MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 39 - ハロン湾船上ホテルにお泊まり㉔ 感謝と祈りをこめて(2023年6月17日/4日め)

2023年6月16日 ハロン湾で。ヘンリーが作ってくれたフォトカードです。


6月17日(土)


毎日、ハロン湾のことばかり書いているので、
PCの画面上には、ハロン湾の広告が、
頻繁に表示されます。


たとえばこんな感じですね。クルーズ船の広告が多く、つい見入ってしまいます。

いろんな船がありますが、
いまだかつて、私たちが乗った船
(COZY BAY CRUISE: 125ドル)
 *一泊4食付き。3か所観光を含む。
よりもお安いクルーズ船を、
見たことがありません。🤣🤣


お安いだけに、
豪華船とは言い難かったのですが、
我が家では、「安さいちばん」です。
広告を見ながら、
「ふふふ。しめしめ…。」
と、ほくそ笑んでいます。(アホ)


さて、トゥアンチャウ港に到着したあとは、
トイレ休憩を兼ねて、
お土産物屋さんめぐりをしながら、
ハノイへと向かいました。


ロータスティー。箱入りと、かわいいポーチ入り。


【ベトナムの蓮茶】
蓮茶(tra sen, che sen)は、蓮をブレンドしたベトナムの緑茶で、花茶の一種です。
以下のような方法で、緑茶に蓮の香りを添加しています。
①緑茶の葉を一晩、花の中に寝かせる。
②花からおしべをすべて取り、一晩、茶葉といっしょにして寝かせるか、一緒に乾かす。
これらの作業を何度も繰り返し、花香を高めます。高品質の茶の場合、伝統的なプロセスを完成させるために、茶1キロあたり1000もの蓮の花が必要になります。
蓮茶を淹れるときは、ポットの中に2分ほど置きます。「90度以下の低温で、蒸らし時間は2分以内」という人もいます。


2009年にベトナムで買ったランチョンマットは、こんなに凝ったデザインではありませんでした。

色鮮やかなトレー。こんなのも、前はありませんでした。お土産はどんどん洗練されているように感じます。

色遣いがとてもすてき。

少数民族柄のポーチ。

多動夫はお酒の写真しか撮りませんが。ダラットのワインを買いたかったのですが、高くてあきらめました。

ハノイのウォッカだそうです。😅

結局なにも買わなかったけど、見ているだけで楽しめました。^^

帰りのバスの中で、夫と食べたおやつ。ANAでもらったあられと、ビジネスクラスの食事のデザートだったブルーベリーチョコケーキ。そして、北海道の北菓楼で買った北海道開拓あられ(えりも昆布)。どれもおいしい~。笑


さて、ワンナイトクルーズの旅も、
終わりに近づいてきました。


ハロン湾でいちばんの思い出になったのは、ワン家のみなさんとの出会いでした。


最後に、
ヘンリーのフェイスブックに掲載されていた、
写真をご紹介したいと思います。


「あなたのフェイスブックの写真を、
 何枚か、ブログに掲載していいですか。」
と、ヘンリーに問い合わせたところ、
「フェイスブックの写真は、
 いくらでも、好きなだけ載せていいから。」
と、快諾していただきました。^^
(ありがとうございました。→ヘンリー)


私たちと別れた後、ワン家のみなさんは、
ベトナム中部を旅行し、その後さらに、
南部のサイゴンまで到達しました。
45年前に彼らが住んでいた、
チョロンの町を訪れたそうです。


左:かつてヘンリーたち兄弟のお父さんが勤務していた、軍の病院。お父さんは、この病院の経営幹部だったそうです。
右:ヘンリーが4年生から7年生まで通った中華学校(穗城學校)。1975年に廃止され、現在は普通の小学校になっていました。


ツアー中、ワン家の人々は、
家族同士では中国語で話していました。
私と夫は、30年前に
北京語を習ったことがあるのですが、
彼らの中国語は一言も聞き取れませんでした。


ヘンリーに訊いたところ、
「家族のあいだでは、
 広東語と海南語で話しています。
 学校では、北京語で勉強しました。」
ですと…。
ベトナム語と英語は当然話せるので、
5つの言語を使えるんですね…。
すごいなあ…。🤩🤩


いかにもベトナムらしい、間口の狭い家が並んでいます。左端の、「九龍珈琲室」というカフェをご覧ください。ここは、45年前に、ワン家の人々が住んでいた家でした。

お店の前に立つ、ヘンリーとスアンおかあさん。1975年まで、この家で暮らしていたそうです。

この部屋はかつて、スアンおかあさんとご主人の寝室だったそうです。

その同じ部屋に、8人が再びそろいました。

上:1974年に撮った、スアンおかあさんと子供達。長男が写っていないのは、写真を撮っていたからかもしれません。この4年後、一家はベトナムを出ました。
下:2023年に同じ家で撮った、49年後の一家。お気づきでしょうか。ひとりひとりが、49年前の写真
と同じ位置にいるのです。胸が震えます。


バスは、ハノイ市内に入りました。
お別れです。


先にバスを降りていった、ワン家の人々。総勢8人だけに、すごい荷物です。長男・ミンが、しっかりと確認していて、いかにも長男らしい。笑

楽しい思い出をありがとう。


動き始めたバスの中で、窓越しに、
彼らを見送りました。
そして彼らが見えなくなった時、
私のハロン湾の旅が、
終わったような気がしました。


(つづく)


(さらにその後のお話です)


クルーズが終わってからも、
夫は毎日のように、
ヘンリーのフェイスブックを見ていました。
なので、その後の彼らのようすを
垣間見ることができました。
けれど、そのフェイスブックで、
悲しいニュースを知ることになりました。


ベトナムの旅を終え、6月下旬に、
一家はアメリカに帰国したのですが、
その後まもなく、7月17日に、
カー叔父さんが亡くなられたそうです。
82歳でした。


スアンおかあさんと同じように、激動の人生だったと思います。(ヘンリーのフェイスブックから)


幸せそうな、カー叔父さん。
お別れする時、
私の手をしっかりと握ってくれたことが、
今も心に残っています。
この写真を加工したヘンリーの気持ちが、
わかるような気がしました。


「家族全員、8人がそろって、
 かつての故国に戻って、
 45年前に住んでいた場所を
 訪れることができたのは奇跡です。
 おじさんは、きっと満足して、
 幸せな気持ちで旅立たれたことと信じます。
 みなさんへの感謝と共に、
 ご冥福をお祈りいたします。」
と、メッセージを送りました。

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