は、周囲を壁に囲まれており、
興廟門は、その壁の正面に造られています。
廟門をくぐり、ようやく興廟に到着しました。
【興廟(Hưng Miếu)】
世廟の後方(北側)にある廟で、1804年に建てられました。初代皇帝ザーロン帝(嘉隆帝)の父、グエン・フック・ルアン(グエン王朝のルーツである広南朝の王族・第8代皇帝の武王の次男)を祀る場所です。柱間7間二棟造りで、さらに一周の壁に囲まれ、正面に興廟門を開いています。
興廟は、建立当初は皇考廟と呼ばれていました。が、1821年、ミンマン帝によって改修・移建された際に、興廟と改められました。1947年にフランス軍との交戦によって焼失し、現在の興廟は、1951年に瑞輝皇太后によって再建されたものです。
この区域は残存状況が良く、ある程度修復もなされているので、午門や太和殿と並び、フエ王宮の見所のひとつになっています。
側面から撮った興廟です。龍が舞う屋根がすばらしいです。
興廟を出て、さらに西に歩くと、
モザイクが施された門がありました。
これは彰徳門で、
皇城(阮朝王宮)の西門にあたります。
彰徳門
【彰徳門】
フエの王宮は、四面に一つずつの門を開いています。南を午門、東を顕仁門(ヒエンニャン)、北を和平門といい、西側に設けられたのが、この彰徳門でした。創建後、1923年(啓定8年)に改築されています。
彰徳門には、たくさんの花々がモザイクで描かれています。
門の中央部です。
2階部分。
地上部分。
こんな風に、陶片のモザイクで花が描かれています。その周囲のモザイクもすてきです。
神々しいまでの美しさだった、彰徳門。
美しい彰徳門を見て、少し元気がでました。
彰徳門(西門)を左に見ながら、再び、北へ向かって歩きます。両側の煉瓦塀に今も残る傷跡は、ベトナム戦争時の弾痕だそうです。
ずうっとまっすぐ続いている道。
この道は、王宮の北西の角まで、
延々と続いています。
すごいね。
だあれも歩いてないよ。
まるで、王宮貸切状態だよね。
…などと、アホなことを言いながら、
炎天下を歩き続けました。
時刻は午後2時。
日中のいちばん暑い時間でしたが、
とにかく、次のスポットをめざします。
このあたりで見かけた花です。
いまここ。😄
(つづく)