コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 113 - ニッカウヰスキー余市蒸溜所⑧ ニッカミュージアム(竹鶴夫妻の部屋)/ 竹鶴政孝記念庭園とイチイの木(2021年11月13日/11日め)
(2023/04/18 16:00記)
2021年11月13日 ニッカミュージアムで。通路の両側には、かつて竹鶴夫妻が暮らしていた部屋が再現されていました。(北海道余市郡余市町)
11月13日(土)
ニッカウヰスキー余市蒸溜所で、
ニッカミュージアムの中を見学しています。
最後に訪れたのは、
「竹鶴イズム」のコーナーでした。
ここでは、竹鶴政孝の生い立ちや、
スコットランド留学、そして、
ニッカ創業のストーリーを紹介しています。
竹鶴氏が記録した、スコットランド・カンベルトンでの実習報告。
竹鶴氏が余市に来たのは、1934年のことでした。そして、余市でのリタさんとの暮らしが始まります。
正装した、竹鶴夫妻。
ドラマ「マッサン」で使用した衣装です。左から、エリー、マッサン、熊虎、そして俊夫のものです。
夫妻の愛用の品々。
そして隣りの部屋には、かつて、竹鶴政孝・リタ夫妻が暮らした部屋が、そのままに再現されていました。
上品な調度品が並んでいます。
リタさんが弾いた本物のピアノは、旧竹鶴邸にあるそうです。
テーブルの上には、6ペンス銀貨と指ぬきが、ガラスケースに入れて飾ってありました。
政孝氏とリタさんが出会ったのは、1919年。カウン家(リタさんの実家)のクリスマスで行ったプディング・ケーキ占いで、政孝氏は6ペンス銀貨を、そしてリタさんは銀の指ぬきをもらったのだそうです。
室内には、「蛍の光」が流れていました。
日本では、別れの歌として知られていますが、
これは実は、スコットランド民謡です。
リタさんのピアノと竹鶴氏の鼓に合わせて、
リタさんの妹ルーシーが歌ったのは、
ふたりが出会ってから間もなくのことでした。
このときから、「蛍の光」は、
忘れられない歌として、
ふたりの胸の奥深くに残り続けたそうです。
かつてふたりが暮らしていた頃の、
そのままの佇まいに、ただ一人立ちつくして、
「蛍の光」のメロディを聴いているうちに、
なぜか、涙があふれてきました。
穏やかな笑みをたたえた、リタさん。
着物を着て、異国の暮らしを受け入れ、
生涯、竹鶴氏の偉業を支え続けました。
リタさんが漬けた梅干は、今も、
夫妻の家に残されているそうです。
ああ、そうだ。
私がこの余市蒸溜所に来て、
一番見たかったのは、
この人の、この笑顔だったのだ、
…と、そのときに思いました。
1934年、鎌倉に住んでいた頃のリタさんです。
(つづく)
(おまけのお話)
ニッカミュージアムを出ると、「竹鶴政孝記念庭園」があります。
石に刻まれた文字を書いたのは、竹鶴威氏です。
竹鶴政孝氏の甥(政孝氏の姉の息子)で、
やがて彼の養子となった方です。
竹鶴威氏は、大日本果汁時代に入社して、
竹鶴政孝氏と共に尽力し、
後にニッカウヰスキーの社長になりました。
これはイチイの木。北海道では「オンコ」と呼びます。
これは、北海道に到着した日に、平岡樹芸センターで見たイチイの木です。(2021年11月3日)
イチイの木についての説明は、こちらに書いてあります。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 5 - 平岡樹芸センター④ / RAMEN RS 改でお昼ごはん(2021年11月3日/1日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。
余市に入植した会津藩士団のために造られた「開村記念碑」にも、イチイの木が植えられていました。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 105 - よいち水産博物館④ 北海道鰊大漁概況之図、奥寺家の神棚、そして会津藩士団(2021年11月13日/11日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。
ニッカウヰスキー余市蒸溜所のお話は、
あともう少し続きます。
次回は、ディスティラリーショップに行きます。